第13章:夜の帳における真実の尺度、物質の美学、そして十ツ星の晩餐
天空からの滴によって視界が妨げられる中、現在の大都市の上空は完全な「降水状態(Precipitation)」に移行していた。液体の H_2O 分子は一定の加速度で建築表面に衝突し、ネオン街灯からの「光散乱(Light Scattering)」を引き起こす。その結果、視界は標準基準を下回るほどに霞んでいた。
高性能防水剤でコーティングされたポリエステル製の漆黒の巨大な傘の下、ソフィアとカレンは、排水溝へと組織的に流れ込む水の「流体力学(Fluid Dynamics)」に満ちた歩道を歩んでいた。
「今日の降水量は、今月の統計的平均値を15.2%も上回っているわね」
ソフィアが口を開いた。その声は依然として平坦な周波数を維持している。
「そう……。私はただ、うっとうしいくらいに濡れてるって感じるだけ。雨なんて大嫌いよ」
カレンは、パイ生地が湿気を吸収して「構造的完全性(Structural Integrity)」を失わないよう、ジャケットの下に隠した菓子の袋を動かしながら答えた。
ソフィアの思考回路には、午後にカナタから得た情報――『アセンシア・アルカナム』という言葉が、理性のファイアウォールを突破しようとするウイルスのごとく居座っていた。彼女は言語学的な「範疇化(Categorization)」プロセスを用い、それが単なる擬似用語(Pseudo-term)なのか、あるいは公理(Axiom)なのかを分析していた。
彼女は傘の表面に付着した水滴を見つめる。水分子の「凝集力(Cohesion)」によって形成された完璧な球体。
(もし私たちの存在が『偽り』だとしたら……)ソフィアは体温の低下率を計算しながら思考を巡らせる。(既知の感覚で真実を定義すること自体、最も深刻な論理的誤謬(Logical Error)だわ。そうだとしたら、私たちの思考システムは何者かによってプログラムされていることになる。ホログラムのように。では、誰が制御しているの? 姿形は? 能力は? 目的は? 疑念の余地しかないわね)
「ねぇ、ソフィア……。あんた、本当にカナタの言ったことを信じてるの?」
カレンが問いかけた。視界を遮る雨のカーテンは、ますます厚みを増していく。
「科学的には、結論を出すための十分な証拠がまだ不足しているわ。でも、だからこそ興味深いの。未知であればあるほど、知的好奇心は刺激されるものよ……そうね」
ソフィアは前方を見据えたまま答えた。「比較言語学的な観点から見れば、『アセンシア』の語源はラテン語の『Ascensio(昇天・限界突破)』に由来する。これを魂の『進化生物学(Evolutionary Biology)』と捉えるなら、理論的な可能性は否定できないわ」
カレンは短く笑った。「難しすぎるわよ……。私にとっては、あの影を見た時のゾッとする感覚だけで、もう十分。あんまり知りたくないわ」
信号機が波長約700ナノメートルの「赤」に変わった。雨によって空気中の「エアロゾル(Aerosol)」が洗い流され、密度が低下した交差点で二人は立ち止まった。
「……まだ止まらないのね。科学用語を詰め込めばカッコいいと思ってるわけ? 今度やったら、ぶちのめすわよ」
カレンが真剣な声で言った。その瞳には明らかな怒りの炎が宿っている。
「カレン、現在の相対湿度は衣類の接触面の『粘性(Viscosity)』に影響を与え始めているわ。予定通りに目的地へ到着するためには、歩行速度を秒速約0.5メートル上げるべきよ」
ソフィアは淡々と告げた。
「分かってるわよ、ソフィア……。こっちは血糖値が下がりすぎて、傘を食いちぎりそうなのよ」
カレンは頬を膨らませて不満を漏らしたが、手元では制服の裾を丁寧に整えていた。
レストラン『L’Éclat du Vide(虚空の輝き)』
この地区で最も高価なビルの最上階に位置する十ツ星レストラン。完璧なスーツに身を包んだレセプショニストが恭しく傘を受け取り、事前に予約された、最高のプライバシーを誇る特等席へと二人を案内した。
店内は高度な「音響理論(Acoustics)」に基づいて設計されており、隠されたスピーカーから微かなクラシック音楽が流れている。計算されたウォームホワイトの照明が白い大理石のテーブルを照らし、これから供される料理の色彩を際立たせていた。
