正義は俺の妹にあり
昔、孔子という偉い人がこんなことを言ったらしい。
『義を見てせざるは勇なきあり』と。
俺がこの言葉を知ったのは近所にある図書館でのことだった。普通の小学1年生には読めないような本を読んでやろうと息巻いて俺は『論語』に手を伸ばしたのだ。そして案の定その難しさに撃沈し、だからといって諦めるのも癪で、やや反則と思ったが一緒に来た母に助けを求めたのだ。
「お母さん」
「ん?どうしての?」
母はまだ赤ん坊であった妹の楓を抱えていた。
「この言葉ってどういう意味?」
「難しい本読んでいるのね。えっと、『正しいことだとわかっていながら行動しないのは勇気がないからだ』っていう意味よ」
「どうしてそういう意味になるの?」
母は一文字一文字丁寧に意味を解説しながら教えてくれた。
「義。これは正義の義ね。つまりこの文において義とは正しい行いを意味するの。そしてそれを『見る』。昔の『見る』には色々意味があってね、見えていることはその物事を『わかっている』ことを意味したの。『せざる』は何となくわかるかしら?しない、行わないって意味ね。勇。これは勇気の勇。意味もほとんど同じ」
「なるほど!だから前半の部分で『正しいことがわかっていながら行動しないのは』って意味になって、後半で『勇気がないからだ』って意味になる。あれでも『勇なきあり』って『あり』があるからこれだと『勇気がある』にならない?でも、『なきあり』って『ない』ことが『ある』って意味だから意味としては『ないからだ』でいいのか?でも『ない』が『ある』ってどういうことなんだろう………」
「言葉ってややこしいわね」
と母は楽しそうに笑った。
「勇気、あなたの名前は『正しいことを勇気を持って成し遂げて欲しい』という思いでつけたの」
「そうなんだ」
「そう」
優し声音の母は胸に抱える妹に目をやり、それから俺の方に視線を向けた。
「だから楓のことを勇気を持って守ってあげてね」
「うん!俺、楓のことを守ってあげる勇気のある人になるよ!」
あれから数年の月日が経った。俺は立派な社会人になり、楓の方もすっかり花の女子大生になっていた。
「俺はこういった状況に陥った時、いつもこの時の母との会話を思い出すんだ」
「へえ、そうなんだ。興味ないけど」
俺は楓と一緒にファミレスに着ていた。
机にメニュー表を広げ、そのページには色鮮やかな二つのパフェ。
トロピカルサンシャインアラモードパフェ。
デラックスストロベリーチョコレートパフェ。
「俺はどっちを選ぶべきなんだ?一体どちらに義はあるというのだ?」
「どっちのパフェを選ぶかに義なんてないから。頼むならとっとと選んで欲しいんだけど。あえて言うならここにおいての義は1秒でも早く選ぶことなんだけど。私この後用事あるんだよね」
「おいおい楓、お前には今のこの状況が全く理解できていないようだな」
「兄が馬鹿みたいな二択で迷っている、これ以上の現状理解がある?」
「やはり全く解っていないようだな。ここを見ろ!」
俺はメニュー表のある二点を右手をピースの形にして示した。
「カロリー?」
「そうだ」
トロピカルサンシャインアラモードパフェ:1025kcal。
デラックスストロベリーチョコレートパフェ:898kcal。
「兄貴ってダイエット中?確かに社会人になってから少し太ったかもだけど、そこまで気にする必要ないんじゃない?」
「何を言っているのだ。俺が気にしているのはお前のことだぞ」
「は?何で私?」
「まったくこれだから。一から説明してやろう」
俺は居住まいを正すした。まだ大学生とはいえ楓も気づいた時には社会人だ。しっかり社会で生きていく上でも俺が教育してやらないとな。
「いいか、楓。俺たちはとても楽しいランチを済ませ、今至高のデザートタイムに移ろうとしているわけだが、自身が既に何カロリー摂取したか分かっているか?」
「は?知らないよ。何か関係あんの今それ?」
「『小エビとチキンのカクテルサラダ』285kcal、『エスカルゴのオーブン焼き』220kcal、『チーズInOutハンバーグ』836kcal、『マルゲリータピザSサイズ』600kcal、ドリンバーから持ってきた『オレンジジュース約294mL分』112kcal、『コーラ約150mL」69kcal、合計2122kcalが楓の摂取カロリーだ」
「何でわかるんだよ。気持ち悪いな」
「身体活動量が比較的多い女性でも1日に推奨される摂取カロリーは2220kcal。つまりお前はこの食事だけで既に1日に必要とされるカロリー量に達してしまっているのだよ」
「うっ」
「そしてお前は社会人の兄に奢ってもらえることをいいとに、既に十二分のカロリーを摂取したその体にデザートを流し込もうとしているな」
「ギクッ」
