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追憶の霧、眠りの淵への道   作者: Rurusia Lulihime
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第7章:死の影の下、隠された姿事象の地平線の終焉、砕け散る炎の顕現。

戦いの舞台は、岩山の中央に広がる広大な荒野。地表は数千年の歳月をかけて押し固められたかのように平坦で硬く、空気は完全に静止していた。風もなく、生き物の気配もない。その場所は、あたかも外の世界から完全に切り離された断絶された聖域のようだった。


最初の突風が濃灰色の石畳を駆け抜け、大気の震えが虚空に反響した。薄暗い紫色の光が光源もなく空気中に染み渡り、重苦しい雰囲気が、あたかも時が止まったかのような錯覚を抱かせる。


ミカエルは広場の中央に立っていた。その姿は静穏そのもので、瞳には何の感情も映っていない。片手からわずかに漏れ出したエネルギーだけで、足元の岩盤に細かい亀裂が走る。彼女から放たれるプレッシャーは激越ではないが、逃れようのない重力のように、確実かつ重厚に辺りを支配していた。


微かな足音が響く。一歩一歩、石の地面を踏みしめるリズムが静寂の中で際立つ。漆黒の紫の影の中から、ロリータの姿がゆっくりと現れた。


濃紫色の長い髪が、全身を巡る魔力の奔流に従ってしなやかに舞う。紫と桃色が混ざり合った瞳は、宝石のように鋭い光を放っていた。その呼吸は規則正しく、冷徹なまでに落ち着いている。


肩をわずかに露出させたオーバーコートの下からは、繊細な意匠の濃紫色レースのインナーが覗く。機動性を最優先したかのような装い。紫とピンクのチェック柄のミニスカートが、歩みを止めた瞬間にふわりと揺れた。白いニーハイソックスと、右腿に巻かれた黒いガーターベルトのコントラストが、挑発的でありながらも気高い優雅さを演出している。


その装いは自由な動きを約束し、一挙手一投足に、言葉を必要としない確固たる自信が宿っていた。


ロリータはミカエルから十歩足らずの距離で足を止めた。言葉は交わされない。ただ二つの重圧が重なり合い、上空の薄明かりが激しく揺らめく。


ロリータが静かに手を挙げた。しなやかな指先がかすかに動くと、淡い紫の光が火花を散らす。広場の地面に落ちた影が流体のように蠢き始め、数条の影の触手が彼女の足元から全方位へと広がり、一切の予断を許さずミカエルへと襲いかかった。


ミカエルの動きは、たった一度きりだった。


短く一歩、つま先を軸に体を転換させる。影の刃は空を切り、彼女の髪をわずかに揺らしたに過ぎない。足元の岩盤は、彼女の体を通り抜けた力によってさらに深く砕けた。すべての影は、完全に標的を見失った。


ロリータはわずかに眉を上げ、ミカエルの実力を再評価した。彼女は再び腕を振るう。複数の影が収束し、長大な剣へと変貌して地面から突き出した。それらは回避不能な角度から、全方位的にミカエルを強襲する。


ミカエルはゆっくりと手を挙げた。


たった一本の指を。


目に見えない衝撃波が瞬時に放たれた。地面から石礫が舞い上がり、影の剣は空中で一斉に粉砕された。それらは彼女の体に触れる前に紫の塵となり、霧散した。


ロリータは一歩下がり、瞳に真剣な光を宿した。彼女が踵で地面を叩くと、衝撃音が辺りに轟く。紫の魔力が辺り一面を呑み込み、数条の影が頭上で巨大な槍の構造へと融合した。その圧倒的な質量が、広場の岩盤をさらに無残に引き裂いていく。


その瞬間、ロリータが地を蹴った。


先ほどとは比較にならない速度。


周囲の空気が裂け、影の槍は一切の躊躇なく振り下ろされた。


槍が届く直前、「パキィン」という破砕音が響いた。巨大な影は空中で微塵に砕け、薄紫色の煙となって消えていく。ロリータは反動で後退を余儀なくされ、つま先で地面を捉えて踏みとどまった。


そして、二人の視線が交差する。


「……これだけかしら。期待外れね、ミカエル」


傲慢と蔑みを孕んだ少女の声が響く。


「吹き飛ばされたばかりで、よくそんな口が利けるものね?」


広場の一端に立つロリータ。濃紫の衣装が灰色の背景に鮮やかに映え、ラベンダー色の髪が風もないのに静かにたなびく。桃紫色の瞳が、真っ直ぐに敵を射抜いていた。彼女の周囲には、構えを取るまでもなく強大なエネルギーが凝縮され始めている。


