第4章:昏き黎明
サエルは静かに、溜息をついた。自らの吐息の熱が、まだ朝日の温もりを知らぬ寝室の冷気と混ざり合う。昨夜からわずかに開けていた薄グレーのカーテンが、窓から忍び込む微風に揺れていた。その隙間から差し込む光の帯が、木目調の床に長く伸びている。それはまるで、異世界の境界線がじわじわと彼女に迫っているかのようだった。
身を動かすと、膝の上で丸まっていた毛布が音もなく床へと滑り落ちた。そのわずかな気配ですら、彼女に朝の空虚さを悟らせるには十分だった。この部屋には自分以外、誰もいない。霧のように深い静寂だけがそこに居座っていた。
サエルは頬にかかる髪を指先で払いのけた。指先に伝わるのは、昨夜のシャワーでまだ乾ききっていない毛先の冷たさ。彼女は小さくうつむき、茶色の髪を肩へと流した。それから、まだ夢の淵を彷徨っているような緩慢な動作で、再び髪をかき上げた。
外からは、微かな秋の虫の声と、遠くで響く車の音が聞こえてくる。それは、目覚め始めた街の呼吸のようだった。サエルは意識を呼び戻すように目を細め、部屋の中を見渡した。左手には本が積み上げられた乱雑な勉強机。少しだけ開いたクローゼットの扉は、早く閉めてくれと誘っているかのようだ。そして、枕元には昨夜の飲み残しのグラス。
彼女はグラスに手を伸ばしたが、口をつける前にふと動きを止めた。クリスタルのような水面に反射する朝日をじっと見つめ、散らばった思考を一つずつ手繰り寄せる。それからゆっくりと水を飲み干した。喉を通り抜ける冷たさが、深い微睡から彼女の肉体を鮮明に目覚めさせていく。
水を飲み終えると、彼女は音を立てないよう静かにグラスを置いた。静寂の中ではそのわずかな接触音すらも明瞭に響き、世界が動き出すまでの猶予が刻一刻と失われていることを告げていた。彼女が床に足を下ろすと、木の冷たさが足裏から足首へと伝わった。コーヒーや冷水よりも確実に、彼女の意識を現実に繋ぎ止める冷たさだった。
彼女はもう一度背伸びをした。両腕を高く突き上げ、肩が張るまで伸ばす。関節が小さく鳴る音に、彼女は微かに微笑んだ。思考はまだ追いつかずとも、少なくとも体だけは新しい一日を迎える準備ができている。
視線は、風に揺れる薄グレーのカーテンへと向けられた。流れ込む風に含まれる微かな湿り気は、昨夜の雨の名残だ。道が濡れるほどではないが、雨上がりの朝特有の匂いが漂っている。彼女が深く息を吸い込むと、心の中に溜まった澱が、誰かの手によって優しく払われたような心地がした。
サエルは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。しなやかな指先でカーテンを大きく開け放つ。溢れ出した日光が、目を細めるほどの強さで彼女を包み込んだ。目が光に慣れると、階下の通りが見えた。急ぐ様子もなく歩く数人の人影。通り過ぎる車のエンジン音が、街のパーツを一つずつ起動させていく。
彼女は指先で窓ガラスに触れた。床の冷たさとは違う、静謐で、時を経ても変わることのない無機質な冷たさ。透明な表面をなぞると、指の跡が白く曇り、そしてすぐに消えていった。彼女は手を離し、再び自分の部屋を振り返る。
床に崩れ落ちた毛布は、まるで足元に降りてきた雲のようだった。乱雑ではあるが、どこか温もりを感じさせる光景。彼女はそれを丁寧に拾い上げて畳み、いつもの習慣通りベッドの端に置いた。静かな部屋の中では、彼女のあらゆる動作が音を伴い、ゆっくりとした呼吸の音さえも川の流れのように響いていた。
ふと、勉強机の上に伏せられた一冊のノートが目に入った。ページの一部がはみ出し、まるで彼女の注意を引こうとしているかのようだ。彼女は歩み寄り、そのノートを手に取った。開くことはせず、古い紙の質感を指先で確かめる。
