2‐4 変人の足跡 下
③
一兎が直ぐに「勿論、夢の中での話だろうな?」と口を挟んだのは、彼なりの後悔の現れだった。
ソラの胸中の奥底に閉じ込めていた、鍵をかけているようだった苦い記憶の蓋をこじ開け、口に出させてしまうという──随分酷なことを迫ってしまったと、今更になって実感が湧いた。
自らの腕を焼いた、しかも毎晩焼いた、などという到底リアクションと取れない発言を沈黙で迎えれば、勇気を出して話してくれたソラを深く傷つけることになると、咄嗟に判断してのことだった。
焦った様子の一兎を見て、一兎が抱いた後悔がソラへ伝わったわけではなかったが、“優しい人なんだな”と解釈し──友人撤回に至らず済みそうだと安心した様子で、「あ、勿論夢の中で、ですよ」と返した。
「──夢の中で腕を焼いて、朝起きた時、もしも身体に火傷の痕が残っていれば、プラシーボ効果の実証に繋がる。自然と、魔法を使える身体も着いて来る……と、考えたんです」
「何と思い切りの良い……」
興味本位なのだが、と前置くと一兎は、「ちなみに、夢の中でも熱いのかい?」と聞いた。
「熱いですし、激痛です。どのくらいかと言うと、思わず飛び起きてしまうほどで。それだと全然寝れなくて困るので、寝て直ぐに腕を焼くのを辞めました。
先ずは散々魔法を使ったり、見たい夢を見て、そろそろ朝かなって時に、腕を焼いてました」
遅刻が減るな、と一兎はすっとんきょうな感想を述べると、ソラは救われたように笑った。
「……それで、火傷の痕は、出たのか?」
「──全く。それも三ヶ月続けましたけど、駄目でした」
「ぅうむ……流石は奇跡的存在、魔法というわけか。早々手が届かんな」
「えぇ……なので、愚かな僕は、更なる痛みを、という発想に至りました」
既に、口ごもって続きを催促できないなどといったような感覚は麻痺していた一兎は「どんな?」と続きを促した。ソラも同様に、苦い記憶の箱は、既に開いてしまったのだという感触から、抵抗する様子を見せず、話を続ける。
「──僕は、夢の中で一度自分を殺すことにしました」
「……ふむ。死という強烈なインパクトであれば現実にも何かしらの影響が出ると考えたわけか」
「その通りです」
ドリンクバーで取ってきたメロンソーダを口に含み、一兎は話の続きに備える。
「──自分で腕を焼くという行為には、どこか心で覚悟を準備している念があったので、それがいけないのかなって思ったんです」
「事前に起きると知っている不幸には、耐性がついて重さが軽くなってしまうということか」
「はい。なので、一人剣士を出現させて戦った末に斬られ死ぬ、という夢をイメージしたんです」
“絶対に勝てない剣士”をイメージで出現させる。そればかりかソラには戦闘経験と呼べるものは一切ない。あくまで現実的主観であり、無敵の自分などというものをイメージするような──理想的主観で夢を見ないように細心の注意を払ったとソラは言う。
「──何とか不格好に鍔迫り合いとかを繰り広げて、相手が放った全力の縦薙ぎを躱して、よし反撃っと思ったら、刃は下からもう一度上がってきたんです。燕返しですね」
「そ、それで……?」
「それで……僕の首が飛びました」
首元へ触れていたソラの指先が、ようやく降ろされる。
「……朝、首に何かしらの痕跡が……?」
「……残りませんでした」
「うぬぬぬぬ!!」
目覚めた時、斬られた筈の首──皮膚の薄皮に切れ目一つさえ入っていなかった。それはつまり、魔法を使う為の最後の手段の失敗を意味していた。
ソラが魔法を手に入れることのできないジレンマを、まるで自分が体験したかのように、一兎はペンを強く握り込み悔しさを露わにした。
「……僕、その時、本当に心の底から絶望しました。何に絶望したって、自分が酷く我儘な自己中野郎だってことに気づいたんです」
────おや、珍しい。一兎はそう感じたが、口を挟まずに話を聞き続ける。
「僕が本当に思い通りにしたかったのは……夢なんかじゃなくて、どうしようもない現実だったんです。僕が夢で色々している間にも周囲は勉強して、勇気を出して他人と会話をして、努力して現実を切り開いてるんですよね。
そんな簡単なことを真に受け止めるまでに、凄い時間を掛けて、孤立を作り上げて、自分を不憫に思ったりして……自分で陥った孤独なのに、何故そんな被害者面できるんだろうと思うと……そんな自分に絶望しました」
