騎士とメイドと砂の上:1
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「――主様ぁ……。もう、私、限界です……」
自身の背へ投げ掛けられたその声を、しかし白銀の騎士は一顧だにせず聞き流し歩み続けた。
全身を覆い隠す様に、土色の防塵外套を纏った男性である。縁が解れたフードの下から覗く顔は、三十路には届かないまでも、若者とは言い難い程度には老け込んでいる。また実際、その所作と表情からは「青臭さ」という言葉はとっくに捨て去られていた。
彼はただ黙然と、視線を目の前に広がる大地へ真っ直ぐに突き刺し、脇目も振らずに歩いて行く。鉄錆色の二つの瞳は揺るぎない。上空より強く照り付ける日差しにも、踏み込む度に沈み込んで足を挫かんとする砂の大地にも、顔色一つ変えることはなく、ただ只管に前に進んでいく。
白銀の騎士には、意思があった。即ち、この道程を踏破し、目指す場所へと辿り着かんとする、確固たる意志が。だからこそ、彼の口から愚痴や苦痛の喘ぎ、あるいは無駄な独り言が漏れ出す事はないのだが、
「……主様ぁー、返事してくださいよぅ……」
生憎、彼の同行者はそうではなかった。
声は若い女性の物だ。発生源へ視点を移せば、白銀の騎士の後方、身体三つ分程を開けた位置をふらつきながら歩く防塵外套の姿がある。目深に被ったフードの影からは、形の良い白い顎と首筋が覗いている。喉に伝う汗の表面を震わせながら、その人物は再び声を発した。
「喉もカラカラ……体中、熱くて暑くて……このままだと干物になって死んじゃいますよぅ……」
前言よりも一層弱々しく、ついでに媚びの色を含んだ台詞だった。親を求めて鳴く雛鳥の如く、聞く者の哀れを誘う声色である。しかし、白銀の騎士はこれを一切無視した上で無言を貫き続けた。
そんな反応を返されながらも、発言者にはまだ諦めるつもりはないらしい。今度は多少長めに尺を取り、立て続けに言葉を並べ立て始める。
「足が棒みたいですよぅ。痺れて感覚がなくなってます、きっともう端の方からミイラになってるんですよぅ。放っといたら全身干からびちゃいますよぅ……。私嫌ですよぅ、こんな所でそんな死に方……」
終いには、わざとらしく目元を抑えて肩を震わせるという仕草が伴っていた。尤も、それを向けた相手が見ていないので、あまり意味がある行為とは言えなかったが……。
「…………むぅ」
泣き真似開始から数秒後にちらりと顔を上げ、自身の要求が未だに受け入れられる様子がないのを知った発言者は、唇を噛みながら呻いた。見れば、一連の動作の為にフードが少し捲れた事で顔が露わになっている。
年若い女性であった。歳の頃は二十代前半と思しい。
アップサイドに纏めた艶やかな銀色の髪と、見る者にいっそ透明感すら抱かせる程のシミ一つない白磁の肌。精巧なガラス細工の如くに整った顔立ちには、サファイアにも似て深い藍色を湛える両の瞳がある。端的に言い表すのならば、絶世の美女と言って差し支えない容姿だ。
彼女は、その二つの宝石を物憂げに伏せた長い睫の下に隠し、苦し気に寄せた眉の上と、薄らと上気し紅く色付いた頬に大粒の汗を伝わせながら、如何にも儚げな口調で先を行く白銀の騎士へ向けて尚も言う。
「ねぇ……お願いですから、休みましょうよぉ……」
白銀の騎士は無言。
「こんな所で日陰が欲しいなんて贅沢言いませんから……」
彼女が発する声以外には、砂を踏む断続的な音だけが響いていく。
「それが無理ならせめて、一口でも構わないのでお水を恵んで下さいよぅ……」
白銀の騎士は、振り返りすらしない。
「どうか、お情けを……主様ぁ……」
とうとう、白銀の騎士を追う彼女は目に涙を浮かべて懇願し始めた。
