月夜と軍靴と港街:2
-§-
格納庫での騒ぎから数分後、”陸上船”の通路には二人分の足音が響いていた。足音の片方は、仏頂面で黙々と歩き続ける長身痩躯のラムス。もう片方は、どこか白けた様な面を見せながら肩を揺らして歩く巨体。即ち、バッハ・アーベライン将軍である。
肩を並べて同じ方向を目指すその二人の足並みは綺麗に揃い乱れもない。
しかしその一方、両者の間に蟠る雰囲気はお世辞にも友好的なものとは言えなかった。具体的には、偶々何も知らずに通りがかった兵士が、思わず来た道を引き返す程度に険悪の一言である。
「……なぁ、おい。何時まで怒っとるんだ、ラムス」
更に言えば、その険悪な雰囲気を発しているのは、主にラムスの側であった。先程から一言も口を利かずにずんずんと先へ行ってしまうラムスに、バッハは「やれやれ」と文頭に付ける態度で、
「悪かったと、そう言ったじゃあないか。先程、格納庫を出た時に……」
バッハは、彼を遠目に見た時、まず「獅子か虎が歩いている」と評される程の大柄な老人だ。既に齢六十に迫りながらも意気軒昂、浅黒い色の肌には生気が満ち満ちて、鍛え上げられた肉体は若々しく、腕と脚は丸太の様に太い。背も曲がらず、胸は張り、足取りは堂々。
太陽が輝くのにも似た眩い眼光の灯る黄金色の二つの瞳が、それと同じ色の頭髪と太い眉毛の下にあり、視点を下げて口元には立派なカイゼル髭。
その長い人生の中、潜り抜けて来たであろう数多の修羅場を想起させる岩石から掘り出されたが如き相貌はしかし――矛盾するようだが――むしろ柔和な印象を見る者に与える。そこには巨岩の様に泰然自若としていながら、時に青春期の少年にも劣らない程の溌剌さと奔放さを発揮する彼の性質が、十二分に表れていた。
そんな彼が、今はなんとも詰まらなさそうな表情を全面に表している。その理由は言わずもがな、彼から「お楽しみの時間」を取り上げた同僚にして長年来の戦友が、まともに取り合ってくれない事に対しての不満であった。
「……ったく、お前は本当に、昔から堅物というか気が利かんというか」
バッハは恨めし気な口調で、隣を歩くラムスへと語り掛けた。本心を隠したり、感情を溜め込む、といった考えはこの老人にはそもそも存在しない。いい加減にラムスの態度に据えかねた彼は、どこまでも正直に、かつ真正面から、不平を口にし始める。
「折角、皆で楽しく軍務の愚痴を言い合い発散すると共に、明日からの英気を養っていたというのに……。お前の様な無粋者がやってきては、全て台無しだろう」
……あの後結局、バッハ達の「交流会」は怒り心頭に発したラムスの手により強制終了される運びとなった。バッハ自身も格納庫と宴から引き離され、今こうして二人肩を並べて何処かへと向かっている。
酒盛りをしていた兵士達も「後々処分を伝える」とのラムスの通告に恐れ入りつつも、明らかに興が削がれたとばかりの表情で三々五々に解散していった。現在は本来の待機場所に戻っているだろう。
「言っておくがな、ラムス。私達は別に、サボっていた訳ではないのだぞ?」
そこでバッハは言い訳を――彼にとってはこの上なく正当な主張を――開始する。
「あれに参加していた兵達は、警備や整備作業、その他様々な雑務も含めて割り振られた分の仕事を既に終えていたのだ。嘘だと思うならば後で確認してみると良い。ともかく、彼らは彼らの義務を既に果たしている。で、あるならば、休息を享受する権利は当然あって然るべきだろう?」
彼と彼の部下の名誉の為、念の為に明言しておけば、バッハの言っている事に嘘はない。あの酒盛りに参加していた兵士は全員、ルーチンの中で与えられた分の作業はきちんと済ませ、引き継ぎも終えて休憩時間に突入していた者だけなのだ。