その感触が、記憶の断片を呼び起こした。「今日は魔法理論の講義か……。まあ、理屈はもう十分に分かってる。あとは、実践あるのみ、かな」退屈な授業、長すぎる教師の声、チョークの匂いが染み付いた机。彼女はそれらの思考を振り払うように首を振り、ノートを静かに元の場所へ戻した。
サエルは窓に背を向け、浴室へと向かった。彼女が毎日開け閉めする薄い色の木の扉からは、特有の湿気と、昨夜の石鹸の香りが微かに漂っている。足裏の感触が、木から冷たいタイルへと変わった。
「カチッ」という小さな音とともにドアを閉めると、新しい静寂が訪れた。蛇口から漏れる「ポタン……」という水の音と、換気口から流れ込む風の音だけの世界。「閉め忘れてたかな……相当疲れてたみたい」
サエルは二、三秒ほど立ち尽くし、浴室の冷気に体を慣らした。それから蛇口をひねり、いつもの癖で温度を確かめる。指先に温かなお湯が触れ、それが安定するのを待ってからシャワーヘッドを手に取った。お湯は、彼女の肌の下に温もりを編み込む透明な糸のように流れ出した。
立ち上る湯気が視界を覆い、鏡を森の霧のような模様で曇らせていく。すべてが穏やかで、朝に相応しい静かな時間。急ぐ必要はない。心が望むまま、こうして佇んでいてもいいのだ。
準備が整うと、彼女は手慣れた動作でパジャマを脱ぎ、棚に置いた。浴室の冷気が肌をなでたのも束の間、彼女はシャワーの温かな結界の中へと足を踏み入れた。
最初の温かな雫が肩から背中へと伝わった瞬間、彼女は思わず目を閉じた。熱が肌の奥へと浸透し、一晩で蓄積された凝りがお湯とともに洗い流されていく。彼女は深く、穏やかな呼吸を繰り返した。吐息が湯気とぶつかり、微かな風のような音を立てる。
お湯は彼女の長い髪を伝い落ちていく。冷え切っていた髪が温もりを吸い込み、次第に柔らかくなっていく。水分を含んだ髪が重みを増し、背中にぴたりと張り付いた。彼女は指の腹で頭皮を優しく揉み解し、ようやく完全に目が覚めたことを実感した。
壁際の棚から、野花のような香りがする透明なボトルを手に取った。掌に出すと、乳白色の液体がゆっくりと広がっていく。
両手を合わせると、瞬く間に香りが立ち上がった。髪に乗せると、泡が弾ける微かな音がリズムを刻む。彼女は一定のテンポで丁寧に、そしてゆっくりと頭をマッサージし、意識を一点に集中させていく。
白い泡が首筋を伝い、肩から腕へと流れては、お湯によってかき消されていく。彼女はわずかに顔を上げ、シャワーを真っ向から浴びた。泡が何層にも重なって剥がれ落ちていくのを、静かに待つ。
お湯が再び透明に戻ると、彼女は首を少し傾け、重くなった髪を重力に任せた。床を叩く水の音が、静寂の中で一定の拍子を刻む。時間が、通常よりも緩やかに流れているかのような錯覚。
彼女は壁に手を突いた。タイルの冷たさと背中の温もり。その二極の感触が、彼女に「新しい一日が本当に始まったのだ」と告げていた。
ゆっくりとシャワーを離れ、蛇口を閉める。滴る水の音が次第に小さくなり、やがて再び静寂が戻ってきた。
彼女は、丁寧に畳まれていたタオルに手を伸ばした。
温かなタオルが肌の水分を吸い取ると、サエルの体から微かな湯気が立ち上る。彼女はまるで朝風を纏うように、優しく、そして入念に肌を拭いていった。髪の先から最後の一滴が消えるまで、その動作はどこまでも丁寧だった。
湿り気が消えると、彼女は再び寝室へと戻り、クローゼットの扉を静かに開けた。木が擦れる「ギィ」という小さな音は、今日という日への挨拶のようだった。整然と並べられた制服は、まるで草原に咲く一輪の花のように彼女を待っている。彼女はいつものように、内側の衣類から手に取った。