平時ならば陶器を爪先で弾いた様に高く澄んでいる筈の彼女の声は、心身両面の疲労と、ここ数十分に渡って一向に返事を返してくれない同行者への不満によって低く濁っている。だがそれが却って妙に妖艶な、ともすれば情欲を掻き立てる様な色味を帯びているのだから、大した物である。
そして、ここに至って――色香に惑わされたという訳ではないのだろうが――漸く彼女の言葉を聞き届けた白銀の騎士は、一度だけ溜息を吐くと……自分の腰へ手を伸ばした。
分厚い籠手に包まれた彼の手が向かう先、腰帯に麻糸で括り付けた円筒状の物体がある。胴部に『ゲルプ帝国』製である事を示す刻印が刻まれた、金属製の水筒だ。
白銀の騎士は器用に片手で紐を解くと、水筒を肩越しに背後へと投げ付けた。放物線を描いて飛ぶその物体に気が付いた女性は、途端に喜色満面破顔すると、
「やたっ!!」
喜びの声を上げ、水筒へと飛び付き、空中でキャッチした。そうして獲物を手に取るや否や、慌ただしく蓋を開いて口元へ持って行く。
先程までの様子とは打って変わって活き活きとした、というより玩具を与えられた子供の様な、俊敏で躊躇いのない動きである。
「流石主様やっぱり普段の態度はともかく私のこと大事に想ってくれてるんですねああ私は幸せ者です愛してます一生ついて行きますそれでは遠慮なく頂きますねっ!!」
彼女は蓋が開くまでの僅かな時間の中に、節操のない白銀の騎士への賞賛を一通り詰め込んで発していた。当然、その間にも彼女の両手は動き続けている。
そして言い終えると同時、彼女は唇に水筒の飲み口を当てると容器を躊躇なくさかさまにし、一気に中身を飲み干しにかかる。本来の持ち主に対しての配慮や遠慮という言葉とは無縁の、思い切った動作である。
ともかく彼女は喉を滑り落ちる冷たい液体への期待に胸を膨らませ、満面の笑みを浮かべたまま、一秒、二秒……、
「…………あれ?」
気の抜けた声を漏らす彼女の口内は、今だに乾いていた。
水が、出て来ない。この状況に於いては同質量の黄金よりも有難みを持つ、水が、一滴たりとも口の中に流れ込んでこないのだ。
「え、あれ、……え?」
一瞬呆然とした彼女は「何かの悪い冗談だろう」という表情で水筒から口を離し、恐る恐るその中身を覗き込む。果たして、彼女の想像ではたっぷりと満たされていた筈の水はそこには存在せず、代わりに乾き切った鉄色の内部を晒しているだけであった。
「…………、」
事実を確かめ、彼女は絶句。その口元が、徐々に笑みに似た形へと引き攣っていく。
それでも彼女は往生際悪く水筒を改めてさかさまにしてみるが、当然一滴の雫すらも出てくる事はない。己の望みを裏切られた哀れな女性は、残酷な現実を注視し、数秒程小刻みに震えると、
「騙しましたね主様ァ――ッ!?」
怒りと絶望を前面に押し出した形相で、白銀の騎士へと食って掛かった。
眼球と歯茎を剥き出しにする勢いの、凄まじい表情である。彼女本来の美貌も台無しだが、それを気にしている様な余裕は当人にはなかった。
「お水入ってないじゃないですか!! お水、入って、ないじゃないですかぁ!!」
二度も繰り返す。
「だろうな」
だが、そんな必死の訴えに対する白銀の騎士の返答は、実にあっさりとしたものだった。銀髪の女性は彼の態度に更に興奮の度合いを引き上げ、激昂寸前となる。
「知ってて!? 知っていて、私に空の水筒を!? なんですかそれ私馬鹿みたいじゃないですかぬか喜びですよ返してください私の感謝と賞賛ッ!!」
彼女は地団太を踏みながら捲し立てた。動作の所為で汗で額に張り付いた前髪を鬱陶し気に払い、何度も「酷い酷い」と、水筒を受け取った時に消えていた筈の涙を再び目尻に滲ませてまで繰り返し叫ぶ。
一方、罵声の弾幕を浴びせかけられた側の白銀の騎士は立ち止まると、五月蠅そうに首を振った上で返答を背後へ送る。
「昨日から、それは空のままだ」
「だから、なんでそれを早く言ってくれないんですかぁ!! ――っと、ぅおああ叫ぶと立ち眩みが……」
