最終話 ゾンビと呪いの人形と足掻く少女は、これからも旅を続ける
屋敷の広間に、静かな緊張が走る。
私とルルはソファに腰掛け、侵入者が近づく足音をじっと待っていた。
ゾンビであれば気にする必要はない。
しかし、この足音は違う。
まるで、何かに怯えながら慎重に歩を進めているような……そんな、不安げなリズム。
やがて、扉の隙間から、小さな影がそっとこちらを覗いた。
――少女。
年の頃は、ルルよりも少し上だろうか。
恐らく、中学生になるかならないか――それくらいの年齢の女の子だった。
乱れた髪。擦り切れた服。
恐怖に怯えた瞳で、彼女はじっとこちらを見つめている。
「……生き残りの人間、でしょうか?」
私は、ぽつりと呟く。
この世界で生者に出会うのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
少女は私たちに恐る恐る近づく。
手には、使い込まれた鉄パイプを握っていた。
きっと、生き延びるために持っていたのだろう。
だが、彼女は明らかに混乱していた。
目の前にいるのは、ぼんやりと座るゾンビの少女と、アンティークドールのような風貌の私。
生者を襲うわけでもなく、ただ優雅に座っている――そんな異様な光景が、彼女の恐怖と好奇心を揺さぶっているのだろう。
そして何より、彼女が驚いていたのは――ルルの反応だった。
ルルは、彼女を見ても何もしない。
ただ静かに、じっと見つめていた。
「……ルル、あの女の子を食べなくて良いの?」
私は尋ねる。
ゾンビは生者を喰らうもの。
けれど、ルルはただ首を傾げ、そしてこくりと頷いた。
それは、「食べない」という意思表示だった。
「……そう」
私は思わず微笑む。
「ルルが襲わないなら、私も襲いませんわ」
少女が息を呑むのが分かった。
この状況において、“襲う”という単語が出るだけで警戒心を煽るのは当然だ。
けれど、私は彼女に敵意を向けるつもりはなかった。
「……私が殺そうとした主人は、もうすでに死んでいますから」
少女の瞳が揺れた。
彼女はきっと、今の私の言葉の意味を完全には理解していないだろう。
――けれど、私は知っている。
私はもともと、“誰かを呪い殺すために作られた人形”だった。
だからこそ、封印されていたのだ。
だが、その主人はもういない。
この世界はすでに滅び、私の復讐の対象も、憎しみの感情さえも、意味を失っていた。
ならば、私はただ、存在し続けるだけ。
ゾンビとともにある人形として、この終わった世界を旅するだけ。
それだけで、良かった。
⸻
少女は慎重に私たちを観察したあと、ようやく鉄パイプを少しだけ下ろした。
「……あなたは……何?」
途切れがちに絞り出される問い。
私は少し考えたあと、にこりと微笑んだ。
「私はアンですわ」
「……アン?」
「ええ。呪いの人形ですの」
少女の顔に、一瞬、理解が追いつかないといった表情が浮かぶ。
だが、すぐに彼女は視線をルルへと移した。
「じゃあ……そっちは?」
「彼女はルルですわ。見ての通り、ゾンビですの」
「……ゾンビ……」
少女は小さく呟くと、再びルルの顔をじっと見つめた。
ルルは、変わらず無表情のまま、静かに彼女を見返していた。
「普通の……ゾンビじゃないの?」
「そうですわね。私の旅の仲間ですもの」
少女はしばらく何かを考え込むように俯いた。
鉄パイプを握る手に、まだ微かに緊張が残っている。
だが、やがて、彼女は意を決したように口を開いた。
「……その……」
「ええ?」
「……私、行くところがないの……」
声は震えていた。
彼女がこの世界でどれほどの苦労をしてきたのか、私は知らない。
けれど、彼女は確かに”足掻いて”ここまで生き延びてきたのだろう。
私はルルの手をぎゅっと握る。
そして、ルルの様子をちらりと窺った。
ルルは何も言わず、ただ少女をじっと見つめたまま。
けれど、拒絶する気配はなかった。
「……ふふっ」
私は小さく笑い、ゆっくりと手を差し伸べる。
「では、ご一緒に参りましょう?」
少女は驚いたように私の手を見つめる。
そして、迷いながらも、そっとその手を取った。
私は少女とルルの手を引き、再び歩き出す。
この世界が滅んでも、旅は終わらない。
私たちは、ただ歩き続ける。
ゾンビと、呪いの人形と、足掻く少女。
奇妙な三人の旅が、今日も続いていく――。
どこへ行くのか、それは分からない。
けれど、それでいい。
だって、この世界には、もう決められた未来なんて存在しないのだから。