君が笑った、最後の夜に
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灰色の世界
彼女がいなくなってから、僕の世界からはすべての色が抜け落ちた。
月島小夜。それが、僕の恋人の名前だった。太陽みたいによく笑い、向日葵のようにまっすぐで、それでいて、ふとした瞬間に月光のような儚さを見せる不思議な子だった。
「樹の描く絵、好きだよ」
美大のキャンパスで、僕がイーゼルに向かっていると、彼女はいつも後ろからそっと覗き込んでそう言った。彼女の声は、くすんだ絵の具だらけの僕のパレットに、一滴の純粋な白を落としてくれるようだった。僕の描く何の変哲もない風景画が、彼女の言葉ひとつで、特別な意味を持つ作品に変わる気がした。
僕たちは、ありふれた恋人だったと思う。一緒に講義をサボって映画を観に行ったり、安い定食屋で将来の夢を語り合ったり、課題に追われて大学のアトリエに泊まり込んだり。そんな、どこにでもあるような、けれど僕にとってはダイヤモンドよりも価値のある日々。その日々が永遠に続くと、何の疑いもなく信じていた。
あの日までは。
一週間前の、六月十四日、火曜日。小夜は死んだ。
警察の言葉は、まるで現実感のないB級映画のセリフのように聞こえた。急性心不全。前日まであんなに元気だったのに、何の予兆もなく、眠るように息を引き取ったのだという。彼女の部屋のベッドの上で、穏やかな顔で発見された、と。
嘘だと思った。何かの悪い冗談か、あるいは、僕を驚かせるための手の込んだドッキリなのだと。でも、警察署で対面した彼女の顔は、あまりにも静かで、冷たかった。僕が何度呼びかけても、その瞼が開くことはなかった。
葬儀は滞りなく終わった。涙は枯れ果て、心にはぽっかりと巨大な穴が空いた。小夜のいない世界は、まるで解像度の低いモノクロ写真のようだった。食事の味もせず、眠りも浅く、ただ無意味に時間が過ぎていく。大好きだった絵を描く気力も、もう湧いてこなかった。イーゼルの前に座っても、キャンバスはただの白い虚無にしか見えなかった。
小夜が死んで、ちょうど一週間が経った夜。
僕は、彼女との思い出が詰まった古いアパートの部屋で、一人、虚空を見つめていた。壁には、僕が描いた小夜の肖像画が飾ってある。逆光の中で、少し照れたように笑う彼女。その絵だけが、この部屋で唯一、色を保っているように見えた。
「……会いたいよ、小夜」
絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。その時だった。
コン、コン。
静まり返った部屋に、場違いなノックの音が響いた。こんな夜中に誰だろう。いぶかしみながらドアを開けると、そこには一人の奇妙な老人が立っていた。古びたツイードのジャケットに、鳥の巣のようにくしゃくしゃの白髪。しかし、その瞳だけが、悪戯っぽく、星のように鋭く輝いていた。
「君が、蒼井樹くんかね?」
老人は、しわがれた声で言った。
「……そうですけど。どちら様ですか?」
「わしは、まあ、しがない時間の案内人、といったところかのう」
老人は意味の分からないことを言いながら、僕の返事を待たずにずかずかと部屋に上がり込んできた。そして、壁の肖像画を見上げ、ほう、と息を漏らした。
「良い絵じゃな。愛情がこもっておる。……この子に、もう一度会いたいか?」
「……は?」
何を言っているんだ、この老人は。人の傷心につけこんだ悪質な詐欺か何かなのか。僕が警戒心を露わにすると、老人はにやりと笑った。
「信じられんのも無理はない。じゃが、もし、もしもじゃ。彼女が死ぬ前に戻れるとしたら……君はどうする?」
「……帰ってください」
僕は低い声で言った。これ以上、心をかき乱されたくなかった。
「彼女が死ぬ、一週間前に戻してやろう。ただし、チャンスは一度きり。運命を変えるも変えられぬも、君次第じゃ」
老人は僕の肩を軽く叩いた。その瞬間、信じられないほどの眠気が僕を襲った。視界がぐにゃりと歪み、立っていることすらままならなくなる。
「なぜ、彼女は死ななければならなかったのか。なぜ、彼女は……」
遠ざかる意識の中で、老人の声が響く。
「……最後の夜に、笑ったのか。その答えを、見つけてごらん」
最後の夜に、笑った?