絶望を口にするにしてはソラの顔は朗らかなものだった。
元々この話は一兎が強要したものであってソラにとっては話したいものではなかった筈。にも関わらず自分の暗い心情を自ら話し始めたソラに、一兎は少し違和感を憶えた。
「星都君……その……変な意味ではなくて、珍しいな」
「……え?」
「や、気を遣いがちの君が、自ら暗い気持ちを語るのは珍しいと思ってな」
「あ、いえ、これは手順の一つだったんです」
「手順……?」
「はい。とりあえず、僕が“思い通りにしたいのは現実のほうだったのに”と、後悔したということだけ、記憶しておいて下さい。これは同情を請うような、そんな被害者意識を持った言葉ではなく──単なる手順です」
理解及ばないままに、とりあえずの感じで一兎は頷く。
「そこで、僕は魔法を諦めます」
「何ぃ!?」
「他者主観でいえば、良い事だったんです。何故かと言うと、僕は幻聴幻覚に襲われながら──現実逃避を繰り広げながらも受験して今の高校に受かりました……同じ高校に通う葉ノ月君には失礼な話ですけど……その……」
遠慮は無用といった勢いで、「うちの学校は偏差値低いからな」と割って入ると、ソラは気まずそうに笑った。
「は、はい……そのこともあって、僕は現実で生きていこうと、珍しく前向きになったんです。折角高校には入れるのだし、これを機に生活をリセットしようと──中学入学の時と同じ想いを再び決意したんです」
「まぁ確かに、良いことだな」
その決意は魔法から遠のくことを意味する。ソラに対してアニメから出てきたようだと言った一兎は口を尖らせ、ソラが決意した三次元的前向きさに不服そうにした。
────なんだ、つまらん。
そう顔に書いてあるようだった。
そんな一兎の期待に応えるかのように、「それで僕、刺されたんです」と、ソラは言った。途端、一兎の顔色が変わる。
「……夢の中での話だな?」
「──現実のほうです」
「……な……さ、刺された!?」
「はい。がっつり三か所。お腹と両太ももの計三か所を刺されました」
絶句しながら一兎は思わず、「す、すまない」と零した。それはつい先刻取ってしまった不服を示した態度についてだった。ソラは笑って、「いえいえ」と返した。
「──春休み中でした。あの時、確かニュースで警報を鳴らしていたと思うんです。通り魔が二人の人間を刺して、現在も逃亡中……そんな事件があったんです」
「あぁ。それなら憶えている。既に今通っている──渋谷青葉高校に入学が決定していたからな。このまま犯人が捕まらなかったら、と両親が心配していたよ」
今となっては、犯人は逮捕されている。その二人目を刺した後から逮捕の間、三人目の被害者が居ること──それが自分であると、ソラは言った。
「……知らなかった。しかし何と言うか……不運が極まったという感じだな」
「……え?」
「丸々二年掛けて魔法を追うものの手に入れるには至れない。絶望して……そして前向きになった途端、刺される。流石に……あり得ない」
ソラは微笑んで、ゆっくりと首を横に振った。
「不運じゃなかったんです。そう思ったこともありますけど、不運だなんていう──偶然に起きた悪い出来事じゃないんです」
「と、言うと?」
「あり得ないことってあり得ないと思うんです。現実逃避を辞められず魔法を欲しがって……幻聴や幻覚なんかは夢日記のリスクであることを知りながら行ったのだから当然の報いですし、魔法なんていう奇跡的存在を手にしようとしたのに、二年なんて月日は少ないと言えますし……」
────刺されたことも同様なのだろうか。
疑問めいた表情のまま一兎は、ソラに視線を注ぐ。
「刺されたことも同じです。僕、こんな性格なので極力人と関わらないように避けて行動してたんです。
渋谷区に家がある僕にとって、人でごった返す渋谷は地獄でした。そんな僕は、渋谷という街にも人通りが少ない道はないかと探し、熟知に至りました。
通り魔が逃亡中というニュースを目にしながらも、自分とは関りが無いことだと決めつけて、その日も人通りの少ない道を歩いていたんです」
人のいない道を好んで歩くソラと、人のいない道で犯罪を行おうという犯人との需要が一致した。かといって犯罪に遭う可能性が一〇〇だったわけではないものの、その数値を高め、零にしなかった行いで生まれた偶然を、“必然”若しくは“当然の報い”とソラは言い換えて説明した。