「だと言うのに、こんな狭苦しい所に押し込められて、碌な楽しみもなければ気が滅入るばかりだろう。上陸許可も中々下りんようだし、そこで私が彼らに声をかけてみたら皆嬉しそうに参加を快諾したのだ。ああ、権威を笠に着て強制した訳でもない。そこは誓って良い」
つまりだな、と。バッハは一人で納得した様に大きく頷いて。
「私は誰に迷惑を掛けた訳でもなく、ただ部下を慮っただけだ。持ち出した分の食糧や物資は、作戦に影響を与える程の量ではない。後程、きちんと私が私費で補填する。なんなら領収書を書いたって良い。……な? だからなラムス、お前が不機嫌になる必要などないだろう? んん?」
対して、ラムスは応えなかった。口元を引き結んだまま視線を前方に固定し、バッハからの言葉を完全に無視している。ただ、バッハが喋る度に微かに眉間が「ぴくり」と動いているので、どうやら言葉の全てを受け流せているという訳でもなさそうだった。
バッハはラムスの様子を見て取り、やれやれと大袈裟に首を振って苦笑。
「そんなだから、お前は部下に嫌われるんだぞ。規律規律と繰り返すばかりで、常に節制と忍耐を強いていては兵達もどこに心の逃げ場を求めれば良いのか、分からなくなるではないか。将が余裕を失えば、下に就く者達は二重の重圧を受ける事になるのだ」
それに、と。バッハはこれ見よがしに、自身の赤紫色に腫れた左頬を撫でた。打撲傷である。
「幾ら何でも殴ることぁないだろうに。私は一応お前の先輩だし、階級も一個上ではないか。兵士の前でそんな事をすれば、示しがつかんだろう」
「――示しが、付かない?」
と、そこでようやく、それまで口を閉じた貝の如く押し黙っていたラムスが言葉を発した。彼は苦虫とニガヨモギを纏めて擂鉢で磨り潰し、濃く抽出したコーヒーに混ぜ込んで、明礬と重曹と古くなった葡萄酒の滓も加えて飲み下した後の様な、凄まじく苦みと渋みの走った声色で。
「お前が、それを言うか。曲がりなりにも、作戦行動中だというのに、そこで酒盛りを始める様な男が」
「お、おい……ラムス……?」
そこでラムスは遂に、傍らを行く同僚へと視線を向けた。限界まで見開かれ、怒りと恥辱で血走った双眼に射貫かれて、流石の百戦錬磨バッハ・アーベライン将軍も思わず顔を引き攣らせる。構わず、ラムスは顎に力を籠めすぎた所為で妙に震える声で尚も続けた。
「サボっていた訳ではない? 仕事は済ませた? 楽しみがない? 誰にも迷惑は掛けていない? それが全て事実だとして、お前は、本気で、自分の行動に何一つたりとも、問題がないと、そう言うのか?」
「あ、あー、いや……うむ、少しは反省を……」
「少しは?」
眼下から思い切り睨め上げる様に覗き込まれ、バッハは一歩退いた。頭の片隅で「おお、戦場では一歩も退いた事のない私を威圧するとは、流石」等と妙に暢気な事を考えつつ、一応は顔に謝意を浮かべて、
「……ああ、分かった分かった。すまんすまん、以後なるべく、しない様に努力する」
「それが謝る態度かァ――ッ!!」
ここでとうとう、ラムスは二度目の怒号を迸らせた。通路内に大声が反響し、何事かと部屋から飛び出て来た兵士が目を白黒させている。バッハはそう言った手合いに「気にするな」と手を振って下がらせると、わざとらしく溜息を吐いた。
「おい、煩いぞ」
「誰の所為だと思ってるんだお前はァ――ッ!!」
痩せた鳥の様に扱けた頬を限界まで引き伸ばし、平常の怜悧さを完全に捨て去った紅潮した顔でラムスは激昂する。バッハは「うわ」とあからさまに迷惑そうな顔になると、両腕で耳を塞ぐ格好をする。それが益々ラムスの癇に障り、彼は更に声を上ずらせた。