「今日のお前はなら………、『チョコバナナブラックサンデー』、『銀寄を使ったモンブラン』、『特製ティラミスベルギー風』のどれかで迷っている、といったところか?」
「何でわかんだよ?!アニキガチでキモい!前前から思ってたけど本当の本当にガチガチにキモい!!」
「ハハハ!そんなこと今に始まったことでもあるまい!」
「自分で言うなよ………」
「まあ寛大で寛容な兄としては、お前のデザートタイムを奪うだなんて無粋な真似をするつもりはない。学生は遊びに飲み会とお金が欲しい必要な割に金がないからな。兄活でお金を節約したい気持ちも分からなくもない」
「パパ活みたいに言うな」
「しかしだ、寛大で寛容で真の優しさを兼ね備えた兄としては、これ以上必要以上に妹がカロリーを摂取することを防がなくてはならない。つまりは、お前をどうにかして3つの中で最もカロリーの低い『銀寄を使ったモンブラン』385kcalを選ばせるよう誘導しなくてはならないわけだ」
「そう。じゃあモンブラン選べばいいのね。ピンポン押すよ」
「待て。まだ話は終わっていない」
「いいよ。兄貴がこれ以上何の話をしたいのか皆目検討がつかないけど、とりあえず注文しちゃおうよ。続きなら注文した後に聞くから」
「事を急ぐと碌なことにならないぞ楓」
「兄貴がグダグダ過ぎるんだよ」
「まあまあまあまあ落ち着くんだ。これはお前にとっても重要なことなんだぞ」
「重要って何がだよ?」
「楓、お前は自分が思っている以上に自分が分かってないなということだよ」
『どうしてそんな話になるんだよ』とイライラしつつも、楓は兄の話を最後まで聞くことにした。結局兄を一番早く黙らせる方法は暴力、以外となると最後まで話を聞くことしかないのだから。
「いいか。楓がこれまでしてきた食事11863回のデータを分析するに、」
「ちょっと待って!さらっととんでもないこと言わないで!何で私の食事のデータなんて持ってるの?」
「ん?妹の食事を記録するのは兄として当然の務めだろ?」
「普通いねえよそんな兄」
「ちなみに楓の昨日の夕食は『さばの味噌煮定食ご飯大盛り』835kcalだな。まあ、今回に比べればヘルシーだ。せめてこれぐらいの食事を常日頃から心がけるべきだな」
「ちょっと待って。何で昨日の私の夕飯なんて知ってるの?!昨日は一緒にいなかったよね?!」
「まあそんなことは置いといてだな」
「置くな!」
「これまでのデータを分析するに、楓は同席している人の食事が高カロリーだとそれにつられて高カロリーな食事をする傾向にある」
「えっ、そうなの?」
「もちろん、同じ食卓にいれば似たようなものを食べる確率が高いからな。摂取カロリーに相関が出るのは当然といえば当然。しかしより詳細な分析を行ったところ、そういった要因を抜いたとしても楓に同席した人間の摂取カロリーに影響を受けることがわかった」
「よくわからないけど、凄くくだらないことを本格的に分析したのね」
「つまり楓にその傾向がある以上、俺がトロピカルサンシャインアラモードパフェを注文するか、それともデラックスストロベリーチョコレートパフェを注文するかにより、楓の未来が変わるということだ」
「大げさだな。もう話がややこしくなってきたけど、とりあえずカロリーの低いデラックスストロベリー何とかパフェのほうでいい?店員さん呼ぶよ」
「だから早まるなって。ここからが重要なんだって」
「まだあるの?」
「いいかい、楓。お前はとても馬鹿で数字が苦手だからメニュー表にカロリー書いてあるにも関わらず、何となくの見た目でカロリーを判断しているだろ?フルーツは何となくカロリー低いとか、チョコレートはお菓子だから何となくカロリー低そうとか」
「イライラしている妹に油を注ぐとはいい度胸してるぜうちの兄貴は」
「このトロピカルサンシャインアラモードパフェはイチゴ、メロン、オレンジ、リンゴなど様々なフルーツを詰め込んだとても美味しそうな一品だ。確かに1025kcalと高カロリーだが、実際のカロリーより低いと楓は見積もる確率が高い。一方でデラックスストロベリーチョコレートパフェは、ふんだんに使ったチョコレートをストロベリーソースで彩ったデラックスでとても美味しそうな一品。こちらは898kcalと比較的低カロリーであるが、チョコレートが入っている分、楓は高カロリーと見積もる可能性がある。つまり、実質カロリーと見た目カロリーの逆転が起こっているというわけだ」
「はいはいそうですね」
楓には兄の話を真面目に聞く気力が無くなっていた。
「つまり、俺は実質カロリーを優先するか、それとも見た目カロリーを優先するかの究極の二択に迫られているわけだ!楓がこれ以上ムチムチさせない為にも俺はどちらに義があるかを見極め………」
バチン!