対するミカエルは、微動だにせず静止していた。しかし彼女の足元の地面は、狭い範囲でひび割れ始めている。その亀裂はある一定の範囲で止まっており、すべての力が外部へ漏れ出さないよう完璧に抑え込まれている証左だった。


沈黙が続く。


次の瞬間、両者が同時に動いた。


空気が引き裂かれる絶叫が響く。ロリータが肉薄し、その後方の空間は速度の余波で幾層にも歪んだ。足元の岩盤が砕け散るが、その破片は遠くへ飛ぶことなく、凄まじい圧力によってその場で粉砕され、地面へと押し固められた。


ミカエルは一歩も引かずにその一撃を受け止める。拳と掌が衝突するたびに、激しい震動が大地を揺らした。衝突点周辺の空間が歪み、金属が擦れ合うような重低音が鳴り響く。


エネルギーの奔流が解き放たれた刹那、それらは中心へと強引に引き戻された。周囲の硬岩は粉末状に粉砕されるが、被害はそれ以上に広がらない。何らかの力が、破壊を一定の境界内に封じ込めていた。


ロリータは一歩後退した。白いソックスがわずかに埃で汚れたが、その足取りは依然として揺るぎない。彼女は再び姿を消し、ミカエルの死角へと瞬時に転移、正確無比な一撃を叩き込む。


ミカエルはわずかな上体の逸らしでそれを回避した。攻撃は数センチの差で空を切ったが、通り過ぎた衝撃は空気を切り裂いて一瞬の断裂を生み、直後に閉塞した。その地点の地面はわずかに陥没したが、異常な密度で圧縮され、それ以上の崩壊を拒んでいた。


両者は超高速の攻防を繰り広げ、その動きはもはや視認不可能な領域に達していた。衝突音が連続して響き、石の広場が絶え間なく震える。


莫大なエネルギーがすべての挙動に凝縮されていた。霧散せず、爆発もせず、すべてが精密に制御されている。


二人が再び距離を取った時、周辺の地形は保たれていたが、中央の岩盤は不自然なほど滑らかに押し固められていた。周囲の空気は呼吸すら困難なほど重く、致命傷を負った者はいないものの、場は臨界点に達していた。


ミカエルが突如としてすべての動きを止めた。彼女はただ佇んでいるだけだったが、周囲の環境に異常な変調が起き始める。ロリータの周囲の空気の流れが止まり、あらゆる音が消え去った。まるで、すべてが沈黙という深淵に飲み込まれていくかのように。


ロリータは肉体が反応する前にその異常を察知した。あらゆる方向から彼女を押し包むプレッシャー。それは飛来する攻撃ではなく、絶え間ない「圧縮」だった。周囲の空気は次第に質量を増し、空間そのものが一つの中心点に向かって収縮し始めている。


「……しまっ、はめられたわね。重力が増大すれば、空気は引き寄せられ、高密度で圧縮される。気体は液体へ、そしてやがて固体へと変質するわ。その場所は、極めて高密度な質量の塊へと変わる……」


「電子は原子核へと押し込まれ、陽子と合体して中性子に変わる。この空間の物質は『中性子物質ニュートロニウム』へと変貌する……グリーンピースほどの大きさで数百万トンもの質量を持つ物質に」


ロリータの足元の岩盤が、衝撃ではなく「重み」によって静かに沈み込み始めた。砕けた石礫は飛び散ることなく、圧縮されて地面の中へと消えていく。


ミカエルがゆっくりと手を挙げ、指先をわずかに動かした。目に見えないが、その変化は劇的だった。ロリータの周囲の空気は異常な密度にまで達し、光は屈折し、歪み、ロリータの輪郭は陽炎のように揺らぎ始めた。


「そして最後には――ブラックホールになる。バカなミカエル……この世界を滅ぼすつもり!?」


あらゆる方向から引き込む力が形成される。次の瞬間、ロリータの周囲の空間は完全に崩壊した。圧縮された空気が一点に収束し、彼女を取り囲む完全な漆黒の円が誕生した。外部の光はもはやその中へ届かない。周囲のあらゆるものが、その中心へと抗いようもなく引き寄せられていく。


極小のブラックホールが完全に形成され、すべてを限定された境界の内側に封じ込めた。周囲の地面には同心円状の深い亀裂が走り、強力な力によって固定されたかのように静止した。大気は激しく震動するが、その中心へ近づくことは叶わない。音は失われ、ただ呼吸を拒むような重苦しい沈黙だけが残った。