女性は叫びの直後、頭を抱えて膝から崩れ落ちた。動作で生じた風により、彼女の纏っていた防塵外套が捲れ上がる。その下に覗いた黒のロングスカートが白の前掛けと共にふわりと舞い、しかしすぐに重力に引かれ、砂の大地に突いた白ストッキングに包まれた足を覆い隠した。
彼女は次いで上半身も倒れ込ませ、突いた手の平に砂を一旦握り込むと、直後にそれをヤケクソ気味に撒き散らしながら呻いた。
「……ううう、期待させるだけ期待させて、でも最後には奪い取るなんて……。鬼、悪魔、人でなし……! 陰険の外道の甲斐性なしの性悪の根暗の貧乏性の、えっと、……そう、子供舌!」
最後の方は随分と所帯染みた内容になっていたが、この女性としては精一杯の上、本気のこき下ろしのつもりであった。そしてそれらは少なくとも、白銀の騎士の顔に明確な渋面を作らせる程度には効果が有ったらしい。
……尤も、その程度で彼がこの場に留まり続けるかと問われれば、否である。流石にそこまでの強制力はないし、そもそもこの白銀の騎士が身の内に秘める意志は、並大抵の事では揺らがない程に強固だ。
「……良いから、行くぞ。こんな所で立ち止まっている暇はない」
故に白銀の騎士はそう端的に告げると、再び歩き出そうとする。
しかし、完全に臍を曲げてしまった同行者の女性は、あろうことかその場にどっかりと座り込んで腕を組んでしまう。自分の不満が解消されない限りはこれ以上一歩も動かない、という構えだ。
砂音と気配によって同行者の行動内容を察した白銀の騎士は、一度なんとも面倒臭げに首を振り、ようやく振り返った。口を横に引き伸ばした様にして、
「……おい」
と、うんざりとした表情を隠しもせずに言う。一方、座り込んだ女性は彼と視線を合わせ、キッと眦を吊り上げた。
「いーえ!! もう私、主様にはほとほと愛想が尽き果てました!! ええ、そうですとも、ちょっとでも信じた私が馬鹿だったんですよね、お笑い種ですまったくもって!! フンだ!!」
「何故、俺の所為になる……」
疲れた口調の白銀の騎士に対し、女性は先程までの疲弊した様子が嘘の様な元気振りである。言葉の終わりにそっぽを向き、梃子でも動かぬ姿勢を構えた彼女を、白銀の騎士は眇めた半目で見やった。
「――というか、暑いんですよ!! これっ!!」
そこで突然、銀髪の女性は白銀の騎士の視線を意にも介さず、一声苛立たし気に叫ぶと防塵外套の前を開いて脱ぎ捨てた。
そうして文字通り日の下に曝け出された女性の装いを列記すると、まず目に入るのは首元までをきっちりとボタンで留められた長袖の黒のワンピースだ。ロングスカートはその構成物であり、一体化している。
髪の上、頭頂部には白いフリル状の飾り。腰の後ろでリボンを結んだエプロンは、背中をクロスし、肩口を通って前に回り、胸から下を完全に覆う形になっている。
つまり、この駄々っ子の風体を一言で表すのならば、
「……今更に過ぎるが、メイドにしては随分と反抗的だな、お前は」
と、白銀の騎士が苦々し気に口にしたそれに他ならない。
「……実際、お前のそれはただの衣装遊びに過ぎんがな。それにしたって、もう少し装いに合わせてそれらしい態度を取ったらどうなんだ……?」
対して、反抗的なメイドは揶揄をたっぷり含んだ視線で白銀の騎士を睨め付け、口をとがらせた。そして実に「心外だ」と言わんばかりに形の整った眉を吊り上げると、白銀の騎士へ向けて手招きをする。
なんだ、とばかりに白銀の騎士が近付くと、彼女は彼の防塵外套にも手を掛けた。そして白銀の騎士が止める間もなく、自分がそうした様に一息に捲り上げる。彼女は外套の下から現れた金属の光沢を見据え、恨みがましい口調で、
「……恰好について言うなら、主様こそ、ボロボロじゃあないですか。ハッキリ言って貧乏臭いですよ、威厳ゼロです」
白銀の騎士が外套の下に身に付けていたのは、帝国式の戦闘用装甲であった。
