【1】 海龍海路
翌朝。
天候も良かったので昼前に出発することになったが、その前にゲルンはニレを伴い、この港町の散策に出かける。
目的は、出発前に海を見せたかったこと、そして船の動力について教えたかったから。
宿から海へはそう遠い位置ではなく、建物前の坂道を下ると、すぐに海に出た。
鼻孔をくすぐる独特の潮の匂い。
最初は建物の影に隠れて見えなかったが、徐々に姿を見せるその風景に、ニレは目を見張る。
目的地である対岸のフレーボムが肉眼ではとらえられない距離にあることもあって、海の向こうは永遠に続いているように見える。
「うわぁ...」
言葉にならない声を発して、ニレは心を囚われている。
ゲルン達が止まった宿屋のすぐ真下は、港と言うより船着き場になっていて、いくつかの、さまざまな船が繋がれている。
港の中枢部、貨物の荷下ろしや取扱所、旅客、貨物の検査所、大型船用の埠頭などは、宿屋真下から見て東側にある。
出に様々な形の船が停泊し、船員たちが忙しく立ち働いている中、ゲルンが一席の船を指さす。
「あれがベルトルドの船だ」
周囲との比較で見ると小さく感じたが、自分たちがやってきた客車や、戦った幌馬車などよりは格段に大きい。
「あの形をよく覚えておけ」
と言われたが、初めて見る海、船である。色と大きさ以外、違いがわからない。
目をこらして必死に見ようとするニレを見て、少し笑いながら、
「まぁ、今はいい」
と言って、ゲルンは町に戻るべく歩いていく。
すぐに宿屋に戻らず、コートブルクの中心地に足を向ける。
その間、ゲルンがニレに、船について少しだけレクチャーしていた。
「船の動力は何だと思う? 海上だから、当然馬は使えない」
少し考えたニレだが、見当もつかない。
「わかりません」
「海は初めてだったな、まあ仕方ない」
と言ってゲルンは、主たる動力としての、帆とオールについて簡単に説明する。
「オールはつまり、人が漕ぐ、と言うことなんだが、当然のごとく、多人数の労力がいる。そこで港町ではその労奴の売買が発達する」
こう言ってゲルンはニレの小さな肩を抱き寄せた。
「奴隷商が普通の町より多い、と言うことだ」
ニレはゲルンが町の散策に出よう、と言って意味がようやくわかった。
これを見せたかったのだ。
「ギデオのような大都市とは別の意味で奴隷商が多い。奴隷を扱う専門家も、魔術師並みの能力を持ったやつがいる」
町はまだ早朝で、奴隷商の館は開いていない。
「そういった奴隷を売買したり管理する魔術師は、奴隷刻印されている人間には恐ろしく敏感だ」
つまり自分が奴隷だと言うことが、魔術的にわかってしまうのだろう。
「だから、お前はここへ一人で来てはいけない。絶対にだ」
奴隷を扱う魔術師は、同時に奴隷を供給するプロでもある。
単に売買するだけでなく、戦争があった場所で仕入れたり、所有者からはぐれた奴隷を奪ってきたり。
そう言いながら、すぐに宿屋へとって返した。
まだ店が開いていないとはいえ、ニレにとって危険な場所になりかねない。
ニレもゲルンの言わんとすることがわかり、しっかりとゲルンの腰に抱き着いている。
外の世界は、自分が考えているよりも恐ろしく、過酷な世界なのだ、とかみしめるようにして頭に刻み込んだ。
「はは、少し脅かしすぎたかな、私と一緒にいるときは問題ない。所有者のはっきりしている奴隷には、連中も手を出さないからな」
宿に着くと、遠征組はもう渡海の準備ができていて、ゲルン達を待ちわびていた。
「剣士様、どこ行ってたんですかー」
とトルカに言われて、急いで朝食をかけこみ、準備する二人。
ベルトルドの船に乗るため波止場に向かうべく、馬車に乗り込んだ。
歩ける距離だったが、宿側が出してくれたのである。
ブフバルトにお礼を言いながら、ニレはゲルンの傍らにぴったりと寄り添っていた。
車中でゲルンがニレに聞いてみる。
「それで、ベルトルドの船は何を動力に使っていると思う?」
「え...と...奴隷ですか?」
ルルとフリーダが口をはさもうかどうか考えながら、この話題を聞いている。
一方トルカは「えー、レニちゃんって...」と口をはさみかけたので、ルルとフリーダに口をふさがれて抑え込まれてしまった。
「実は労奴でも、帆でもないんだ」
とゲルンは言って、窓の外に見えてきたベルトルドの船をもう一度見せる。
早朝の散歩で見たときとは違って、船の先頭に何かが繋がれている。
それが動き始めて、海中からさらにその先端が浮き上がってきた。
それは巨大な蛇の頭、蜥蜴の頭。
脅威よりも恐怖が先に立ちそうな、巨大な海竜が船の先頭に繋がれていたのだった。
目を見開いて、声も出せずレニが眺めていると、
「そう、このベルトルドは水軍師であると同時に、海竜使いでもあるんだ」