どういう意味だ? 小夜は、穏やかな顔で亡くなったと……。
疑問を口にする前に、僕の意識は完全にブラックアウトした。
第一章:偽りの再会
意識が浮上した瞬間、僕の鼻孔をくすぐったのは、懐かしい絵の具の匂いと、微かなトーストの香りだった。
ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れた僕のアパートの部屋だった。しかし、何かが違う。窓から差し込む光は、絶望の色をした灰色ではなく、温かいオレンジ色をしていた。
「……いつきー? もう起きないと遅刻するよー?」
その声に、僕の心臓は凍りついた。
聞き間違えるはずがない。世界で一番、僕が焦がれた声。
恐る恐るリビングへ向かうと、そこには、信じられない光景が広がっていた。
「あ、おはよ。もう、早くしないと一限始まっちゃうよ」
エプロン姿の小夜が、キッチンでフライパンを片手に、少し頬を膨らませて立っていた。
「……さ、よ……?」
声が震える。目の前にいるのは、幻じゃない。触れることのできる、温かい、本物の小夜だ。駆け寄ってその肩を掴むと、彼女は「きゃっ、なによ急に」と驚きの声を上げた。その肩の感触、その温もり。涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「うわっ、ちょ、なんで泣いてるの!? 怖い夢でも見た?」
「小夜、小夜だ……本当に、小夜だ……」
僕は子供のように声を上げて泣きながら、彼女を強く抱きしめた。小夜は戸惑いながらも、優しく僕の背中を撫でてくれた。その温もりが、僕の罪悪感を刺激する。僕は、君が死ぬことを知っている。君がいなくなる未来から、逃げてきたんだ。
スマホで日付を確認すると、そこには「六月七日 火曜日」と表示されていた。
本当に、一週間前に戻っている。小夜が死ぬ、ちょうど七日前の朝だ。
「よし、じゃあ、運命を変えよう」
僕は固く決意した。
まず、死因となった「急性心不全」。これが本当に病気なら、すぐに病院に連れて行って、精密検査を受けさせなければならない。
「小夜、今日、大学休んで病院に行こう」「え? なんで? 私、どこも悪くないよ?」「いいから! お願いだ、行ってくれ」
僕のあまりの剣幕に、小夜は少し怯えたように頷いた。
その日、僕たちは大学をサボり、街で一番大きな総合病院へ向かった。心臓血管外科で、考えられる限りの精密検査を受けた。心電図、心エコー、血液検査……。結果を待つ間、僕の心臓は張り裂けそうだった。もし、何か致命的な病気が見つかったら? でも、見つからなければ、なぜ小夜は死んだんだ?