ミカエルは冷徹な眼差しでその光景を見つめていた。ブラックホールはロリータを確実に幽閉しており、その空間は残りの世界から完全に切り離されていた。


「これで終わり? ……呆気ないわね。弱すぎるわ」


ミカエルが嘲笑を浮かべる。


すべてを押し潰す闇の中、実体のない重力の咆哮が周囲に反響していた。ロリータは静かに目を閉じた。一度だけ深く呼吸をし、思考を秩序立てて整理する。


「……ここから脱出できないわけじゃないけど……」


口角がわずかに動く。それは恐怖ではなく、冷徹な状況判断の結果だった。


「……被害を広げずにどう処理するかが問題ね」


周囲の引力が一段階跳ね上がる。しかし、彼女はさらに深く静まり返った。


「外部へエネルギーが漏れ出さないよう結界を展開しようにも、もう間に合わないわね……ミカエルもそれを許してはくれないでしょうし」


脳内で演算図が目まぐるしく重なり合う。可能性が提示されては棄却されていく。


「負エネルギーの塊……あるいはブラックホールの質量と等しい『負物質(エキゾチック物質)』を生成して、その中心へ撃ち込む。正の質量と負の質量が同量ぶつかれば、純質量はゼロになり、ブラックホールは消滅する……」


一つの手法が明確に浮かび上がったが、それは不完全なものだった。


「でも、正確な質量が分からないわ……」


ロリータの眉がわずかに寄る。


「もし失敗して、負の質量が上回ってしまったら……純質量はマイナスになり、『裸の特異点』が発生してしまう可能性があるわ」


それは彼女にとっても受け入れがたい結末だった。


「強制的に爆発させるのも無理ね」


その思考は即座に捨て去られた。


「そんなことをすれば、ガンマ線バーストが発生する……世界中が瞬時に焼き尽くされるわ」


一瞬の沈黙。


そして最後の方策が、静かに浮かび上がる。


「……なら、残された道は一つ。自分のやり方に賭けるしかないわね」


周囲の引力がわずかに揺らぐ。決意が形を成したことを察知したかのように。


「質量とエネルギーを、同時に押し出し、引き込む……対称的な力で」


歪んだ時空の構造が、彼女のイマジネーションの中に現れた。


「……そうすれば、時空の構造が反発し、復元されるはず」


だが、その思考もすぐに打ち消された。


「……いや、ダメね。正確な質量が分からなければ、不適合を起こして被害が広範囲に広がる可能性がある……」


ロリータは目を開いた。紫の瞳に、歪んだ闇が映る。


「なら、運を天に任せるしかないわね。リスクは高いけれど、これが最も速く、魔力の消費も少ない。重力制御を用いて、イベントホライズン(事象の地平線)を一気に圧縮し、強制的に『ホーキング放射』の爆発を引き起こす!」


すべてを歪ませる引力が依然として辺りを押し潰していたが、ロリータは渦巻く闇の中でわずかに身を動かした。彼女は静かに手を挙げ、莫大なエネルギーを音もなく収束させる。


ブラックホールの事象の地平線が激しく震え、次の瞬間、凄まじい力で内側へと圧縮された。無限に広がるはずだった空間が強引に折り畳まれ、収縮していく。時空の曲率が無理やり重ね合わされ、すべてを飲み込んでいた闇が不安定に明滅し始めた。


刹那、事象の地平線は極小へと縮まり、消滅した。中心点が失われたことで、均衡は一気に崩壊する。


限界を超えて凝縮されたエネルギーが解き放たれ、小規模な爆発が発生した。周囲の空間は幾層にも裂け、目に見えない圧力波が次元の構造を切り刻む。局所的な空間が世界の連続性から切り離され、次の瞬間には強烈な光があらゆる方向を塗り潰した。


ロリータは即座に動いた。彼女の体から新たなエネルギーが展開され、封印結界が形成される。透明な境界線が震動する空間に重なり、エネルギーが外部へ流出するのを防ごうとした。


しかし、その構造が完成する前に、彼女は異変に気づいた。周囲が不自然なほどに静まり返っている。


四方八方へ噴出するはずだった爆発エネルギーが、初めからそこになかったかのように静止していた。衝撃波もなく、震動が外部へ漏れ出すこともない。すべてが限定された境界の内側に、完璧に閉じ込められていたのだ。


