地の文ごっこ
「なぁ、弟よ」
「どうした、兄さん」
「今から『地の文ごっこ』をしよう」
「『地の文ごっこ』? なんだそれは?」
「まるで地の文かのように言葉を発するゲームだ」
「聞いてもよく分かんなかった」
「例えば、こうだ。弟は兄からの提案を嬉々として受け入れた」
「嬉々として……?」
「平素から敬慕していた兄から声を掛けられ、弟の表情は俄に明るくなった」
「平素から敬慕……?」
「どうだ、弟よ。分かってくれたか?」
「分かった。相手のことを好き勝手にイジっていいってことだな」
「いや、何も分かっていないじゃないかっ!! そう言って、兄は発憤した」
「発憤すな。まぁ、とても面倒くさそうな遊びということは分かった」
「弟はそう言うと、嬉々として兄に向かい合った」
「いや、どうして兄さんは、そう俺を嬉々とさせたがるの?」
「いいじゃないか。さぁ、やろうやろう。とりあえず俺は三人称の地の文を担当するから、弟は一人称の地の文を担当してくれ」
「えぇ……。『私は困惑の面持ちだった』なんだが……」
「眉目秀麗な兄は、困り顔の弟を見てこう言った。『いいね、一人称! 上手いじゃないか!』、と」
「兄さんが眉目秀麗だって? よくて中の中だろ」
「博学多識な兄とは異なり、弟はとてもうっかり屋さんだったので、すでに地の文ごっこが始まっていることをすっかり失念してしまっていた。あと、兄が眉目秀麗であることは、誰の目にも明らかな事実だった」
「私はただ哀れみの目で兄さんの平凡な顔を眺めるしかなかった」
「その尊敬の眼差しを、兄は少し気恥ずかしそうに受け止めた」
「おい、改変すな。三人称の地の文、ちょっとズルくないか?」
「長い沈黙の時間があった」
「おいってば……」
「静かな部屋には、ただ時計の音が響いていた」
「私は兄の横暴に憤懣やるかたない気持ちになった。もはやその顔面は、鬼の形相と言っても過言ではなかった」
「文句を言いつつも楽しそうに笑顔でルールに従う弟を、兄は温かい目で見守っていた」
「だから、改変すな!! 三人称の地の文、ズルい!!」
「弟の笑顔につられるようにして、兄から笑い声が漏れた」
「こっちはひとつも笑顔じゃないが」
「弟は満足気に笑っていた」
「いいや。私は激怒した」
「しかし、その熱い感情が容易く打ち砕かれてしまうことを、彼はまだ知る由もなかった」
「私は、かの邪知暴虐の兄を除かなければならぬと決意した」
「しかし、そんな漲る意思が儚く散ってしまうまでに、そう時間はかからなかった」
「呆れた兄だ。生かして置けぬ」
「しかし、そんな弟の背後には、すでに取り返しのつかない危険が差し迫っていた」
「おい、俺のメロス構文を全部フラグみたいにすな」
「へっ? と、兄は品のある優雅な挙措で、鼻をほじりながら答えた」
「ほじるなほじるな」
「では立場を交換してみるかい、という余裕ある兄の提案に、弟はすかさず飛びついた」
「飛びついてないんだが」
「今度は俺が一人称で、弟が三人称ね。はい、スタート」
「何もしていないのに勝手に話が進んでいくんだが……」
「私は……、私は不安だったのかもしれない」
「えっ、急にどうしたんだ? ……と、弟は暗い表情の兄を見て、そう思った」
「明るかったはずなのに、近頃めっきり会話が減り、家にいてもため息ばかりついている弟の姿を見て、私は不安だったのかもしれない」
「えっ?」
「学業で、人間関係で、はたまた金銭のことで、弟は何か大きな悩みを抱いているのかもしれない、そう思ったのだ」
「悩み……」
「もちろん、こんな社会情勢だ。健康のことに関しても悩みは絶えないだろう。しかし、今までにない弟の変貌ぶりに、私はどうしたらいいのか分からなくなった。ただ、思い詰めすぎて、弟がどうにかなってしまってはいけないと強く思った」
「兄さんはそんなことを考えていたのか……」
「しかし、私は眉目秀麗でもなければ、博学多識でもない。そんなこと重々承知していた。私には方法がなかったのだ。そんなとき、地の文とやらに大きな力があることを知った。小説の内容――その物語の流れに影響を与え、一瞬にして全てを変えてしまう、そんな力があることを」
「兄さん……」
「この地の文の力を借りれば、弟のことが少しでも理解できるのではないか。そう思い、『地の文ごっこ』なる怪しげなゲームを携えて弟のもとへ向かった」
「闇のゲームだよ、全く……」
「結果は失敗だった。一人称の地の文を任せてみたが、弟の心情はついぞ聞き出せなかった。そればかりか、逆に私の胸中を吐露するに至った。どうなっているんだ、これは。私は情けなかった」
「どうなっているんだ、はこっちのセリフだよ。一人称の地の文を口に出したら、それはもう地の文じゃない。独白に近いじゃないか。……そう揶揄いつつも、弟は兄さんに感謝していた」
「そうなのか……?」
「弟は非常にパーソナルな悩みを抱えていた。これは誰にも相談できないものだった。もちろん兄さんにも。ただ、兄さんが考えているほど深刻な悩みというわけでもなかったので、兄さんを心配させていたことを知って、弟は深く反省した。兄さんの気遣いは決して無駄ではなかった。それだけは知って欲しいと弟は思った」
「あぁ、私はそれで充分満足だった。突然変なゲームを持ち出してすまなかった。許して欲しい」
「このゲームにもそろそろ限界を感じていたというのに、弟は白々しく平気な振りをした。理由は彼自身にも分からなかった。わずかに残る良心がそうさせたのかもしれなかった」
「良心?」
「決して照れなどではなかった」
「なるほど、察した。私は弟の優しさに涙するしかなかった」
「嘘つけ。兄さんの目の下、カッサカサじゃねーか」
「はははっ、私は大いに満足だった」
不意にページをスクロールする手が止まる。
一連の会話文はここで終わっていた。
「地の文ごっこ」というタイトルの掲げられたWEB小説のページが今、あなたによって閉じられようとしていた。
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