「お帰りなさいませ、ソフィア様、カレン様」
年配のウェイターが深々と頭を下げた。
「均衡の取れた『カロリー摂取量(Caloric Intake)』を重視し、複雑な『分子構造(Molecular Structure)』を持つメニューをお願いします」
ソフィアはメニューを開くことさえしなかった。彼女は全メニューの化学組成を暗記しているからだ。
やがて最初の一皿が運ばれてきた。『金箔を添えたトリュフ抽出エッセンス』。一見シンプルだが、72時間以上の低温抽出プロセスを経た澄んだスープだ。
カレンは銀のスプーンでゆっくりとスープを口に運んだ。弾けるような味わいに、彼女は思わず目を閉じた。
「ん……。味蕾と反応するアミノ酸の質感が……カナタの妄言を聞かされた精神的ダメージを癒してくれるわ」
「その通りよ」ソフィアは小数点単位で精密に温度管理された『和牛A5ランクのステーキ』を切り分けながら付け加えた。
「摂取を通じた芸術鑑賞は、中枢神経系を整えるための最良の『感覚統合(Sensory Integration)』プロセスだわ。ところでカレン……さっきの話の続きだけど」
「世界が反映だっていう話?」カレンはノンアルコールのグレープワインを一口飲んだ。
「あんた、プラトンのイデア論を魔術と結びつけて分析しようなんて、どういう風の吹き回し?」
ソフィアは椅子の背もたれに寄りかかり、雨に沈む街を一望できる大きなガラス窓を眺めた。
「認識論(Epistemology)に基づけば、私たちが『真実』と呼んでいるものは、脳が翻訳した電気信号に過ぎないわ。どう思う、カレン。もし誰かが神経レベルで『信号伝達(Signal Transmission)』を傍受・干渉できるとしたら、その人物は瞬時に新しい世界を構築して見せることができるはずよ」
「カナタが言っていた、私たちは反映のレベルにいるっていう話ね」
カレンはグラスを指で回し始めた。「でも、私が気になるのは……もし私たちが単なる『影』だとしたら、その影の主は誰なの? そして何をしているの?」
「そこが重要なポイントよ」ソフィアの瞳に科学的な探究心が宿る。「知りたくないと言いつつ、あなたの方が私より真実に飢えているようね。エンマが言及した『否定神学(Apophatic)』に従えば、人間が作り出した言語で『神』を定義することは不可能よ。言語は思考の限界だから。だとすれば、私たちの現実を超越した存在は、既存の物理法則では記述不可能な状態にあるのかもしれない」
カレンは幾何学的な形状をしたチョコレートムースを口に運んだ。
「だとしたら、アニメでよくある『転生』や『異世界』って、あるシステムから別のルールを持つシステムへの『データセット』の移行に過ぎないってこと?」
「興味深い仮説ね」ソフィアは頷いた。「それは魂のレベルにおける『データ移行(Data Migration)』だわ。もしそれが事実なら、この物語のタイトル――あるいはカナタが伝えようとしている『睡蓮の夢』のような『微睡み(なまどろみ)』の状態は、二つのシステム間の『ローディング画面(Loading Screen)』のようなものかしら? ……おっと、危うく未来の展開をネタバレ(Spoil)するところだったわ」
平然とした表情の裏で、ソフィアは現在の世界の「無秩序さ」を危惧していた。最近の地震の頻度や異常気象は、通常の「正規分布」から明らかに逸脱している。
(もしこの世界が、期待値を下回る粗悪な『歪んだ鏡』だとしたら……)彼女は銀のスプーンに映る自分の顔を見つめながら考えた。(そして、その鏡が割れようとしているのだとしたら? 鋭い破片は私たちの存在を切り裂き、傷つけるでしょうね。その後に、一体何が起こるというの?)
数時間後。
晩餐は完食され、ソフィアは限度額のないブラックカードで会計を済ませた。レストランを出ると、外の雨は小降りになっていた。
「帰りましょう、カレン。明日には大事な約束があるわ」とソフィア。
「あ……そうだったわね。忘れるところだった。ルリヒメと、海に行く約束をしてたんだったわ」
カレンが思い出したように言った。