数時間後、医師から告げられた結果は、僕を混乱の渦に突き落とした。
「月島さんの心臓ですが……どこにも異常は見当たりません。至って健康そのものですよ」
健康? じゃあ、なぜ。なぜ小夜は死ぬんだ。
「何か、すごく疲れるようなこととか、ストレスとかは?」「いいえ、特に……」
小夜は首を傾げている。僕の頭の中は、疑問符で埋め尽くされた。病気じゃないとしたら、事故か? あるいは……。
病院からの帰り道、僕たちは公園のベンチに座った。小夜は「ほら、言ったでしょ? 何ともないって。樹ったら心配性なんだから」と笑っている。その笑顔が、僕にはひどく痛かった。
「小夜……最近、何か変わったことなかったか? 誰かにつけられてるとか、変な電話がかかってくるとか」「えー? 全然ないよ。何、樹。探偵ごっこでもしてるの?」
彼女は楽しそうに笑う。違う。これは遊びじゃないんだ。君の命がかかっているんだ。でも、それを彼女に告げることはできない。「君は一週間後に死ぬんだ」なんて、言えるはずがなかった。
僕にできることは、彼女から二十四時間、絶対に目を離さないことだけだった。
その日から、僕の過剰な監視が始まった。大学の講義も、バイトも、トイレに行く時でさえ、僕は小夜の側に張り付いた。彼女が一人になる時間を、一秒たりとも作らないように。
「樹、最近ちょっと変だよ。過保護すぎるって」「心配なんだ。それだけ、君が大切なんだよ」
そう言って誤魔化すと、小夜は少し顔を赤らめて黙り込んだ。
僕たちは、以前にも増して一緒にいる時間が増えた。それは、傍から見れば、とても仲睦まじい恋人同士に見えただろう。でも、僕の心は常に焦燥感に駆られていた。タイムリミットは刻一刻と迫っている。運命の「六月十四日」が、すぐそこまで来ている。
そんなある日、小夜の部屋を掃除していると、ベッドの下から一冊の古いスケッチブックを見つけた。それは、僕が今まで一度も見たことのないものだった。表紙には、何も書かれていない。好奇心に駆られて中を開いた僕は、息を飲んだ。
そこに描かれていたのは、僕の絵だった。
大学で課題に取り組む僕。カフェでコーヒーを飲む僕。眠っている僕。様々な場面の僕の姿が、鉛筆の柔らかいタッチで、愛情を込めて描かれていた。知らなかった。小夜が、こんなに僕のことを見ていてくれたなんて。
ページをめくる手が、止まらない。そして、最後のページに描かれていた絵を見て、僕は凍りついた。
それは、雪が降る冬の公園の絵だった。ベンチに座る二人の男女。男の方は、間違いなく僕だ。そして、その隣で、僕の肩に寄りかかって幸せそうに微笑んでいる女性……それは、小夜ではなかった。僕が見たこともない、知らない女性だった。
絵の下には、小さな文字でこう書かれていた。
『あなたの幸せな未来。私の、最後の願い』
なんだ、これは。どういう意味だ? この女は、誰なんだ? そして、なぜ小夜は、僕と知らない女が幸せそうにしている未来の絵を、「願い」だなんて書いているんだ?
頭が混乱する。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
これは、ただの病死じゃない。事故でもない。小夜は、何かを知っている。彼女自身の死について、何か重大な秘密を隠している。
僕はスケッチブックを元の場所に戻し、何も気づかないふりをした。でも、心の中に生まれた疑念の種は、急速に芽を出し、僕の心を蝕んでいった。
君は、一体何を隠しているんだ、小夜。
第二章:ひび割れた仮面
運命の日まで、あと三日。六月十一日、土曜日。
僕の焦りは頂点に達していた。あの謎のスケッチブック以来、小夜の一挙手一投足が、何か意味深なものに見えてしまう。彼女が鼻歌を歌っているだけで、それは何かのお告げではないかと勘ぐり、彼女が溜め息をついただけで、何かを諦めているのではないかと不安になった。僕の精神は、すり減る一方だった。
「ねえ、樹。今度の週末、海に行かない?」