淡い色のシンプルな下着を手に取り、ストラップが捩れていないか確かめてから、片腕ずつ通していく。肩にフィットするように調整するその一連の動作は、毎朝繰り返される儀式のようであり、迷いはない。
次に、一番下の引き出しから柔らかい生地のショーツを取り出し、自然な動作で身に付ける。シワが寄らないよう細心の注意を払いながら整える。それは一日の始まりを告げる、静かで揺るぎないルーチンだった。
そして、彼女は「白いブラウス」を手に取った。アイロンで隙のないほど整えられた袖口は、空気を切り裂く刃のように鋭い。彼女は袖を通し、白い生地が肩を覆うのを待ってから、一つずつボタンを留め始めた。
カチッ……カチッ……カチッ……
ボタンが収まる規則的な音は、新しい一日を刻む鼓動のようだった。
ブラウスを整えると、次は「紺色のスカート」だ。ハンガーから外し、軽く振ってシワを伸ばしてから足を通す。ウエストの位置を合わせ、プリーツが均等に流れているか、不自然に膨らんでいないかを念入りにチェックする。
続いては「黒のタイツ」。
彼女はベッドの縁に腰を下ろした。繊細な繊維を傷つけないよう、慎重にタイツを手の中で手繰り寄せる。つま先を滑り込ませ、流れるような動作で脚へと引き上げていく。膝まで達したところで手を替え、シワを逃しながら完璧なラインで履きこなす。もう片方も同様に。淀みのない、完成された美しさがそこにあった。
身だしなみを整えると、仕上げに「紺色のブレザー」を羽織った。適度な重みのある生地が朝の冷気を遮り、彼女を心地よく包み込む。襟元を整え、シルエットを完成させる。
最後の手順は「真っ赤なリボン」だ。
棚の奥に大切に置かれていたリボンを手に取り、ふっくらと形を整えてから襟元に添える。紺色の制服に映えるその鮮やかな赤は、まるで描きかけの絵画に最後の一筆を加えたかのように、彼女の装いを完成させた。
着替えを終えたサエルは、姿見の前に立った。
ブラウスに乱れはないか。
ブレザーの着こなしはどうか。
タイツは脚に馴染んでいるか。
スカートの裾は整っているか。
そして、リボンは美しく結ばれているか。
彼女はドレッサーの上にあるヘアピンを手に取った。髪を傷めない、お気に入りの一品。彼女は髪を一つにまとめ、うなじのあたりで手際よく留めていく。だが、一筋の毛束がいたずらっぽく頬に垂れ落ちた。彼女は「ふふっ」と小さく笑った。「私の髪ったら、毎朝こうなんだから。全然言うことを聞かないんだから」
髪を整え終えると、彼女は鏡の中の自分をじっと見つめた。特別な何かを求めているわけではない。ただ、自分が自分であることを確かめるための確認。今日という日が何をもたらすか分からずとも、彼女は彼女のまま、新しい世界へと足を踏み出す。
朝日は次第に高く昇り、壁の橙色は淡い金色へと変わっていった。時間は想像以上に速く流れている。サエルは深く息を吸い込み、窓に背を向けて部屋を出ようとした。だが、大切なことを思い出したかのように足を止めた。
「エンマ、まだ起きてないのかしら……ちょっと様子を見てきましょう」
サエルは弟の部屋の前に立ち、ドアを軽くノックした。
「エンマ……起きてる? 学校に行く時間よ」
返事はない。ただ静寂と、廊下の窓から入り込む朝風の音だけが響いている。
サエルは微かに眉をひそめ、そっとドアを開けた。部屋の中はカーテンが閉め切られ、薄暗い。
ベッドの上では、エンマが身を縮めるようにして横たわっていた。呼吸は荒く、酷く疲弊しているように見える。サエルは慌てて駆け寄り、膝をついてエンマの額に手の甲を当てた。
