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追憶の霧、眠りの淵への道   作者: Rurusia Lulihime
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第30章:ミカエルと未来から来た少年

古の寺院の静寂の中、凍りついたかのように埃が宙を舞っている。優雅な貴婦人の姿をしたミカエルは、終わりのない地平線をじっと見つめていた。大理石の床をわざと鳴らすような足音が響く。彼女は振り返るまでもなく、それが誰であるかを知っていた。


「……満足するまで遊び回れたかしら? ソフィアをからかい、ケレンに挨拶して以来ね。こんなことなら、あの夜に私が出向く必要はなかったわ」


ミカエルは、柔らかだが冷徹さを孕んだ声で語りかけた。


**「エゼキエル」**と呼ばれる少年は、顔に笑みを浮かべたまま歩み寄った。その装束は、ファンタジーの世界から抜け出してきたかのように異彩を放っている。


「もちろんだよ。見たこともない珍しいものばかりだった」


エゼキエルは幸せそうに溜息をついた。


「過去の世界がこれほどとはね。教科書で読むよりずっと進んでいる。特にあの『学校』という場所……面白いね、四角い建物に人が集まって知識を交換し合うなんて。誰もが平等に見える、いい場所だ」


彼はここ数日の冒険を、瞳を輝かせながら語り始めた。


「彼らの試験をこっそり覗きに行ったんだ。サッカー場の中央を歩く禿げた男が、みんなの目を眩ませているのを見たよ! あんなにデタラメなマナの拡散技術は初めてだ。それから……ルリヒメっていう女の子が飲んでいた『イチゴミルク』も試してみた。あの味は……説明が難しいけれど、僕のいた未来ではもう二度と味わえない『美味しさ』の記憶だった。クレーンゲームもやったよ。少しだけ機構に干渉したけれど、シミュレーションの仮想現実よりずっと楽しかったな」


ミカエルは静かに聞き届け、言葉を遮った。


「そう。……なら、もう帰る時間よ。エゼキエル、自分の『可能性』へと戻れば、この過去で起きたことはすべて忘れることになるわ」


少年の動きが止まり、笑みがわずかに陰った。


「……過去世の自分についても忘れるんだね。過去世の友人たち……エンマやサエル、みんなのことも。名残惜しいけれど、それが君の望む未来なら、僕は従うよ」


彼は青藍色の光を放ち、渦巻く次元の魔方陣の前で足を止めた。


「幸運を……」ミカエルの言葉と共に、周囲の空気を歪めるほどの吸引力を伴ってゲートが開いた。


エゼキエルは最後にもう一度、ミカエルを振り返った。


「確認のためにもう一度聞くよ。……こうすることで、僕という『可能性』は、本当の『未来』になるのかい?」


「当然よ……」ミカエルは短く答えた。


少年は確信に満ちた様子で頷くと、次元の裂け目へと消えていった。後に残されたのは、静寂と、徐々に薄れていく未来の残香だけだった。


ミカエルはその場に立ち尽くしていた。琥珀色の瞳には、口にしなかった真実が複雑な影を落としている。


(世界は無数にあれど、それぞれは独立している。各世界には無限の『可能性』が並行して存在し、それをタイムラインと呼ぶけれど……真実となるのは、たった一つの可能性――世界の未来だけ)


彼女は寺院の壁の向こう、エンマたちが試験という運命に立ち向かっている高校の方向を見つめた。


(未来から来た貴方でさえ、私が行き止まり、あるいはどこか一点で過ちを犯せば消えてしまう、数ある可能性の一つに過ぎない。固定されかけた貴方の未来は消失し、別の可能性が取って代わる。そして貴方は、ただの『消えた可能性』になる……。そうあるべきなのよ。ええ、そうあるべきだわ……私はそう信じている)


ミカエルの声は静まり返った寺院に溶けていった。古の石壁さえも、彼女の思考を聴いているかのようだった。


天井の割れ目から吹き込んだ微風が、停滞した時間のように埃をゆっくりと躍らせる。


ミカエルは動かない。


エゼキエルが通り抜けたゲートは静かに閉じ、渦巻いていた青藍色の光は小さな点へと収束し、空気の中へ消えた。


再び、寺院を静寂が包む。


「……」


ミカエルは静かに目を閉じた。


だが――。


(チリン……)


硬質な何かが石の床に当たる、小さな音が響いた。


ミカエルは即座に目を見開いた。


視線を落とすと、閉じたはずの魔方陣の跡に、小さな物体が落ちていた。


それは、**「クレーンゲームのメダル」**だった。


片面には笑顔のウサギのキャラクター、もう片面にはゲーム機の番号が刻印されている。


ミカエルはしばし沈黙した。


「……持っていたのね」


彼女は屈んでメダルを拾い上げ、ゆっくりと裏表を眺めた。


数日前、クレーンゲームの前で笑っていたエゼキエルの姿が、脳裏をよぎる。


『シミュレーションより、ずっと楽しいよ』


その言葉が耳の奥でリフレインした。


ミカエルはメダルを握る手に、わずかに力を込めた。そして、小さく溜息をつく。


「……すべて忘れるべきなのに」


彼女は独り言のように言葉を紡いだ。誰に聞かせるつもりもなかったが、隠そうともしなかった。


「自分が火遊びをしている自覚はあるわ。貴方を過去に招いたのは、最善の可能性を繋ぎ止めるための試み。けれどそれは、嵐の中で砂の彫刻を守ろうとするようなもの」


「現実には、すべては避けられぬ論理的必然に従っている。すべては最初から決定づけられたもの。変わりゆくように見える可能性でさえ、そうなるように定められた道に過ぎない」


「時の干渉は、最も起きてはならないこと。万物の法則と論理がそう定めている。……それでも私はそれに抗い、論理に干渉する魔法を編み出した。欠陥があり、未完成だとしても」


声は次第に細くなっていく。


彼女の黄金の瞳は、少年がいた空白を見つめていた。


「……けれど、それだけでは足りない」


寺院の隙間から吹き抜ける風が、彼女の法衣をわずかに揺らした。


「私が変えようとしているのは、この世界の未来だけではないのだから」


彼女はゆっくりと目を閉じた。


脳裏には試験会場、学校、子供たちの笑い声、そしてまだ見ぬ惨劇が流れ込む。


「……彼ら全員に訪れるはずの、『終焉』を変えるまでは」


メダルを握る手がわずかに緩んだ。


壊れた屋根から差し込む陽光を受け、金属のメダルが鈍く光る。


「……バカね。過去に引き寄せられた時点で、貴方はすでにすべての記憶を手にしていたはずでしょう?」


ミカエルが再び目を見開く。


その瞳は、いつもの冷徹さを取り戻していた。


「……なら、今更何をそんなに楽しんでいたのかしら」


彼女は虚空に向かって、静かに呟いた。

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