「しかしよく……無事だったな」
「──下半身不随になりました」
「なっ…………」
「あ、重く捉えないで下さいね。何せ二日で治ったので」
「な、な、な……」
話についていけない、といった様子で一兎はソファーへ上半身を崩して落ちた。崩れ落ちるや否や、ガバっと起き上がり、「そこで魔法が!?」と、興奮して問いかけた。
「──はい」
「しかしよく……何というか、更なる絶望感が襲ったんじゃないか?」
「……絶望感というか、虚無感というか……解放感というか」
「解放?」
「──何とか一命を取り留め、出血多量により意識不明のまま病院へ搬送され、手術をしてもらって……目が覚めた時に足が動かせないことを体感して……何か心の底から……どうでもよくなっちゃって……」
過去の話をしているにも関わらず、一兎には嫌な予感が走る。
────まさか自殺。
そんな風に思った一兎が、まるで現在進行形の話でも聞いているかのように食い気味で、「それで!?」と割って入った。
「────寝ました」
「呑気か君は!!」
「あはは……い、いえ……何か本当にどうでもよくなっちゃって……輸血してもらったとはいえ、血が足りないせいかクラクラするし、刺された箇所は激痛だし、足は動かないし……起きてても良い事ないなって思って。
寝れば、明晰夢のお陰で身体は自由に動くだろうと思って、それで……寝ました」
呑気とも思える発言を耳に入れると、グイっとメロンソーダを飲み、一兎はプラスチックのグラスの中身を空にして大きく溜息をついた。
「僕は想像通りに夢を見ることに失敗しない為に、スタートをいつも同じにしています。真っ白い空間に小屋が一つあるだけで、小屋にはベットと卓袱台しかありませんでした。いつもそのベットで目を覚まします。
病院で眠ったその日、小屋から出て白い空間で魔法を使いました。諦めると決めていただけに、魔法を使ったのは久しぶりでした。
手の平に出た炎を水の球が食べて消して、その水の球を氷に変えて、その氷を新たに出した紅茶に入れたりして……そんな風に遊んで……そんな想像力が瞬時に形になる魔法を見てて、やっぱりいいなぁって思いました」
一兎もまた、自分の中で魔法という幻想を想像し、子供のように瞳を輝かせる。
「──そこで再び自分に待ったを掛けたんです。“駄目駄目、僕が思い通りにしたいのは、現実のほうなのだから”って……何度も何度も言い聞かせました。何度も言い聞かせている、その自分の言葉がヒントになったんです」
ソラがどのように魔法へ至ったのか。最後の鍵は何だったのか。一兎なりに考えを巡らせてみるものの、全く理解できずにいた。楽しみにソラの口が動き出すのを待つ。
「──夢日記を綴れば、夢を思い通りに操作できる。ではもしも──“夢の中で現実の日記を綴ったら”────」
一兎は天啓を受けたように口を大きく開け、「──現実を……思い通りに出来る!!」と大声で言った。ソラは深く頷いた。
「──僕はこう考えました。僕は既に夢という存在を、脳が見ている幻想ではなく、その中で丸々二年の月日を過ごしたことで、一つの世界として体感している。
容赦なく一〇〇個以上の幻聴や幻覚が、現実に入り込んで来るほど脳は暗示にかかっている。それは最早、夢ではなく、別の世界を過ごしているという──現実的体感」
一兎から、「まるで現実に唯一存在する異世界」と思わず表現が零れ出た。
「──はい。夢日記というある種、“おまじない”と言える行いは夢という脳の一部に影響を出したに過ぎない。そう思う気持ちは僕には既にありませんでした。
夢という、“世界”に影響を出した、と思ってました。何より足の動かない僕にとって、身体の動く夢のほうが現実だったと思いたかった。思っていた。
僕は日記を出し、二日間丸々眠って、丸二年……思い出せる限りの現実での出来事を夢の中で綴りました」
思わずコップを口に着け斜めに上げた一兎だったが、コップに付着したメロンソーダの一滴だけを舌で拾い取ったばかりだった。
「──日記は三〇〇頁ほどになり、それ以上思い出せないと感じると、僕はそんなことでは魔法を使えないと思って、粘り、苦悩し、何とか五〇〇まではページを増やしました。
記憶を限界まで辿ると、眠っているのに疲労感を憶え、僕は最後に夢の中での身体の感覚──全快している身体の感覚を強く保って目覚めました」