土曜の朝、小夜が屈託のない笑顔で言った。
「海? どうして急に」「だって、最近の樹、ずっと眉間にしわが寄ってるんだもん。たまには、パーッと息抜きしようよ」
彼女の言う通りだった。僕の顔は、不安と恐怖で歪んでいるに違いない。小夜を心配させないためにも、ここで断るのは不自然だ。
「……わかった。行こうか」
僕たちは電車を乗り継いで、少し寂れた海辺の町へと向かった。六月の海はまだ少し肌寒く、観光客もまばらだった。僕たちは砂浜を歩き、寄せ返す波をただ黙って眺めていた。
「きれいだね」
小夜がぽつりと言った。彼女の横顔は、夕陽に照らされて、消えてしまいそうなほど儚く見えた。僕は、今にも泣き出しそうなのを必死でこらえた。この美しい光景を、来週、君は見ることができないんだ。
「小夜」「ん?」「……何でもない」
「君はもうすぐ死ぬんだ」という言葉が喉まで出かかったが、寸でのところで飲み込んだ。言えない。言えるはずがない。
その夜、僕たちは海辺の小さな旅館に泊まった。古びてはいたが、清潔で、窓からは静かな夜の海が見えた。夕食を終え、部屋でくつろいでいると、小夜が「ちょっと飲み物買ってくるね」と言って部屋を出て行った。
十分、二十分……。小夜が戻ってこない。
嫌な予感が、背筋を凍らせた。僕は慌てて部屋を飛び出し、館内を探し回った。自販機コーナーにも、ロビーにも、大浴場にも彼女の姿はない。
まさか。
僕は血の気が引くのを感じながら、外へ飛び出した。夜の砂浜を、名前を叫びながら狂ったように走る。
「小夜! どこだ! 小夜!」
心臓が張り裂けそうだった。あの「運命の日」より前に、何かがあったらどうするんだ。僕が目を離した、ほんのわずかな隙に。
その時、防波堤の影に、小さな人影を見つけた。
「……小夜!」
駆け寄ると、彼女はそこに一人で座り込み、海を眺めていた。手には、僕に言っていた飲み物ではなく、一台のスマートフォンが握られていた。僕の知らない、古い機種のスマホだった。
「……こんなところで、何を……」
僕が声をかけると、小夜はびくりと肩を震わせ、慌ててスマホを背中に隠した。その顔は、明らかに動揺していた。
「い、樹……。ご、ごめん、ちょっと夜風に当たりたくて」「そのスマホは、なんだ」
僕は低い声で問いただした。彼女の目が、怯えたように揺れる。
「これは……別に、なんでもない」「なんでもなくないだろ! 見せろよ!」
僕は半ば強引に、彼女の手からスマホを奪い取った。小夜が「やめて!」と悲鳴のような声を上げる。
スマホの画面には、LINEのようなメッセージアプリが開かれていた。トーク相手の名前は、『案内人』。
その名前を見た瞬間、僕の頭の中で何かが繋がった。案内人……僕をこの世界に送ってきた、あの老人だ。
トーク履歴を遡る。そこには、信じられないやり取りが記録されていた。
『案内人:運命の日は、六月十四日だ。覚悟はいいかね?』『小夜:はい。彼が、幸せになれるのなら』『案内人:代償は、君の命だ。それでも、構わないと?』『小夜:構いません。それが、私の選んだ未来ですから』
日付は、僕がこの世界に来るよりも、ずっと前だった。
つまり、どういうことだ。小夜は、僕よりも先に「案内人」と接触していた? 彼女は、自分の死を、その代償を知った上で、何かをしようとしていた……?
『小夜:彼が、未来で出会うはずだった"本当の運命の人"と結ばれるように。私の存在が、彼の未来を邪魔しないように。それが、私の願いです』『案内人:よかろう。君の命と引き換えに、彼の運命を修正しよう。君という"イレギュラー"を排除し、彼を本来の幸せな未来へと導く』
頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。
スケッチブックの最後の絵。僕と、見知らぬ女性。
あれは、僕の「本来の運命」の姿だったのか。そして小夜は、僕とその女性を結びつけるために、自らの命を差し出す"契約"を、「案内人」と交わしていた……?