「お前、お前なァ!? ”六帝剣”とも在ろう者がだ、兵の規範となり導く立場にある者がだッ!! 任務中に酒を飲むわ兵を不埒な行為へ誘い込むわ物資を横領するわと前代未聞だぞ、ええおいッ!?」
「今に始まった事ではなかろうに……」
「ああそうだな……自分で言うかァ――ッ!! 尚更悪いわァ!!」
ぜえぜえと、肩で息をしながらラムスは鋭く指を突き出し、バッハを糾弾する。”陸上船”の中央通路のど真ん中で。
「お前、初めて出会った時からそうだったなァ!? ”帝都”を守護する誇りある騎士勤めの身に在りながら、博打をやるわ女通いするわと!! その癖、常に私の一個上の階級に居座り、一応は顔を立ててやろうと思っている内にずるずるウン十年の腐れ縁だッ!! どうなっているんだ!?」
「そりゃ、私の責任ではなかろうに……。大体私こそ、痩せっぽちの若造が何時までも魚の糞みたいにくっついてくるのが不思議でならんかったわ。流石に大戦で死ぬかと思っておったら、普通に生き延びるしなぁ。いやあよく頑張った頑張った」
「嬉しくないわァッ!! 言うに事を欠いて人を糞扱いするかお前はァ――ッ!!」
最早、一方的にラムスが激高するだけの言葉の応酬となりつつあった。通路の影や扉の向こうに身を潜める兵士達は戦々恐々とし、一方でその中に混じる古参兵は「またか」という慣れた様子で肩を竦め、新参兵達を宥めてやる。
実際のところ、この二人は『クラースヌィ連邦』との大戦前からの、非常に長い付き合いの間柄なのだ。そして、両者とも十代後半の頃には軍へ志願しているのだが、ラムスはバッハに比べて数年程後になっての入隊である。
言うなれば彼らは「先輩と後輩」に近い関係性であり、ラムスにとっては長い軍隊生活の中で、その事実こそが何よりも頭を悩ませる要因であった……。
几帳面で規律第一のラムスと、奔放で自己流を貫くバッハは、その外見的特徴から服飾の趣味や好物に至るまで、あたかもお互いの裏を取り合う様に全くの正反対である。それでいて、どういう訳か不思議と縁が切れない。
故に、この様な罵倒合戦――大体はラムスの口撃をバッハが受け流す形だが――は定期的に勃発しており、ある程度の軍歴を持つ兵士ならばとっくに見慣れた光景となりつつある。
さて、掛け合い事にヒートアップを重ねていくラムスは、撫で付けた髪も軍服の袷も乱しつつある。それでも気が収まらないのか、或いは今までに耐え兼ねた分を全て発散しているのか、次々と多種多様な罵倒を繰り出していったのだが、……とうとう体力的な限界が来たらしい。
荒く息を吐きながら、顔面中に汗を滴らせ、それでも眼光は鋭く……言っておかねばならないと信じた事を、何とか口から絞り出した。
「ぜい……ぜい……。だ、大体……なるべくとはなんだ、なるべくとは……!? 二度としないと、確約しろ……!! 仮にも騎士ならば、その身分と負う責に相応しい行動を、心掛けんか……!!」
必死さすらも滲ませたラムスの訴えに対し、しかしバッハはあっさりとした態度を崩さず、
「私は嘘が嫌いでな。出来ん事を約束するつもりはない」
そう、堂々と言い切ったのであった。
これにラムスは益々気色ばんで、尚も叫び声を上げかけるが……ここに来てようやく、彼の自制心が働いて来たらしい。軍規を第一とする筈の自分が、艦内で大声を上げているという状況を顧みたか、それとも怒りが一周して却って落ち着いてしまったのか。
「お前、なぁ……ッ!! ああ、糞……!!」