病室のカーテンから入り込んだ朝日に出迎えられたソラの身体から、痛みの全ては消えていたと、ソラが説明を終えると、一兎が、「ぷ……プラシーボ効果……」と言った。
「はい。あれだけ行っても出現しなかったプラシーボ効果は、回復という形で初めて形に成ったんです」
「な、なんという……」
「──病室の床に恐る恐る足を着けて、余りの感動に呆けていた僕の目に、ナースコールボタンが入ってきました。
共同病室はカーテンで仕切られ、僕が眠っていたベットの区画には誰もいなくて……」
────もしかしたら、魔法が。
瞬時に過ったソラは右手をナースコールボタンへ突き出すと、瞳を閉じる。
少し思い悩む。夢ではなく現実で魔法を使うとしたら、想像力を介する何かが必要ではないだろうか。夢と現実を区分けしながらも介入させるような存在。
────魔法陣。
ソラの中でイメージが完成した、その時。
ソラの右手の前には、白と紫色に発光する六芒星魔法陣が完成していた。
魔法陣から何となくでポロっと氷を出す。落ちて転がった氷を、身体の一部のように思うと、氷は浮き上がり、ナースコールボタンへぶつけた。
遠くのほうで、『ビー!』っと音が鳴った。
ソラは説明を終えたのだった。
「──結果的に、魔法は副産物だったんです」
「確かに……」
少しの間、部屋に沈黙が立ち込めると、ふと一兎が何かに気づき、はっとした表情でソラに視線を送った。
「……そうか。君が俺と関係を持つことを拒んだのは……もしかして幻覚症状が原因か?」
バレた。そんな気まずく恥ずかしそうな感じでソラは頷く。
「……はい。最近は幻覚も見なくなりましたし、幻聴も聞こえません。
ただ……余りにも強烈なものばかりだったので、僕がもし幻覚を通して奇行に走った時、周囲に迷惑を掛けるかもしれないと思うと……」
「だから君は“自分は人と関わってはいけないと課している”と、屋上で会った日に言ってたのか」
突然、一兎はソファーの上に両膝を着いて、頭を垂れた。
「そんなにも閉まっておきたかった話を、無理に言わせて済まなかった」
秘密を明かさせてしまったこと。自分の隠しておきたい闇を、再認識させるように思い出させてしまったこと。途中途中の不謹慎とも言えるリアクション。その全てを一兎はソファーに額をつけて謝罪した。
「いえいえそんな! むしろ何だか……僕のほうが楽になった感じで」
一兎が救われた表情で顔を上げる。
「そうか……ならばいいが……」
「本当に気にしないで下さい。服は、作れそうですか?」
一兎の普段の様子が戻る。ソファーの上に立ちあがり、ジョジョ立ちを繰り広げ、「任せてく──」と言いかけた途中、手を上げるポーズだった為に低い天井に指先をぶつけ、あいたっと言いながら別のポーズに変わった。
「任せてくれ給えよ!」
「……指大丈夫ですか?」
「凄く痛い! だが心配無用! 時に星都君!」
「は、はい」
一兎は正座の姿勢から人差指を立てると、「黒歴史を知り合った仲なのだから、タメ口解放のフラグが立ったと言えるのではないだろうか」と自慢げな顔で言う。
それに「…………そうだね」と、ソラが笑顔でイベントスイッチを踏むように敬語を取り払って返答した。
一兎が満足気にふふ、と微笑すると、「それと次の異世界化は何時だね!? 締め切りを知っておきたいのでな!」と意気込みを現わした。
「あ、えっと六月一〇日です」
活き活きとした表情だった一兎は途端に青ざめる。ソファーにお尻をつけると携帯を取り出し、恐る恐るホームボタンを押すと、画面上部に13:30と表示され、その真下に「六月九日」と表示されていた。
一兎はソファーの上に両膝をついて正座に直し、頭を下げた。
「──すまん。絶対に無理だった」
「あ、いえいえそんな辞めて下さい! 明日の異世界化は、僕不参加なんですよ」
一瞬、何を言っているのか理解できずにいた。少しの硬直を経て、信じることが出来ないと驚く表情で一兎は顔を上げた。
「不参加……だと?」
「はい。不参加なんです」
「な、何故!?」
そんなことでいいのか。世界を救おうというものが、そんな体たらくでいいのか。何処か許せないといった様子の一兎。
対してソラは自慢気になることもなく、得意気になることもなく、唯々謙虚に、慎ましく、何なら少し恥ずかしそうに、「明日、被害ゼロで終わると思うので」と言った。
ソラは今になって、ドリンクバーで取ってきた烏龍茶に、グイっと口をつけた。