「……どういう、ことだよ、これ」
声が震える。目の前が、真っ暗になる。
小夜は、泣いていた。その美しい瞳から、大粒の涙が次々と零れ落ちていた。今まで僕に見せていた笑顔は、すべて仮面だったのだ。彼女はずっと一人で、この残酷な運命と、絶望的な秘密を抱えていたんだ。
「ごめん……なさい……」「なんで……なんで、そんなこと……!」
「だって、仕方ないじゃない!」
小夜が、初めて僕に感情をぶつけてきた。その声は、悲痛な叫びだった。
「私は、本当なら樹と出会うはずじゃなかった人間なの! 私がいたから、樹の運命が狂っちゃったの! 樹が、未来で本当に愛する人と出会えなくなっちゃうの!」
「そんなこと、どうでもいい! 僕が愛してるのは、今、目の前にいる君だけだ! 他の誰かなんて、いらない!」
僕は叫び、小夜の肩を強く掴んだ。
「僕が、君を絶対に死なせない。どんな手を使っても、君を助ける。案内人だか何だか知らないが、そんな勝手な契約、僕が絶対に許さない!」
小夜は、ただ泣きじゃくるだけだった。
僕たちは、どちらからともなく強く抱きしめ合った。冷たい夜の海風が、二人の間を吹き抜けていく。
偽りの平穏は、完全に終わりを告げた。残された時間は、あと二日。僕と小夜の、本当の戦いが始まった。
第三章:二人の共犯者
東京に戻った僕たちは、共犯者になった。
敵は「運命」、そしてその執行者である「案内人」。目的は、小夜の命を奪おうとする理不尽な契約を破棄させ、二人で未来を掴み取ることだ。
「案内人とは、どうやって連絡を取るんだ?」「あのスマホでしか……。でも、もう向こうからは何も……」
小夜の隠し持っていたスマホは、あの夜以来、うんともすんとも言わなくなった。まるで、僕たちを監視しているかのように。
残された時間は、極めて少ない。六月十二日、日曜日。運命の日まで、あと二日。
「何か、方法があるはずだ。契約を無効にするための、何か……」
僕たちは、あらゆる可能性を話し合った。
「契約の代償が私の命なら、私が死なない限り、樹の運命も修正されないってことだよね?」「ああ。つまり、十四日の二十四時を乗り切れば、僕たちの勝ちだ」
しかし、問題は「どうやって」死を回避するかだ。死因は「急性心不全」。それは、案内人が仕組んだ「運命の強制力」によるものだろう。どこにいても、何をしても、時間になれば心臓が止まる。それは、病気や事故とは次元の違う、抗いようのない力だ。
「物理的に、心臓を動かし続ければどうだろう」「え?」「病院だ。病院に行って、人工心肺装置に繋いでもらうんだ。そうすれば、たとえ案内人が心臓を止めようとしても、機械の力で強制的に動かし続けられるんじゃないか?」
それは、無茶苦茶な理屈だった。健康な人間を、ただ「死ぬかもしれないから」という理由で、人工心肺になど繋いでくれるはずがない。
「でも、やるしかない」
僕は、かつて病院で世話になった、話のわかる医師に全てを話す覚悟を決めた。狂人だと思われるかもしれない。それでも、万に一つの可能性に賭けるしかなかった。
翌、六月十三日、月曜日。運命の前日。
僕たちは、再びあの総合病院を訪れた。心臓血管外科の、初老の医師の前に座る。
僕は、覚悟を決めて全てを話した。時間を遡ってきたこと。小夜が、不可解な契約によって明日死ぬ運命にあること。そして、彼女を救うために人工心肺装置を使ってほしいこと。
医師は、黙って僕の話を聞いていた。眉一つ動かさず、ただじっと、僕の目を見ていた。
全てを話し終えた時、僕は自分がひどく滑稽に見えただろうと思った。妄想に取り憑かれた、可哀想な若者。そう思われても仕方がない。
しかし、医師の口から出た言葉は、予想外のものだった。
「……信じよう」
「え……?」
「君の目は、嘘をついている目じゃない。そして、何より、愛する人を救いたいという必死さが伝わってきた。医学的には、馬鹿げた話だ。だが、医者である前に、私も一人の人間だ。君たちの"戦い"に、協力させてくれないか」
涙が、溢れそうになった。この世界にも、僕たちの味方がいた。