種別としては軽装鎧とされるそれは、致命箇所を守る大部分を金属で構成されたスマートな外見。滑らかな曲線を描く装甲の上には、実戦で刻み込まれたと思しき大小様々の傷や凹みが残っており、装甲の端々には摩耗した痕跡があるので、明らかに使い込まれた物だと一目で判別できる。
「……人の装備を晒しておいて随分な言い草だな」
メイドが行った無作法に白銀の騎士は顔を顰めた。
「大体、今までずっと見て来た物に今更文句をつけるか、普通」
白銀の騎士とメイドの付き合いは、それなりの期間に及ぶ。当然白銀の騎士の装いについてもとっくに見知っている筈のメイドは、しかし全く悪びれもせずに鼻息を漏らした。
「フンだ、事実じゃないですか。大体、ずっと同じ鎧を見続けて来たからこそ言える立場ですよ、私は。タダでさえ、見てるだけでも暑苦しいのに、それが壊れかけともなれば見っともないですよぅ」
壊れかけ。その指摘に限っては、確かに彼女の評価が正しい。
白銀の騎士、とは言ったものの、実際の所は大分くすんだ色だ。かつては全身に施されていたであろう精緻な装飾も大半は潰れ、埋もれてしまっている。装甲を繋ぎ止めるベルト類もそれぞれ端が解れ、下手をすれば千切れてしまいそうな程に劣化していた。確かに、騎士と呼ぶには大分みすぼらしい風体であることは間違いない。
「無精ですよ無精。あーあ、一度くらいちゃんと直したら良いのになー」
「……分かっていて、お前が、それを言うか?」
白銀の騎士の睨み返しに、銀髪のメイドは首を傾げて惚けて見せた。
にっこりと笑った口の端に覗かせた舌の赤色がわざとらしいが、顔立ちが整っているだけに妙に様になっている。女性慣れしていない若者なら、それだけで目を奪われてしまうだろう。尤も、実際に目にしている白銀の騎士としては、単に苛立ちを倍増させるだけであったが。
そこでメイドはなんとなく主の内心を察したのか、慌てて取り繕う様に言葉を紡ぎ出す。
「あ、でもでも、そのマフラーは良いと思うんですよ」
メイドが指差したのは、外套が捲れた事で露出した装身具である。白銀の騎士が身に付ける物の中でただ一つ、色合いを異にする首元に巻いた長い布切れだ。端がボロボロに千切れたマフラー状の深紅が、妙に鮮烈な印象を見る者に残す。
「色合いとしては鎧と対照的で映えますし。綺麗な新品じゃないのも、まぁ、鎧の具合から浮いて見えないので、マッチしてるって言えるんじゃないですかね、一応」
彼女は言いながら、目の前に垂れてきたマフラーの端を指で摘まむと、どこか遠くを見る様な目つきとなる。口元には微かな笑み。それは「懐かしい」という感情を含んだものだった。
「それに、まぁ……思い出の品ですしね。私と主様の絆を示し、何よりも強くお互いを繋ぎ止める証……」
彼女の口調はゆったりとして、頭の中で描いた想い出を反芻している様であった。その表情は、心からその情景を「大切な物」として抱き締めている事が傍目にも分かるほど、和らいでいる。
対して白銀の騎士は何も言わず、表情も変えない。鎧の首から上、晒された素顔は「憮然」の二文字に固定されたままである。
メイドはやがて顔を上げ、彼のそんな表情を眺めた。そこで「仕方ない」と言わんばかりの顔つきになると、嘆息。
「私としては、主様にももう少し嬉しそうな顔して欲しいです」
「する必要がない」
「イケず。そんなんだから、モテないんですよ」
メイドは表情をコロコロと変え、今度は不満げな面持ちを作ると、主と呼ぶ男の顔の造作についての品評を開始した。
「そりゃ、顔付きはなんというか冴えませんし、……いえ、そりゃあ不細工じゃあないですけど? 見る人が見ればまあ、恰好良いって言うんじゃないでしょうか。今までそんな人見た事ありませんけど」
「……居ても意味がないだろう、そんなモノ。余計な関係なんぞ抱え込めば、重苦しくて仕方がない」