……単純に、暖簾に腕押しと改めて思い知らされただけか。かくり、と顎を落とし。次いで、上半身を項垂れさせ、顔を手の平で覆うと十数秒にも及ぶ、長い長い溜息を吐き出した。
そうしてから、疲労でますます痩せた印象になった顔を上げ、じっとりと粘性すら含んだ視線でバッハを睨んだ。
「……”帝都”に帰還したら、皇帝に直接報告させてもらう」
「チクリ魔め」
「お前の好き勝手を放置しておいたら、軍の士気はガタガタになるからだ……!!」
「フン、この程度で揺らぐ士気なんぞ、最初からあってない様なもんよ」
”六帝剣”の一人が最後に放った一刺しも、同じ立場の存在には大して効き目がなかったらしい。バッハは自分の雇用主でもある「国家主権者」の顔を思い浮かべて、苦笑。
「”褐色皇帝”の親父殿も、こんな些事に係う事になれば手が足りんでなぁ。一々部下同士のトラブルを裁いていたら、本当に過労死してしまいかねんぞ」
「その原因を作ったのは誰だと思っている……! 大体、その言い草はなんだ! 敬意がないのか、お前には!」
「私と歳もほぼ変わらん相手に敬意、と来てもピンと来んわ。昔なんぞは良く一緒に酒場に繰り出したし、若さに任せて色々と阿呆な事もした。私にとっては精々、気の善い親父殿でしかないわな。向こうも、礼儀だのなんだのと、そこまで気にしとらんのはお前も知っておるだろう?」
そう言い返され、ラムスは歯噛みする。確かに、当代の皇帝は昔から臣下に対して気さくであり、”六帝剣”の皆とは単なる主従関係を越えた親しい仲を構築していた。特に歳の頃が近いバッハとは気が合ったのか、二人で遠乗りやチェスに興じている姿を幾度も見かけた事がある。
「あの頃は楽しかったのだがなぁ……。親父殿も元気で、共に帝国の将来について話し合ったり、そのまま他愛のない馬鹿話をしたり、と。ニ、三年前までは公務にも積極的に参加しとったし、親父殿の故郷で作られたサクランボの菓子を持って行ってやれば、大喜びで食いもした」
と、しみじみ言うバッハは、そこでやや表情を曇らせた。
「だのに最近、なにやら心労を抱えてるのか碌に笑いもせんし、何時も何かを考え込んでおる。話し掛けても上の空な時も多い。皺も増えとるし、胃の具合も悪いらしい。あの調子じゃあ、ボケるのも早いぞ。そうなる前に譲位させて、さっさと引退させてやった方が――」
そこで、それまでの物とは明らかに性質の異なる張り詰めた怒りの気配を察し、バッハは口を引き結んだ。
見れば、自分の同僚が先程までの醜態を完全に消し去り冷然とした表情を固めている。いっそ、無機質とすら感じられる程の研ぎ澄まされた刃にも等しい視線を、ラムスがバッハへと向けていたのだ。
「皇帝への侮辱は、幾らお前と言えども……」
「すまん」
バッハは、ラムスの言葉をその張り詰めた空気ごと断ち切る様に、短く謝罪を口にした。洒落気もからかいも一切含まず、真っ向からあくまで自然体としてそう言った。
ラムスはバッハの謝罪を受けると、一瞬、視線の緊度を緩めた。それを見計らう様に、バッハは平常と変わらぬ口調で長年来の友へと語り掛ける。
「悪気はなかった、許せ」
「…………」
「お前は、皇帝に恩があるからなぁ」
その言葉には頷く様な笑みが伴っていた。ラムスはそこでようやく表情から力を抜くと、やはり長年来の腐れ縁に対しての口調で、
「……言葉が過ぎるのは、考え物だな。普段からの態度と言い、他人に誤解を与える様な真似は止せ」
「それは、すまんな。だが、なんせ、私も生い先が短いんでなぁ。思った事はなんでも言っておかんと、最終的に墓の下まで持って行く事になりかねん」
「良く言う、私が死んでも五十年は平然と生きていそうな男が……」