医師は、病院の上層部を説得するため、すぐに行動を開始してくれた。もちろん、超法規的な措置だ。彼の医師生命を賭けた、大きな賭けだったに違いない。
そして、その日の夜。僕たちは、病院の特別室にいた。小夜は、たくさんのチューブやコードに繋がれ、ベッドに横たわっている。傍らには、彼女の生命を維持するための、大掛かりな人工心肺装置が静かに駆動音を立てていた。
「すごい……。本当に、こんなことに……」
小夜が、不安そうな顔で呟く。
「大丈夫。僕がそばにいる。絶対に、守ってみせる」
僕は彼女の手を、強く、強く握った。
時計の針が、ゆっくりと進んでいく。午後十時、十一時……。運命の、六月十四日、火曜日が、すぐそこまで迫っていた。
僕と小夜は、言葉少なにお互いの手を握りしめ、ただ時が過ぎるのを待った。
午前零時。日付が、十四日に変わった。
しかし、何も起こらない。小夜の容体は安定している。装置のモニターに映し出されるバイタルサインも、正常値を示していた。
「やった……のか?」
僕が安堵の息を漏らした、その時だった。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
静まり返った病室に、けたたましいアラーム音が鳴り響いた。人工心肺装置のモニターが、赤く点滅している。
『SYSTEM ERROR: UNKNOWN EXTERNAL INTERFERENCE』
モニターに、無機質なエラーメッセージが表示された。装置が、外部からの謎の干渉を受けて誤作動を起こし始めているのだ。
「そんな……!」
駆けつけてきた医師や看護師たちが、必死に装置を復旧させようとする。しかし、アラームは鳴り止まない。
これが、案内人の力なのか。運命の強制力。科学の力すら、いとも簡単に捻じ曲げてしまうのか。
「樹……」
ベッドの上で、小夜が苦しそうに僕の名前を呼んだ。彼女の顔が、青ざめていく。
「だめだ……やっぱり、運命には……逆らえないんだ……」
「弱音を吐くな!諦めるな、小夜!」
僕は叫んだ。しかし、無情にも、アラーム音はどんどん大きくなっていく。医師が、絶望的な顔で僕に告げた。
「ダメだ……。もう、もたない……!」
その言葉と同時に、すべての機械が、プツン、と音を立てて停止した。
病室が、死んだような静寂に包まれる。
モニターに映し出されていた小夜の心電図の波形が、緩やかになり……そして、ついに、一本の直線になった。
ピーーーーーーーーーーー。
長い、長い、無機質な音が、僕の敗北を告げていた。
「あ……あ……」
声にならない声が、喉から漏れる。
僕は、守れなかった。あれだけ大口を叩いて、結局、何もできなかった。小夜は、僕の腕の中で、ゆっくりと冷たくなっていく。
絶望が、僕の全てを飲み込もうとした、その時だった。
僕のポケットの中で、あの老人のツイードジャケットの感触がした瞬間、世界が再び光に包まれ、ぐにゃりと歪んだ。
気づくと僕は、見慣れた自分のアパートの部屋に立っていた。そして目の前には、あの忌々しい案内人が、にやにやと笑いながら立っていた。
「……どうじゃったかな? 運命に抗うというのは、骨が折れるじゃろう?」
「……もう一度、戻せ。もう一度だけ、チャンスをくれ!」
僕は老人に掴みかかった。しかし、その体はまるで霞のように、僕の手をすり抜けた。
「残念じゃったな。チャンスは一度きり、と言ったはずじゃが」
老人は、壁に飾られた小夜の肖像画に目をやった。
「お主は、大事なことを見落としておる。なぜ、彼女が死ななければならなかったのか。その本当の理由を」
「本当の理由……? 僕の、未来の幸せのためだろう!」
「それだけではない」
老人は、僕の目をじっと見つめた。その瞳の奥は、宇宙のように深く、僕の心を見透かしているようだった。
「彼女は、君を守るためにも、死を選んだのじゃよ」
「……僕を、守る?」
「そうじゃ。……君が、君自身の"運命"によって死なないように、な」
老人の言葉は、にわかには信じがたいものだった。僕が、死ぬ運命?
