安直でございますが私はアンと名乗ります。
夜が明ける。
廃墟の窓から差し込む朝陽が、埃まみれの空気を黄金色に染め上げていた。
私は椅子に座ったまま、ぼんやりと空を見上げる。
ゾンビたちはまだ外を彷徨い続けているけれど、相変わらず私には目もくれない。
それどころか、ここに座るゾンビの少女――ルルのことすら気にしていないようだった。
「……ねえ、ルル」
私は隣に座る少女の手をそっと握る。
彼女は瞬きもせず、虚ろな目で私を見つめ返してきた。
まるで、人形とゾンビが並んで座るシュールな光景だ。
「私、昨日言いましたでしょう?」
少女ゾンビは何も言わない。
当然だ。ルルはゾンビなのだから。
「そう、私ったら、自分の名前を持っておりませんでしたの」
私は優雅に髪を整える仕草をしてみせる。
もっとも、人形なので髪は完璧な状態のままなのだが。
昨日からずっと考えていた。
この崩壊した世界で、私は誰の所有物でもない。
ならば、せめて名くらいは、私自身で決めるのがよろしいのではないか、と。
私は小さく笑い、ルルの手をもう一度握り直した。
「私の名前は、安直でございますが……アンティークドールから取りまして――アンと名乗りますわ」
アンティークドールの”アン”。
決して特別な名前ではない。
けれど、今の私には、それがちょうど良い気がした。
「どうかしら、ルル?」
ルルはただじっと私を見つめている。
無表情ではあるけれど、どこかほんのわずかに、その目が柔らかくなったような気がした。
――まるで、私の名前を受け入れたかのように。
「ふふっ、ありがとう。ルル」
私は立ち上がり、軽く埃を払う。
「さあ、行きましょう。今日も楽しい旅になりそうですわ」
ゾンビだらけの崩壊した世界。
けれど、それは私たちにとって何の障害にもならない。
名前を持った私は、手を繋いだゾンビの少女とともに、ゆっくりと歩き出した。
⸻
歩きながら、私は自分の手を見つめた。
指先を動かし、しなやかに曲げる。
私の身体は、どこまでも精巧に作られている。
けれど、これまで私はただの”人形”だった。
誰かに所有され、飾られ、触れられ、呪いを受け、封印され、そして――今、こうして自由になった。
「……不思議なものですわね」
私はぽつりと呟く。
“アン”と名乗った途端、この世界に対する私の感覚が、少しだけ変わった気がした。
まるで、本当に自分がひとりの”存在”になったような気がする。
それは、呪いを持つ人形にとって、特別なことなのかもしれない。
――名前とは、存在を確かにするもの。
ただの”人形”ではなく、“アン”という存在として、この世界にいる。
私は、ひとりで微笑んだ。
そのまま、隣のルルをそっと見つめる。
彼女は相変わらず無表情だったが、手を繋いだまま、歩幅を私に合わせてくれていた。
「ルル、あなたはどう思います?」
ルルは答えない。
それでも、私たちは手を繋いで歩いている。
それだけで、十分だった。
その日の午後、私たちは古びた商店の前に辿り着いた。
扉は半開きで、割れたガラスが床に散らばっている。
ゾンビが中にいる気配はない。
「ちょっと、見ていきましょうか」
私はルルの手を引きながら、ゆっくりと店内へ入る。
店内には、かつての生活用品がそのまま残されていた。
棚には錆びついた缶詰、埃をかぶった雑貨、色褪せた洋服。
そして、レジカウンターの奥には――
「まあ……!」
私は思わず声を上げた。
大きな鏡が残されていた。
ガラスはひび割れていたが、それでも十分に映る。
私はルルの手を引きながら、鏡の前に立った。
そこに映るのは――小さなゾンビの少女と、アンティークドールの私。
「……ふふ、なんだか、不思議な組み合わせですわね」
私は軽くスカートの裾を持ち上げ、くるりと回る。
その仕草は優雅なままだ。
ルルは……ただ鏡をじっと見つめていた。
彼女は、何を思っているのかしら?
私は小さく微笑み、ルルの頭を撫でた。
「こうして並んでいると、まるで本当の姉妹のようですわね」
ルルは何も言わない。
でも、鏡の中の彼女は、ほんの少しだけ……表情が柔らかく見えた気がした。
私は店から、いくつか使えそうなものを拾い集めた。
埃っぽいが、まだ綺麗な布を見つけたので、それで簡単なショールを作る。
ルルにも、小さなマフラーのように巻いてあげた。
「……うん、これで少しは可愛らしくなりましたわね」
ルルは相変わらず無表情だが、私はそれで満足だった。
外はまだゾンビだらけの世界。
けれど、私たちは変わらず歩いていく。
“アン”という名前を持った私は、今日もゾンビの少女と旅を続ける。
どこへ行くかは、まだ決めていない。
けれど、それもまた、この世界での楽しみのひとつなのだ。
私はルルの手をぎゅっと握り直し、にこりと微笑んだ。
「さあ、次はどこへ行きましょう?」