「うわぁやだやだ、硬派なんて流行りませんよ今時。女の子相手に話題一つ盛り上げられない様な男なんて、一生童貞守ったまま寂しく余生を送るのが関の山ですよーぅ」
白銀の騎士は苦々しい顔つきになる。何故、こんな所で自分の将来と女性遍歴に触れられねばならないのか。
そんな彼の様子を見やり、銀髪のメイドは人差し指を立てると、
「ともかく、私の主様ならもうちょっと身なりに気を遣うべきです! それが無理なら私に苦言を呈するのもお門違いってことで、ひとつ。今更あーだこーだと言った所でしょうがないでしょう? ね? ね?」
気が付けば、いつの間にか逆にメイドの方が説教をしている構図になっていた。
メイド自身はこの現状、立場が入れ替わっている事実に当然ながら気が付いている。その上で、敢えて意図的に無視しているのだ。理由は無論、白銀の騎士の説教と行軍の意思を逸らす為だ。
無意味な会話で時間を稼げば多少なりとも疲労は回復するし、そこで精神的優位を保っておけば彼も五月蠅くは言わないだろうという魂胆である。白銀の騎士もメイドの狙いに気が付いてはいるが、そこを突けばさらに拗れる事も分かっているので、黙って彼女に付き合わざるを得ない。
白銀の騎士は突発的な頭痛を堪える様に、右腕で額を抑えた。
「あれあれ、どうしたんですか主様? 熱中症ですか、いけませんよ気を付けなきゃ」
ぶん殴ってやろうか、と白銀の騎士は一瞬考えた。
……一応念を押しておけば、白銀の騎士は肉体的には健康そのものであり、頭痛の原因は疲労や暑さに因るものではない。
そもそも、彼は実際には相当な戦歴を誇る熟練者であり、人並み以上のタフネスと精神力を兼ね備えた古強者である。軽装とは言えども、全身で総合すればかなりの重量になる筈の戦闘用装甲を着込んでいながらその重量に負けて体を傾がせる様子もない。
足を止める前の足取りも確かなもので、彼の所作には座り込んで不平不満を垂れ流すメイドとは対照的に疲弊が殆ど見受けられず、何より通気性という言葉からは無縁の代物を着込んでいながら、汗も殆どかいていないのである。
なればこそ、そんな相手を主と呼ぶ一方で、やけに居丈高な態度のメイドの立場が不思議になってくるのだが……、
「……はぁ、喋ったら更に喉が渇きました。主様、本当にお水持ってないんですか? どこかに隠してたりしません?」
それはさておき、当面の問題はこの場を動こうとしないメイドへの対処に充てられるだろう。そもそも、水不足は深刻な危機である。
どうしたものか――この役に立たない従者の扱いも含めて――と頭を悩ませる白銀の騎士を差し置いて、メイドは叶わぬ願望をつらつらと口にしていく。
「氷菓が食べたいですよぅ。前に立ち寄った街で売ってた、発酵乳と柑橘の汁を混ぜて凍らせたのが凄く美味しかったですねぇ。ああ思い出したら食べたくなってきた。主様、魔法かなにかで出してくれません?」
「皮肉か、それは」
言いつつも、一応彼は腰後ろに付けた小型のバックパックを覗き込んだ。手を突っ込み、内容物を探ってみれば、
「……生憎、食糧は精々干した肉と、岩塩塊と、後は帝国軍の官給品から横流しされた栄養錠剤くらいだな」
それを聞いたメイドは「げっ」と呻いてから肩を落とした。
「とりあえず、飢え死にはしそうにないですねぇ、飢え死には。少なくとも数日の間でしょうけど……」
生存に必要な物は食糧よりもまず水であり、その事を白銀の騎士は勿論、メイドも知っている。干し肉を噛めば多少唾液は出るだろうし、岩塩は汗と共に失われる物を補うには不可欠だ。各種栄養素を補う錠剤もサバイバル環境下に於いては必需品と言えるだろう。
しかし、水分はどうにもならない。ほんの一口、いや、一滴でも良いのだ。今更生温い程度では文句は言わない。乾いた喉を潤し、癒していく、純粋な液体……それをこの旅人達は心から欲していた。
