2【二月十九日 月曜日 午前八時二分】
「え」
会社に着いて早々、素っ頓狂な声を漏らす。
「久しぶりだね、楸くん」
自分の名前を呼ばれる。それを理解するのに数秒を要した。それから、
「真野先輩!?」
と叫ぶように目の前の人の名前を呼んだ。
「なんだ。楸と知り合いだったのか。紹介の手間も省けた」
「あ、仙葉課長。いたんですね」
「『いたんですね』じゃねぇよ。何分遅刻だお前?あ?言ってみろよ」
「まあまあ、仙葉くんもそう怒らずに」
すかさず真野先輩が宥める。
「仙葉くんって、真野先輩まさか課長と知り合いなんですか?」
「ああ、大学時代のバイト先の先輩で」
「そうだったんですか。え、くん付け?」
「なんか店長が変な人でな、社員同士はくん付けで呼べって」
「私も最初聞いた時には?って思ったよ。なんなら敬語も禁止だったし」
「だから結構歳離れてるはずなのに敬語外れてたんですね。てかそれ、どんなバイト先なんですか……」
「結構普通の飲食店だよな」
課長がそう尋ねると真野先輩は「まあ、表向きはね」と濁して返す。本当にどんなバイト先なのか。
「そういえば課長は転職してこの会社に入ったんでしたっけ」
「そうだな。俺はその飲食店でバイトじゃなくて普通に働いてたぞ」
「前の職場ってそこだったんですね……」
暫く間が空く。途端、課長がゴホンと咳払いをして言葉を放った。
「まあその話は、取り敢えずだ。楸、実はお前遅刻してないんだ」
課長の言っている意味がよくわからなかったので、「え?」と漏らしてしまった。
「詳しくは私が説明するよ。その為にわざわざこっちまで出向いてきたんだ」
真野先輩がいる理由になるほど、と合点する。しかし、ひとつの疑問が頭をよぎった。
「それに関しては分かりました……。ですが真野先輩、父君のお葬式は良いんですか?」
刹那、真野先輩の顔が曇ったような気がした。
「父……ああ、ニュースを見たんだな」
「はい」
「まあ、その件に関しては後だ。先に君の用事を済ませよう」
「そうですか、わかりました」
口では肯定したものの、理解できなかった。なぜ父親が亡くなったというのにあたかも他人事であるように振る舞えるのだろうか。
真野先輩に連れられるようにその部屋を出ようとした時だった。仙葉課長に呼び止められ、
「ああ、楸。小野木から聞いた事で分からないことがあったら後で俺に聞けよ」
小野木?まあ、真野先輩が連れていこうとしている部屋に待機でもしてるんだろう。そう予測はしたものの、僕はまだ小野木さんを知らなかったので、「はあ、わかりました」と疑問符を頭に浮かべて返すことしか出来なかった。
生憎と真野先輩に連れられて行った会議室には、小野木さんと思しき人はいなかった。
「さて、まずは私の自己紹介しないとな」
「いや、今更する必要も無いでしょう……」
真野先輩の言葉に戸惑った。中学校の頃から知っている人だ。僕が高二になってから今まで五年間の期間が経ったとはいえ、今更自己紹介は不要だろう。
「何と言えばいいかな、私的な自己紹介ではなくてあくまで公的な自己紹介……つまるところ、私の職業についての自己紹介と言ったようなだ」
「職業ということは、この部署に異動してきたという訳では無いんですか?」
「ご名答。私はいわば政府の人間だ」
「なるほど……。では何故政府の人間がここに」
「そう急かさなくても順を追って説明するよ」
「すみません」
「楸くんのそのすぐ謝る癖、未だに治ってなかったんだな」
ふふっと笑みを零しながら真野先輩が言った。それにつられてか、僕も笑ってしまった。懐かしい空気だった。
「話が逸れてしまったな。まあ取り敢えず私の名前は真野明里。ではなく小野木明里だ」
小野木……どこかで聞いたような気が……。
「あっ」
「どうした?」
「ああ、いえ。先程仙葉課長から『小野木から聞いた事で分からないことがあったら後で俺に聞けよ』と言っていたので」
「あのバカ……結婚して苗字が変わった話は隠しといてって頼んだのに……」
「いや、でも僕は小野木さんが誰のことかわかってませんでしたから」
「まあそれならいいか。というか君、反応が薄いな」
「反応?」
何か反応するようなことがあっただろうか、と考えをめぐらせる。特にないな……。いや、待て。あるではないか。今目の前で壮大なカミングアウトを受けたでは無いか。
「結婚!?」
あまりにも驚きすぎた僕は、思わず声を張り上げてしまうのだった。