「君は、本来、彼女と出会うずっと前に、ある事故で死ぬ運命じゃった。それを、彼女が自身の命を代償に、時間を歪め、君の死の運命を捻じ曲げた。君が今生きているのは、彼女が自分の命を差し出したからに他ならん」
「……嘘だ」
「君が彼女と出会った日を、よく思い出してみるんじゃな。雨の日の、横断歩道。君は、彼女に呼び止められなければ、暴走したトラックに轢かれておった。それが、君の本来の死の運命じゃ」
言われて、思い出した。小夜との出会い。あの日、僕はぼんやりしていて、赤信号に気づかずに横断歩道に踏み出そうとしていた。それを、「危ない!」と叫んで引き留めてくれたのが、小夜だったのだ。
「彼女は、君の運命を変えてしまった。その"罪"の代償として、彼女は自らの命を差し出す契約をわしと結んだ。そして、もう一つの願いとして、君が本来結ばれるはずだった女性と幸せになれるように、と……。全ては、君のためじゃったのじゃよ」
僕は、その場に崩れ落ちた。
なんてことだ。小夜は、僕の未来の幸せのためだけじゃない。僕の命そのものを、救ってくれていたのか。僕が生きていたのは、小夜の命の猶予期間の上だったのか。
「彼女の契約が完了し、君という存在の"矛盾"が修正されれば、君の死の運命も消える。彼女は、それを望んだのじゃ」
涙が、止まらなかった。僕は、なんて愚かだったんだろう。小夜の、本当の覚悟も、その愛の深さも、何も理解していなかった。
「……どうすれば、小夜は救われるんだ」
僕は、絞り出すように言った。
老人は、少し悲しそうな顔で首を横に振った。
「もう、手遅れじゃ。運命は、もうすぐ完了する」
「そんな……!」
「ただし」
老人は、言葉を続けた。
「最後の夜を、もう一度だけ、君にくれてやろう。彼女が、なぜ最後に笑ったのか。その意味を、君自身の目で見届けるがいい。それが、わしにできる、せめてもの情けじゃ」
老人が指を鳴らすと、僕の意識は再び、光の中に溶けていった。
最終章:君が笑った、最後の夜に
僕が次に目を開けた時、そこに広がっていたのは、見慣れた小夜の部屋だった。
時刻は、六月十四日の午後十一時五十分。運命の時間の、十分前。
小夜は、ベッドの上に静かに座り、窓の外の月を見ていた。その横顔は、不思議なほど穏やかだった。まるで、全てを受け入れた聖女のように。
「……樹」
僕の気配に気づいたのか、彼女がゆっくりと振り返る。その瞳は、僕が病院で見た時のような絶望の色ではなく、どこまでも澄みきっていた。
「……全部、聞いたよ。案内人から」
僕が言うと、小夜は少し驚いたように目を見開いたが、やがて、ふわりと悲しそうに微笑んだ。
「そっか……。知っちゃったんだね」
「なんで……なんで、そんな大事なこと、黙ってたんだ」
「言えるわけないよ。樹が、自分のせいで私が死ぬなんて知ったら、きっと自分を責めちゃうでしょ? 私は、樹に笑って生きてほしかっただけだから」
彼女の言葉が、鋭い刃のように胸に突き刺さる。
「僕は、君のいない世界でなんて、笑えない」「笑えるよ。ううん、笑わなきゃだめ」
小夜は、ベッドから降りて僕の前に立つと、そっと僕の頬に手を添えた。その手は、驚くほどに温かかった。
「樹には、未来があるんだから。私と出会わなかった、本来の正しい未来が。素敵な人と出会って、大好きな絵をたくさん描いて……幸せになる義務があるの」
「そんな義務、いらない!」
僕は、彼女の手を握りしめた。
「君のいない幸せなんて、僕はいらないんだよ、小夜!」
「……わがままだなあ、樹は」
小夜は、困ったように笑った。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「でも、ありがとう。そう言ってもらえて、すごく嬉しい」
時計の針が、十一時五十九分を指す。
残り、一分。
「なあ、小夜。僕が時間を遡る前……本当の最後の夜、君は、僕に何か言おうとしてた?」「……うん」
小夜は、こくりと頷いた。