エネルギーの奔流が収まった塵の向こう側に、ロリータは別の「結界構造」を視認した。それは彼女のものよりも先に展開されており、周囲の時空と完璧に同調していた。まるではるか以前から準備されていたかのように。


その結界は彼女によるものではなかった。初めから、エネルギーが外部へ流出する可能性など、微塵も存在していなかったのだ。


「……それが君の選んだ方法か。もし、私が先にあらかじめ結界を張っていなければ、地上の生命も地表も、跡形もなく焼き尽くされていたわね」


「それはあんたの望むところなんじゃないの? ……ミカエル。私の情報によれば、あんたの目的は世界の破壊。そして新たな世界の支配者になることなんでしょう?」


「……一部は正解ね。そう、私は一度世界を壊し、創り直したい」


「なら、どうして守ったりしたのよ?」


「……まだ『足りない』からよ。特に、この時代の『奇跡の世代』の子供たちの力がね。……今のところは、そう答えておくわ」


「なら……決着をつけましょうか、ミカエル」


ロリータの呼吸が静まり、桃紫色の瞳をわずかに伏せると、彼女は両手をゆっくりと胸の前で合わせた。簡潔でありながら、深い集中に満ちた仕草。細い指先から、月光を反射する水面のような、淡い青の光が漏れ出した。放たれる魔力は急激なものではなく、周囲の空間へじわじわと浸透し、静かに重圧をかけていく。


大気中の湿気が変質し始め、周囲の温度がわずかに低下した。肉眼では見えないはずの水分が、彼女の周囲で淡い雫となって結実する。静寂の中で、雫が触れ合う微かな音が囁きのように響いた。ロリータが指先をわずかに動かすと、それらの雫は魔力の流れに従って、ゆっくりと円を描いて回り始めた。


彼女の足元の濃灰色の石畳が湿り気を帯び、広場の亀裂からは透明な水が湧き出した。あたかも地の底から吸い上げられたかのように。細い水流は裂け目を伝って這い、不自然に宙へと浮かび上がると、空中で形成されつつある水の質量へと融合していった。その水は飛散することなく、主人の意志を宿したかのように、静謐かつ正確に蠢いていた。


ロリータがゆっくりと手を開くと、収束した水は巨大化し、小刻みに回転する透明な水の球体へと変わった。その内部には銀青色の光が煌めき、表面は波一つなく滑らかだが、秘められた質量は周囲のプレッシャーを劇的に高めていた。彼女の髪は魔力の循環に煽られ、衣服は湿り気を帯びてその体に寄り添っている。


魔法が完成に近づいた瞬間、ロリータはすべての動きを止めた。水の質量は彼女の目の前で静止し、主の最後の下知を待っていた。周囲は死に絶えたように静まり返り、ただ低く回転する水の音だけが、水魔法が完全に充填されたことを告げていた。


ミカエルはロリータの手の平の上で揺らめく深青色の質量を冷ややかに見つめ、嘲笑を浮かべた。「水、だと……? そんな脆弱な液体で、私を止められると思っているのかしら?」


その声は深く、絶対的な自信に満ちていた。彼女の手に魔力が収束し、瞬時に橙赤色の猛火が燃え上がった。周囲の地面が熱で震え、大気は激しさを増すエネルギーに陽炎を立てる。「よく見ておきなさい。これが真の力よ」


「……プロメテウス・フレイム!」


巨大な火球が放たれた。燃焼の咆哮が轟き、一切の容赦なく直進する。その内に秘められた破壊のエネルギーは、経路上にあるすべての存在を屈服させるかのようだった。ミカエルは確信していた。次の瞬間には、相手の水球など跡形もなく蒸発し、消え去るだろうと。


しかし、ロリータは動じなかった。その瞳は静水のように澄んでいる。掌の上の深青色の質量は回転を落とし、凝縮を始めた。水の密度が短時間で劇的に上昇していく。自由な液体から、それは濃紺の「光条」へと変質し、火球に向かって撃ち放たれた。


フッ――。


衝突音は短く、そして重かった。火球は爆発することなく、逆に水圧の奔流によってその内側へと押し込められた。炎の力は急速に封じ込められ、熱と圧力が一瞬だけその内部でせめぎ合った後、均衡が崩壊した。


ドォォォォン!