「ああ、せめて主様がもう少し思い遣りに溢れていたならば……こんな所で不本意な形で、二人の旅を終える事もなかったでしょうに……」
よよよ、とわざとらしく泣き崩れたメイドは悲壮感たっぷりに言葉を続ける。
「哀れ、私達は二つの干物となって誰にも知られることなく風化していくのでしょうね……。忌々しい太陽にこんがり焼かれて、香ばしい匂いでも発すれば誰かが見つけてくれるかもしれませんが……」
「……食われるのが望みなのか」
「そんな訳ないじゃあないですか!! 嫌ですよ誰とも知らない相手の夕飯のオカズにされるなんて!!」
知っている相手なら良いのか、と白銀の騎士は一瞬考えたが口には出さなかった。それをしてしまえば目の前のメイドと同レベルに落ち込む気がしたし、何よりそんな戯言が浮かぶ程に思考が疲弊しかけているという事実が彼の気を重くさせたからだ。
「大体ですね、水は貴重品ですよ? それを切らしてしまうなんて、心構えがなっていない証拠です。全く、私の主様とあろう者がそんな事でどうするんですか」
遂には水筒を手に取った際の所業を棚に上げ、メイドは朗々と文句を白銀の騎士へぶつけ始めたのだが……、そこで白銀の騎士は「ぴくり」と、こめかみに血管を浮かべた。
「おい」
地の底から響くが如き、重々しい声であった。流石にびくりとしたメイドが白銀の騎士の顔を窺えば、そこにあるのは明確な怒りの表情。メイドは「ひぃっ」と悲鳴を上げかけ、なんとか堪えた。
「な、な、なんですか? 自己管理も出来ていない方が、今更なにを……」
それでも一応は虚勢を張って返す。だが、それが悪手であった。
何故ならば、あれ程の好き勝手なメイドの暴言を一応は聞き流して来た白銀の騎士が、ここに来て態度を変えた理由は単純。先程のメイドの発言内容の中で、決して看過できない一言を聞き咎めたのだ。
故に彼は断罪者としての面持ちを浮かべ、はっきりと告げた。自身の従者が昨晩に犯した過ち、現在彼らが直面している苦境の、そもそもの原因を。
「昨日、水を飲み干したのは、お前だったと思うんだがな」
「…………、あっ」
投げ付けられた事実に、小さく声を漏らし、メイドは昨晩の記憶を呼び覚ました。自分が何をしたのか。その際に繰り広げられたやり取りも含めて、実に鮮明に思い出したのである。
一瞬にして過ぎ去っていった回想の直後、彼女は熱さに因るものとは全く別種の汗を大量に噴き出した。そうして表情を、愕然、蒼白、呆然、と順番に変化させていき、
「……待ってください」
最終的に、媚び、に固定した上で開いた右手を差し出した。
しかしその時既に、白銀の騎士の心の内から「容赦」という二文字は跡形もなく姿を消していたのである。彼は底冷えのする冷たい視線を、薄笑いを浮かべるメイドへ投げかけた。
「お前、俺が制止するのも構わずに一気に飲み干したよな。それで後がないぞ、と言えば「大丈夫ですよ、ケチケチして体力を消耗したら元も子もないんですから!」とかのたまったな。確かにそれは一理ある。ただし、補給のアテがある状況なら、だ」
「あ、ははは……そのぉ……」
「……で、今この状況で、どこにそのアテがあると? お前の楽観を裏付ける様な物があるのなら、今すぐにでも教えて欲しいんだがな。ん?」
冷や汗に塗れるメイドの前、白銀の騎士はわざとらしく両腕を広げて見せた。その手は何かにぶつかる事はなく、空を切った。それも当然の話である。彼ら二人が立っている場所は、何処までも広がる広大な砂漠であったのだ。
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20180713:章毎の分割と、文章の全体的な修正を行おうと思います
20180714:旧版の一話を分割しました。
20180806:描写の一部を修正しました。
20181013:ルビ振り抜けと一部文章修正。