「……嘘、エンマ。こんなに熱があるじゃない。どうして言わなかったの?」
エンマが重い瞼をゆっくりと開けた。頬は熱のせいで赤らんでいる。
「ん……サエル……ごめん。ちょっと、目眩がして……。ここは、現実だよね……? 夢じゃないよね……」
サエルは心配そうに、だが優しく溜息をついた。手に持っていたタオルを、弟の額にそっと当てる。
「そうよ、現実よ。……今日はなんだか様子がおかしいと思ったら。お姉ちゃんが看病してあげるからね」
「いいよ……すぐに、治るから……」エンマは強がって首を振る。
サエルは、いたずらっぽく、けれどこの上なく優しく弟の額を指先で突いた。
「わがまま言わないの、エンマ坊や。顔を真っ赤なトマトにして何を言ってるのよ」
エンマは観念したように黙り、姉が整えてくれたタオルの感触に身を任せた。
サエルは毛布を肩まで掛け直し、彼の柔らかい髪に滲む汗を丁寧に拭ってあげた。
しばらくして。
エンマの呼吸は少し落ち着いたが、声はまだ弱々しい。「……お姉ちゃん、学校……遅刻しちゃうよ……」
サエルは口角をわずかに上げ、ベッドの縁に肘をついた。「時間はたっぷりあるわ。貴方が少し落ち着くまで、そばにいてあげる。もし遅刻したとしても、弟の看病が理由なら、お姉ちゃんは喜んで遅刻するわよ」
エンマは微かな笑みを浮かべ、安心したように再び目を閉じた。
サエルはエンマの頭にそっと手を置き、囁くように言った。「おやすみ、エンマ。お姉ちゃんはここにいるから。どこにも行かないわよ……」
枕元でかいがいしく世話を焼くサエルをよそに。
エンマは目を閉じていたが、その内面は熱以上に激しく揺れ動いていた。
熱のせいで赤い頬が……羞恥心でさらに赤くなっていく。
――エンマの脳内――
(サエル……マジで女神かよ……。こんな風に看病されたら、俺の心臓が壊れちまう……。優しすぎるし、あったかいし……。人間ってこんなに可愛くなれるのか? 毎日これなら、一生病気でもいいかもしれない……)
体温を確かめようと、サエルが顔を近づける。彼女の柔らかな髪先が、エンマの手に触れた。そのわずかな感蝕だけで、エンマの心拍数は跳ね上がった。
(はぁ……。あのアホのロリ悪魔とは月とスッポンだ……。あいつは隙あらばトラブルを運んでくるっていうのに……。サエル姉さんは……朝の光より優しい……)
「ハックシュンッ!!」と、ルリヒメがくしゃみをした。
「おい、風邪か? 俺にうつすなよ、ルリヒメ」カナタが心底嫌そうに声を上げる。
「違うわよ……誰かが私の悪口を言ってるのよ……。感じるわ……。ハックシュン! ハックシュン!!」ルリヒメは鼻をすすりながら、くしゃみを連発した。
エンマは口を固く結び、変な声が出ないよう必死に耐えていた。そんな弟の内心など露知らず、サエルは丁寧に汗を拭き続けている。
「少し、楽になったかしら? 顔の赤みが引いてきたわね」
その言葉に、エンマはビクッと体を震わせた。
(やばい……。赤みが引いたんじゃない、それは姉さんのせいなんだよ……!)
一方、始業前の教室にて。
「ハックシュン! ハックシュン! ハックシュン!!」
「やっぱり風邪じゃないか。保健室に行ってそのまま帰れよ……」
「違うって言ってるでしょ! これは……ハッ……ハックシュン! 誰かが私をディスってるのよ……。私の『センス』がそう告げてるんだから。信じなさいよ、カナタ!」
「嘘をつくな。第2話と第3話で俺の出番を奪ったこと、俺はまだ根に持ってるんだからな」
「それは……ごめんって。でもそれより、なんとかしてよ! ハックシュン! 止まらないのよ、ハックシュン!!」