「あの夜、本当は、全部話すつもりだった。私のこと、契約のこと……。そして、お別れをしようと思ってた。でも、樹の寝顔を見てたら、言えなくなっちゃった。こんな辛い真実、知らないままの方が、樹は幸せなんじゃないかって」
「……そうか」
僕たちは、見つめ合った。残された時間は、もうない。どんな言葉を尽くしても、この運命を変えることはできない。
「小夜……」
僕は、彼女を強く、強く抱きしめた。もう二度と離さない、とでも言うように。
「愛してる。君だけだ」
「……うん。私も、愛してるよ、樹」
彼女は、僕の背中にゆっくりと腕を回した。
そして、運命の時間が、訪れた。
午前零時。
小夜の体から、ふっと力が抜けるのがわかった。抱きしめる腕の中で、彼女の心臓の鼓動が、ゆっくりと、その動きを止めていく。
「……さよ……」
僕は、彼女の顔を覗き込んだ。
死の絶望が、彼女を覆っているはずだった。苦痛に、顔を歪めているはずだった。
しかし。
僕の腕の中にいる小夜は、信じられないことに、笑っていた。
それは、僕が今まで見たどんな笑顔よりも、穏やかで、優しくて、そして、この上なく美しい笑顔だった。涙を静かに流しながら、それでも確かに、彼女は微笑んでいた。
その瞬間、僕は全てを理解した。
あの老人が言っていた、「君が笑った、最後の夜に」という言葉の意味を。
彼女の最後の笑顔。それは、絶望の色ではなかった。
僕への、愛と感謝。僕が、これからも生きていけることへの、安堵。僕の未来の幸せを心から願う、祈り。
その全てが込められた、あまりにも切なく、そして、あまりにも気高い、愛の結晶だったのだ。
「あ……ああ……あああああああ!」
僕は、天を仰いで慟哭した。腕の中で、ゆっくりと冷たくなっていく愛しい人の温もりを感じながら、ただ、声を上げて泣き続けた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ふと気づくと、僕の手の中に、一枚の紙が握らされていることに気づいた。小夜が、最後の瞬間に僕の手に握らせたものらしかった。
それは、折りたたまれたスケッチブックの切れ端だった。
開くと、そこには、鉛筆で描かれた一枚の絵があった。
それは、僕の肖像画だった。イーゼルの前に座り、キャンバスに向かう僕の姿。でも、その表情は、僕が知っている、不安や絶望に満ちたものではなかった。
希望に満ちた、力強い眼差しで、前を見つめている僕。
そして、絵の下には、彼女の震えるような、けれど、しっかりとした筆跡で、こう書かれていた。
『私の、最高の傑作へ。生きて、描いて。あなたの未来が、色で溢れますように』
涙が、また溢れて、絵の上に落ちた。
君は、最後まで、僕のことばかりだったんだな。
馬鹿だよ、小夜。本当に、馬鹿だ。
でも、そんな君を、僕は……。
◇
小夜が逝ってから、一年が経った。
僕は、大学の卒業制作展を前に、アトリエに籠っていた。目の前には、僕の人生で最大となるであろう大きさのキャンバスが立てかけてある。
僕の世界から、色はなくならなかった。いや、むしろ、以前よりもずっと鮮やかに、世界は輝いて見えた。小夜が、その命と引き換えに、僕の世界に色を塗り足してくれたからだ。
僕は、絵を描き続けている。
悲しみが消えたわけじゃない。彼女に会いたいと、今でも毎晩のように思う。けれど、僕は前を向いている。彼女の最後の笑顔と、最後の言葉を、胸に抱いて。
僕が描いているのは、一枚の風景画だ。
何の変哲もない、海辺の風景。夕陽に照らされた、静かな砂浜。
そして、その砂浜に立つ、一人の女性の姿。
彼女は、僕の方を振り返り、涙を浮かべながら、それでも、この上なく美しく、微笑んでいる。
タイトルは、もう決めていた。
『君が笑った、最後の夜に』
これは、僕と彼女の物語。そして、僕がこれからを生きていくための、始まりの絵だ。
僕は、パレットに純粋な白の絵の具を出すと、彼女の笑顔に、最後の一筆を、そっと加えた。
その白は、僕の涙によく似ていた。
ご覧頂きありがとうございます!!
これからも応援お願い致しますm(_ _)m