ラムスは笑わず、片眉だけを持ち上げて小さく息を漏らした。口元をやや緩め、ほとんど呟く様な声の小ささで、言う。
「……皇帝の御身体の調子が思わしくないのは、私とて知っている。最近では夢見が悪いのか、あまり良く眠れていないらしい事も、な」
「薬師や、《安息睡眠》を使える”帝式魔技”使いは控えさせているのだろう?」
「あまり、効果はないらしい。一過性の心労ならば良いのだが……」
ラムスは深刻な面持ちを浮かべると、どこか戸惑う様に口を開いた。
「……我々がこうして派遣されたのも、皇帝の命であったが――」
そうして、言葉を確かめる様に続ける。
「――何故、ただの輸送任務に託けてまで”六帝剣”を、それも二人も同行させるのか。あのお方は一体、何を目的としておられるのだろうな……?」
と、言うよりも。
「一体、何を恐れておられるのだろうか……」
-§-
……『ゲルプ帝国』東方部にて、帝国軍が定期的に行っている各地市町村の治安維持と不穏分子に対する警ら任務に同行していたラムスが突然”帝都”へ呼びつけられたのは、ほんの二日前の事であった。
彼は一旦は任務を優先としてその召集を拒もうとしたが、それが皇帝直々の勅令である事を知ると急遽予定を切り上げ、迎えの車に乗って”帝都”へと急ぎ取って返した。そうしてそのままの足で王城へ向かうと、皇帝との謁見に臨んだのである。
「――ラムス・シュレーダー、只今帰参致しました。主上に置かれましては、ご機嫌麗しく、恐悦至極に存じます」
恭しく首を垂れるラムスに対し、壇上の王座に控える”褐色皇帝”は緩やかに微笑んだ。
歳の頃、八十を過ぎて見える老人であるが、実際には今年で六十三歳である。かつては一点のくすみもなく黄金色に輝いていた髪は色褪せ艶めきを失い、肌には水気を失って罅割れた荒野の如く縦横に皺が走っている。年老いて細くなった体には、身に纏う豪奢な装いすらも負担になっているのか、立ち上がる事すら億劫な様子である。
ラムスはちらりと上目に皇帝の様子を窺い、内心に澱の様な不安と当惑を得た。明らかに以前よりも体調が悪くなっている。表情こそ微笑んではいるが、視線は虚ろに彷徨い力がない。透き通る青空の様であった両の瞳は、今靄が掛かったように白く霞んでいる……。
これが、あの偉大な皇帝の姿だろうか。三十年前、『クラースヌィ連邦』との戦争に於いて常に兵の先頭に立ち万軍を鼓舞し続けた、勇壮にして叡智と誇りに満ち溢れた”褐色皇帝”の現在だというのか。
ラムスは皇帝の目に触れない様、膝上に当てた右拳に力を込めた。あまりにも敬愛する君主の姿が痛ましく、そしてそれに不甲斐なさを感じてしまう自分自身が許せなかったのだ。
そんな臣下の様子には気が付かない皇帝は、声を一つ出すにも難儀した様子で苦し気に言葉を紡いでいく。
「良い。そう堅苦しくならんでも、な……。それよりも、任務の最中に呼びつけてしまい、すまない……」
「滅相も御座いません。この身、この命は全て御身の為に。如何なる命とてやり遂げる所存にて、なんなりと仰って下さい」
ラムスは即答した。彼の言葉には一切の虚偽偽りがない。例えば今ここで皇帝が「死ね」と命じたならば、彼は迷いもせずにその首を自ら刎ねるだろう。それだけの忠義と、恩義を、ラムス・シュレーダーという男は”褐色皇帝”へ抱いていたのだ。
ラムスの言葉に満足した様に皇帝は二度三度と頷くと、震える腕で自身の臣下を呼び寄せた。即座に立ち上がり、皇帝の足元へと歩み寄っていくラムス。
「ラムス・シュレーダー……。私の忠実なる僕……。そこに、居るかね?」
「ええ、ここに。さあ、一体どのようなご懸念を抱いておられるのですか? この私めに、どうぞ、お教えください」