と何かが破裂したような音が響いた。
周囲の客も音に反応してビクッとしている。
その後ピンポーンというファミレス特有のあの音が間抜けに鳴った。先程の破裂音の音源を探して客の中にはキョロキョロしている者もいる。
音の発生源は、楓。
正確には楓の指先、もっと正確には店員を呼ぶ時に押すあの丸っこい機械(確かワイヤレスチャイムって言うんだっけ?) が押された時の音だった。
いや、音だったといったが、どんな押し方をしたらそんな破裂音なんて出せるのか?音速を超える勢いで押さない限りそんな音でないんじゃないか?
「いいからとっとと決めろ」
楓は怒声でそう言った。その顔はまるで般若のそれであり、俺の背筋は凍りついた。
なぜだ?俺はこんなにも楓のことを思っているに、どうして楓はこんなにも怒っているのだ?
いや、しかしそれよりも早くどちらのパフェにするか決めなくては。
ワイヤレスチャイムが押されてから店員が来るまでの平均時間は8秒、標準偏差±3秒。多く見積もっても11秒といったところ。それまでにトロピカルサンシャインアラモードパフェかデラックスストロベリーチョコレートパフェを決めなくてはならない。
トロピカルサンシャインアラモードパフェか。
デラックスストロベリーチョコレートパフェか。
どっちだ?
一体どっちなんだ?!
どっちを選べば、
どっちを選べば、楓はムチムチにならずに済む?!
「ご注文をお伺いします」
なんだと?!まだピンポンしてから5秒も経って……。
しまった。この店員、間違いない。
この風格、そして佇まい。バイトリーダーだ。バイトリーダーは一般店員より早く到着することを忘れていた。しかしこの最悪のタイミングでバイトリーダーが来てしまうとは。
まだ心の準備が、
トロピカルサンシャインアラモードパフェか、
デラックスストロベリーチョコレートパフェか、
まだ心の準備ができてないのに、
「えっと…」
楓がもう注文しようとしている。
どうする?
直ぐに俺の番が来てしまう。
ここは一旦楓だけ注文させて、再度店員を呼ぶか?
いや、選択を後回しにするような意気地ないところを妹に見せるなど、兄のプライドが許さない。
なら決断をしなくてはならない。
トロピカルサンシャインアラモードパフェか。
デラックスストロベリーチョコレートパフェか。
それともトロピカルサンシャインアラモードパフェか、デラックスストロベリーチョコレートパフェか。
くそ、わからない。
わからない。
わからない。
一体どちらが楓のムチムチを止めてくれるのだ?!
「楓待っ……」
俺が殆ど無意識に楓の注文を制しようとしたその時だった。
「このトロピカルサンシャインアラモードパフェと、デラックスストロベリーチョコレートパフェお願いします。以上で」
「かしこまりました」
楓の注文を聞くと、店員はそそくさと厨房の方へ戻っていった。
今何が起こった?
楓がトロピカルサンシャインアラモードパフェとデラックスストロベリーチョコレートパフェの両方を注文したのか?
「楓、これはどういう……」
「私の為だとか何とか、色々遠回しなこと言ったけど、要は兄貴、どっちのパフェも食べたかったんでしょ?」
「ギクッ」
図星だった。いや、もちろん楓の摂取カロリーのことも考えてはいたのだが、所詮人間、自身の欲望も大切にしたくなるのである。
「だったら二つとも注文すればいいだけのこと。私が片方食べるけど、シェアすれば両方食べれるでしょ?」
「いやでもあのパフェ結構なカロリーだから楓がムチムチに……」
「それ以上私がムチムチになるとか言うな。〇すぞ」
楓はフォークの先を俺の眼球数ミリ前まで近づけそう言った。
「はいすいません」
と反射で俺は言った。
「まあ今日は確かに今日は食いすぎたし、一口二口食ったら兄貴に全部やるよ」
と楓は言った。
兄の気を使えるようになるとは楓も成長したな。俺の本心を察しそれに則った行動をする。自分が食べたいデザートが他にあったにも関わらず、兄を優先するとは。兄としては心苦しい面もあるが、こんな立派な妹になったことを誇らしく思う。
「立派になったな楓」
「え、何でそうなるの?」
全くとぼけやがって。可愛いやつだ。
義を見てせざるは勇なきあり。
妹は自分より他人を優先するという義を通したのだ。なら少し気恥ずかしいが、そんな妹を褒めてやるというのが俺の義だ。
どんなに恥ずかしくても、義は勇気を持って行わなくては。
まあぶっちゃけ妹を褒めるのに大して恥ずかしさなどないが。
数分後、二つの巨大なパフェが運ばれてきた。
妹と一緒に食べるトロピカルサンシャインアラモードパフェとデラックスストロベリーチョコレートパフェはとても美味しかった。
このあと、財布の現金が足りず、妹に立て替えてもらうという痴態を晒したことはまた別の話。