濃紺の光条は、火炎を正面から貫通した。極限まで圧縮された水は、刹那の間に相転移を起こし、不透明な深青色の「氷」へと変貌した。圧力によるエネルギーは依然として内部に蓄積されており、それは冷気を放つのではなく、不自然なほどの「熱」を秘めていた。


ミカエルが息を呑んだ。自信に満ちた瞳は驚愕へと塗り替えられる。彼女は慌てて魔力防壁を展開したが、衝撃の方が速かった。障壁は一瞬で粉砕され、彼女の体は後方へと吹き飛ばされた。踵が地面を削り、長い溝を作る。


「……っ、これは、氷……?」 彼女は信じられないといった様子で喘いだ。


氷が彼女の体に触れた瞬間、猛烈な熱が皮膚に浸透した。ミカエルは奥歯を噛み締めた。走るのは炎の熱さではなく、氷の構造体の中に閉じ込められたエネルギーそのものの痛み。氷は瞬時に蒸気へと変わり、激しい音とともに、彼女の体に赤い火傷の痕を残した。


ミカエルはその場に崩れ落ち、荒い息をついた。ロリータを見る瞳には、混乱と猜疑心が渦巻いている。「……君、一体何をしたの……」


ロリータはゆっくりと歩み寄った。手の中の水の残滓は消え、その瞳には凍てつくような静寂が宿っている。「別に、複雑なことはしていないわ」 彼女は淡々と告げた。「ただの、普通の水よ」


ミカエルが眉をひそめると、ロリータはかすかに微笑んだ。「高圧下で氷結した水。圧力と、その性質への理解。……それだけのこと。さあ、年貢の納め時よ」


ロリータの手の平の上で、紫紅色の炎が静かに揺らめいていた。熱波が重厚な波動となって周囲に広がり、すでに満身創痍の広場が熱を蓄えて変色していく。彼女は目の前で崩れ落ちるミカエルを見下ろしていた。その瞳に迷いはなく、この結末を避けることのできない必然の帰結として受け入れているようだった。


ミカエルは膝をつき、呼吸は途絶えがちだった。周囲を圧倒していたかつてのプレッシャーは、今や見る影もない。体は制御不能なほどに震え、瞳に宿っていた傲慢さは粉々に砕け散っていた。残されたのは、隠しようのない純粋な恐怖だけ。ロリータがさらに一歩踏み出すと、その手の中の炎がわずかに膨れ上がった。


「終わりよ……」 ロリータの声はどこまでも平坦だった。彼女が炎を放とうとした、その瞬間。


ミカエルが顔を上げた。瞳には涙が溢れ、助けを求めるように激しく揺れていた。喘ぎ声とともに、掠れた声が漏れ出す。「……いやだ……やめて……」 その声に、かつての支配者の面影はなかった。ただ、追い詰められた子供の悲鳴があるだけだった。


ミカエルの内に残されていた魔力が暴走を始めた。乱雑に散らばり、淡い光が体から噴き出しては虚空へ消えていく。十八歳の少女であったはずの肉体が、ゆっくりと、確実にかたちを変えていく。縮んでいく身体に対し、ぶかぶかになっていく衣服が、彼女の脆さをより一層際立たせた。やがて、ミカエルの姿は六、七歳ほどの幼い少女へと変わり、涙を流しながらガタガタと震えて座り込んでいた。


ロリータの手が止まった。掌の上の炎がわずかに揺らぐ。「えっ……あんた、まさか、ちょっと待ってよ」


しかし、彼女が判断を下す前に、異質な力の波動が割り込んできた。ロリータの周囲で、強大な魔力が爆発的に膨れ上がる。ミカエルの背後の空間が、あたかも引き裂かれたかのように歪んだ。虚無の中から一筋の長い影が伸び、そこから「漆黒のロングコートを纏った謎の男」が姿を現した。その姿も顔も、瞳の光さえも完璧に隠されていたが、彼から放たれるプレッシャーは、ロリータに本能的な防御姿勢を取らせるほどに重厚だった。


男は何も語らなかった。ただ屈み込み、幼子となったミカエルを抱き上げた。ミカエルはその黒いコートの裾を必死に掴み、小さな体を震わせながら声を殺して泣いた。「……連れてって……早く……」 その声には、恐怖と絶望が同居していた。


黒い魔力が二人を包み込んで渦を巻き、次の瞬間、謎の男と腕の中の少女は、石の広場から音もなく消え去った。後に残されたのは、静まり返った荒野と、ロリータの手の中でゆっくりと消えていく炎の残滓だけだった。


「……あいつ、何てプレッシャーよ。死ぬかと思ったわ」 ロリータは震える声で呟き、乱れた呼吸を整えようと必死に酸素を吸い込んだ。

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