すると、皇帝は何かを言い掛け……大きく咳込んだ。肺の底から何かを込み上げる様な、湿り、籠った咳である。前に崩れた皇帝の身体を駆け寄ったラムスが咄嗟に支える。皇帝の身体に触れたラムスは、まず第一に「軽い」と、第二に「冷たい」と、そう感じ、怖気を得た。あまりにも生命力が乏しく思えてならない。
だが、そんな事に逡巡している場合ではない。ラムスは尚も咳込む皇帝の背を擦ってやり、彼が吐き出した物を速やかに懐紙に包んで目に触れぬ様に棄てた。その際横目に見たそれに、どす黒く濁った赤色が混じっていたのを、ラムスは努めて無視した。
「どうやら御身体の具合が優れない様子、医者を呼びますか」
眉を落としたラムスの提案に、皇帝は「いや」と頑なな様子で首を横に振った。どうするべきか、と悩んだラムスの腕を、まるで枯れ木の様に細い皇帝の腕が掴む。込められた力がやけに強く、ラムスは痛みを覚えるが……表情には決して出さない。皇帝の身体は震えていた。
故に、ラムスはあくまでも落ち着いた声で、皇帝に問い掛ける。その恐怖か不安を、せめて拭い取れるようにと、心からの忠義を言葉に乗せて口を開く。
「私めはここに居りまする。さぁ、ご安心為さってください、何も恐れる事などありません。どうぞ、ご憂慮の全てを吐き出して下さいませ。御身を煩わせるあらゆる邪な物を、このラムス・シュレーダーが祓って御覧に入れます」
そうして語り掛ける内、皇帝はぽつぽつと語り始めた。途切れ途切れのそれらを紡ぎ合わせれば、
「……『マドレッター港街』? そこにある”書架の塔”を調査せよと、そう仰るのですね?」
「ああ、そうだ……。あれは、もうじき……」
「もうじき? もうじき、どうなるのです」
ラムスの問い掛けに、皇帝は答えなかった。彼の細い身体がかくりと折れる。ラムスが見れば、皇帝は瞼を閉じてゆっくりと船を漕いでいた。眠ったらしい。
「……その命、しかと果たしてご覧に入れます」
それでもラムスは腕の中の皇帝へと確かに頷き、彼から与えられた「勅令」を果たさんと決意を固めた。全ては、かつて受けた余りある程の恩義の為に。帝国軍が”六帝剣”……皇帝の忠実なる剣としての役目を果たすべく。
その後、ラムスは眠りに落ちた皇帝を呼びつけた侍従達に任せると、出立の用意を速やかに整えた。そうして同じく勅令を受けていたバッハと共に、『マドレッター港街』へ物資輸送を行う”陸上船”に乗り込んだのである……。
-§-
「……私はな、バッハ。例えこの命令がどの様な理由に基づく物であれ、必ず果たすとそう誓ったのだ」
両将軍は連れ立ち、”陸上船”の上部甲板へと足を運んでいた。既に夕陽が沈み掛け、西の空を赤々と染めているのをラムスは見つつ、眼下に広がる『マドレッター港街』の全貌を睥睨する。
「故に、こんな所で足止めを喰らっている訳には行かんのだ。一刻も早く、皇帝の命を果たし……あのお方の御心を、安らかにして差し上げなければならないのだ」
ラムスは鋭い視線をそのまま、橙色に染まった港街から傍らに佇むバッハへと移した。
「……だからこそ、お前の態度が癇に障ったのだ。許せとは言わんぞ、お前の行動は”六帝剣”どころか軍人として恥じ入るべき物だ。ましてや皇帝の命を受けながら、緊張感の欠片もなく、馬鹿騒ぎなど起こして……」
ラムスの口調はどこまでも苦い。さもあらん、ただでさえ人一倍軍規に忠実なラムスにとって、奔放かつ豪胆なバッハの行いは到底受け入れられるものではなかった。なにより今回の任務は皇帝の意思に因るもの。それを蔑ろにされていると感じた以上、例え知己朋友であろうとも許し難い怒りを覚えるのは無理らしからぬ事であった。