とゲルンが説明する。
海面から立ち上がったように見えるその竜の首が、じっとこちらを見ている。
自分を見られているようで怖くなったが、その視線に気づいて、
「あれはベルトルドを見ているから、心配するな」とゲルン。
それを聞いてベルトルドの方に振り向くと、彼もまた海竜の方を見ていた。
「こいつが牽引してくれるんだよ、嬢ちゃん」
と言ってベルトルドがニレに微笑みかける。
安心したせいか、レニは少し落ち着いてその海竜を見ることができた。
茶褐色の鱗が覆われた巨大な上半身。
蜥蜴か蛇を思わせる大きな頭。
その頭部後半から背中にかけて背鰭状のものがついていて、海面に出るとその動きがよくわかる。
肩から下は海面下なためよくわらかなかったが、トルカによると、四肢は鰭のようになっていて指は肉眼では識別できないらしい。
トルカはこの海竜がお気に入りらしく、いろいろと説明してくれた。
太古の生き残りで、フレーボムの神話にも数多く現れると言う。
トルカが得意げに滔々と語っていたので、ゲルンは乗船を促し、ニレとともに桟橋に足をかける。
船室は広く、寝具などもあり、落ち着いた雰囲気。
個室もあるが、この程度の人数では必要なかろうと言うことで、全員がそこで思い思いに寝っ転がる。
船員はベルトルドの他に十人くらいいたので、普段はもっと多くの客を入れて運送もしているらしい。
そのベルトルドは甲板に出て、海竜の首を撫でていた。
遠目には恐ろし気に見えたが、ベルトルドにはすっかり懐いているようである。
やがて船は動き出した。
初めての海、初めての船。
ニレが外を見たがっているのを察して、ゲルンが抱きかかえるようにして窓際へ移動する。
言いつけに従って首輪をつけて、リードがゲルンの手首に繋がっているので間違いは起こりようがないが、それでも一応注意する。
「船の揺れは馬車の比じゃないから、常につかまっていられる場所を確保しておくこと」などなど。
海はキラキラと、どこまでも光っているように見えた。
目を後ろにやると、岸壁がどんどん遠ざかっていく。
先頭を見れば、海竜の背鰭がゆっくりと上下しつつ進んでいく。
正面、つまり船から見て真横は、ポツポツ見えていた島々が消えていく。
やがて海の上に、この船だけがポッカリと浮いているような、そんな感覚になる。
ただし海洋に出たわけではないので、時に島のいくつかが現われては消えていくのだが。
「今回は天候が良かったので、穏やかだな」
と、ニレに言うよりも独り言のようにゲルンが呟くと、
「そうそう、私たちが来たときには風が強くて、すごく揺れたのよ」
とトルカが会話に参加。
「そういうのも体験しておいても良いかもしれんが、荒れないに越したことはない」
とゲルン。
「でも、船旅は私、好き」
と言って、ニレの反対側からゲルンにぴったりくっつくトルカ。
ゲルンは特に拒む様子もなく、そのままにしている。
「今夜には着くかな」
ともらすと、トルカが
「こんなに穏やかな海だから、明るいうちに着くわ」
と穏やかな声で言う。
初対面の時、自分がゲルンの恋人だ、と言って、その時は冗談のように聞こえたが、ほんとに剣士様がお好きなんだ、とニレは思う。
そう思っていたら、風が出て、少し船が揺れた。
ニレが思わずゲルンの腰にしがみつくが、剣士と少女戦士はなにごともなかったかのように動じていない。
「トルカのやつ、がんばってるなぁ」
客室中央で、座りながらナゴエルの銘菓煎餅をかじっていたルルが、三人が立っている姿を見て言った。
「何もすることないですしね」
とフリーダの方は眠そうにあくびをしている。
「しかしトルカを嫁にしてくれれば、剣士様は『山』にとどまってくれるでしょうから、私としてはその方が嬉しいですがね」
と、メルシュもニコニコと会話に参加してくる。
「『山』の誰かとはくっついてくれるんじゃないかなぁ」とルル。
「そうね、もしそれが魔王様もお望みだとすれば、私もトルカの方が良いわ」
とフリーダが意味深なことを言ったので、ルルがいたずらっぽく
「おんやぁ、それは誰と比較して言ってるのかなぁ」
などと聞いて、ニヤニヤしている。
だがフリーダはそれには答えず、知ってるくせに、というような顔で、こちらもまたニヤニヤしている。
数刻経って、船員の一人が、まもなく到着だと告げに来た。
この若い船員も有尾人である。
それを聞いて部屋の中央で寛いでいた4人はのっそりと身を起こし始め、舷側にいたゲルン達三人に声をかける。
船の前面には、夕陽を浴びて橙色に輝く陸地が、そしてはるか向こうに、霧にかすむ『山』が見えた。
「あそこが目的地だ」
ゲルンの言葉を聞いて、ニレが『山』を見つめていると、船はコートブルクの対岸フレーボムに到着する。