しかし、バッハの方は全く堪えた様子もなく、鼻息を漏らすと憮然として言う。
「フン。ンな程度の事で恥なんぞ感じ取ったら、軍人はやっとられんわ」
彼は口元のカイゼル髭を弄りながら肩を竦めた。そうして、自分より年下でありながら、大戦以前からの長い付き合いである同僚へと呆れた様な笑みを向ける。
「相変わらず、余裕のない奴だなお前は。ラムスよ。二十の頃からその神経質ぶりが全く変わらんのは、却って尊敬に値する。見習いたくはないがな」
対して、ラムスは明らかに気分を害した表情を浮かべる。先程の様に激しこそしないが、はっきりと「失望」を露わにして、吐き捨てる様に言う。
「私も同意見だ。お前の適当さ加減は信じられん……。お前のような奴が、何故”六帝剣”を務めているのか不思議でしょうがない……。兵の規範となるべき将軍が……」
「何時にもまして刺々しいな。悩み過ぎると早死にするぞ」
「これが悩まずに居られるか……! 私が、どの様な気持ちで――」
「それを兵達に押し付けるな、と言っているのだ」
ぴしゃりと、バッハはラムスの独白を封じた。何時になく真剣な語調に、思わず呆気に取られるラムスの前、バッハは真っ直ぐに友を見据えながら言葉を続ける。
「お前の気持ちは分かる。私にとっても皇帝は大恩人よ、その彼が与えた命に全霊を尽くす事に否はない。だがな、だが……ラムスよ。お前は皇帝の臣下であると同時に、兵達を率いる立場ではないか」
その言葉に、ラムスはハッとした。彼は決して愚鈍な性質ではない。バッハが何を言わんとしているのか、即座に察したのだ。
「……私は、兵達を、……蔑ろにしていただろうか?」
「少なくとも、普段のお前はもう少しばかり寛容で、合理的だったと思うがね。例えばこんな上陸待ちの停泊中にまで、動ける兵をほぼ全員駆り出して厳戒態勢なんぞ取らせたりはしないだろう、一時間も二時間も。あれじゃあ、無駄に疲れさせるだけだ」
バッハは甲板の手すりに背を凭れさせながら、天を仰ぎ、あくまでも緩やかな口調で言う。
「休息させるにしたって、部屋から一歩も出るなってのは酷だろう。兵士とて人間だ、気を休めるのに仲間と話をしたり、軽食くらいは腹に入れたくもなるだろうに。……まあ、私は少しばかり、派手にやり過ぎたかも知れんがな」
そう言って笑う夕陽に照らされたバッハの横顔に、ラムスは言葉もなかった。この男は、何時もそうなのだ。やること為すこと破綻している様で、常に大局的に物事を把握している。それがバッハ・アーベラインという将軍の度量であり、
「……私が、及びも付かない所、か」
「真面目過ぎるのだよ、お前はな。昔からそうだ」
バッハはそこで、遠くを見る様な目になった。彼にしては珍しい事に、少し眉根の寄った厳めしい顔つきを作り、囁く様な声で語り出す。
「……”六帝剣”も、数が減った。一人はあの大戦で散り、もう一人は戦後に行方不明。一人は”帝都”を守護する為に、奴自身が望んだとは言え殆ど軟禁状態。そしてもう一人は……」
「……皇帝の密命を帯びて、何処とも知れぬ場所へ、か」
「私達はまだ、自由な方だと思わんか」
バッハの言葉に、ラムスは頷いた。栄光の”六帝剣”も現在では実質的に戦力としては半減状態である。そんな中で自由に動ける将軍二人を、わざわざ合わせて動かす程の「用事」とは、何か。
「……『マドレッター港街』の方からは、まだ上陸許可が下りないのか?」
「ああ、随分と長引いている。以前ならばこんな事はなかったのだがな。元よりこの街は、帝国に近しい。戦時中から、否、それ以前からの重要地として篤く庇護を受けて来た土地の筈だ。それが……」
「余所者は近寄るな、とばかりの態度に早変わりと」
ラムスは内心に生じた疑念を、振り払う。この任務に対する疑念とは即ち、皇帝に対する疑念だ。それは立場的に、そしてラムス・シュレーダーという個人的に、決して許される物ではない。
だが、その葛藤が確かな苦悩となって押し寄せるのも確かであり……。思考の錯綜に陥りかけたラムスの耳に、ふと、ある音が飛び込んできた。砂を掻き分ける盛大な大音量である。思わずそちらを見やれば、遠目に黒々とした流線型の巨体が姿を表していた。
「あれは……”砂中潜航艇”か? 確か、あれを使っているのは」
「”爪土竜団”とか言う”墓穴掘り”共だな。おいおい、千客万来とはこのことかね」
興味深げに笑うバッハを、ラムスは半目で睨む。こんなタイミングで余計な連中が現れたのだ、笑っていられる場合ではない。ましてや、相手は「忌むべき”遺失技巧”の簒奪者」である。独自の武装を備えた彼らは、ラムスにとっては目障りどころではなく、任務達成の障害とすらなり得る不確定要素に他ならない。
剣呑な雰囲気を醸し出し始めたラムスに、バッハは嘆息。
「……間違っても、こちらから手を出すなよ? 向こうはまだ何もしていないのだし、こんな所でお前の《遡上濁流》をぶっ放そうもんなら、この街にも甚大な被害が出る。それに、下手にドンパチ起こせば尚更任務の達成は難しくなるんじゃあないかね」
「……分かっているッ!」
ラムスはどうにか堪えたらしく、恐らく彼自身も無意識の内に唱えていた”定型術式”の読み上げを停止した。
「そうそう、何もないに越したことはないのだよ。平穏無事が一番、この世界もな」
「……まだ満足に平定も進んでいない、渾沌とした世情ではあるがな」
「だからこそ、我々の様な死にぞこないの老い耄れ共が身を粉にして、帝国の平和を次代に継がせねばならんのだろう?」
力強い笑みと共に送られたバッハの言葉に、ラムスもまた初めて笑みを浮かべた。そればかりは、彼が”六帝剣”として、そして騎士として戦い始めた当初から抱いていた決意であったから。
と、そこでバッハが何かを思い出した様に手を打った。何事かとラムスが見やれば、彼は「次代と言えば」と前置きをして。
「イェルクの奴も、お前ばかりに教えを請うていたら視野狭窄の堅物になりそうで心配だなぁ……」
そこで上がった名前に、思わずラムスは頬を引き攣らせた。ひくひくと、目尻までそれを引き上げながら、嫌悪感と抵抗を剥き出しにして不良騎士へとNOを突き付ける。
「……イェルクは真面目で、才能にも溢れている。お前なんぞにわざわざ心配してもらう様な筋合いはない。良いか、絶対に近付くなよ? 話し掛けるな、関わるな。悪い虫が付きでもしたら、とんでもない事だ」
すると不良騎士は、益々厭らしい笑みを強めて、
「いやぁ、少しばかりは人生の楽しみだとか、余裕を持ち合わせていた方が大成するモンだよ。若い内から女のナカセ方を知っとくのは特に良い、人生観が豊かになる。どれ、今回の任務が終わって”帝都”に戻ったら早速……」
「人の弟子を邪道に陥れるのは止せ……ッ!! それをやったら本気で殺すぞお前ッ!!」
……等と、二人が喧々諤々の騒ぎを再び始めてから、凡そ五分後。
”陸上船”の乗組員達が待ちかねた「上陸許可」が『マドレッター港街』から降りた事によって、この至極下らない類の争いは、一旦収束する事になったのであった。
-§-
20180821:文章の誤りを修正しました。
20180822:一部の台詞、単語の重複を修正。また一部文章を追加しました。
20180827:一部台詞を変更。
20181013:文章、一部台詞を修正。