第一翼
人はだれしも心に澱を蓄える
その澱がいつか檻を作って
貴方の自由を奪い去る
翼を失った鳥は寄り添って生きていく
いつか、飛べる日を夢みて
息が切れる、足が強く地面を叩く
落ちた汗が地面に点々と滴っている
本当ならここらでゆっくりと腰を下ろして休みたいが、それほどの時間は残っていない
それどころか間に合うかどうかすらよく分かっていない
左腕の時針は「その時間」まで10分を切っているのだから
「ちくしょう」と口の中で毒づいて足に鞭を打つ
目的地は近い、目の前の絶望的にそびえ立つ断崖絶壁のような坂を抜けると、ベビーブーム時代を思わせる古ぼけた団地が見えてきた
団地の中庭を駆け抜け、体にしみ込んだ動作でB棟に飛び込み、汚れと老朽化の目立った階段をここ一番の速度で駆け上がった
全速力のまま屋上手前の踊り場まで走り抜けると、開けっ放しの錆び付いた鉄扉の向こうからほこり臭い冷たい風が吹き抜けてきた
いやな予感とともに冷たい汗が吹き出し、じっとりと体中を蝕んでいく
「手遅れ」そんな言葉が脳裏をめぐる
その予感を振り払うかのように二段飛ばしで屋上まで駆け抜けた
屋上の敷居につまずきそうになりながらも外へ抜け出ると
経年劣化と腐食が進み錆び付いてボロボロのフェンスの向こう側に女性の姿が見えた
今にも飛び降りそうな雰囲気を醸し出すその女性にできる限り大きな声で絶叫する
「待ってください!」
その絶叫に驚いたのか、少し女性の肩が跳ねた
死なないで!生きろ!危ないですよ!
そんな言葉が堂々巡りし、反芻する
かけるべき言葉は見当たらない、かけてほしい言葉は見当もつかない
ないない尽くめのまま立ち尽くし、今までの無茶が祟ったかのように肩で息をする
女性は長い髪を払いながら振り向き、とても整った顔で微笑みながら口を開いた
「うーん却下」
もっと気持ちを込めなよと、緊張感が無いんだよねーと
無茶苦茶言いやがるこの女
こっちはリアリティ至上主義だとか訳の分からないあれやこれに付き合わされ、各所に許可を取り、近隣住民の理解を得、数十キロ走った後に階段を駆け上がって、セリフを言ったにも関わらず
その感想が却下ときた、疲れたわ喉が渇いたわ気持ち悪いわで怒る気にすらならない
「でも良かったー」
そう女は言う
「久木山君があと135秒遅かったら私は死んでいたんだから久木山君は命の恩人だよ」
ストップウォッチに表示された117分45秒の数字が点滅しながら死の近さを物語っていた
リアリティ至上主義
それこそがこの女の掲げている唯一無二の決意であり、上原綾香の信条である
すなわち、先ほどの命の恩人というのは全くの冗談でもなんでもなく、あと135秒遅ければ上原は本当に身を投げていたということだ
毎度毎度付き合わされる側が持たなくなってくる
上原はスカートのまま肩程まであるフェンスを乗り越えると、大きくため息をついた
「白い」
「変態、落っこちちゃえ」
耳を赤くし目を細めながらそう言うと、久木山の隣に腰を下ろした
「ねえ、久木山君、いつになったら私を殺してくれるの?」
上原はずっと遠くの山を眺めながら言う
「そうだな、ずっと先かもしれないし、案外近いかもしれないぞ」
そういうと口を尖らせて
「そんなんだからモテないんだよこのテキトーオトコめ」
そう少し悲しそうに言う
「ねえ、私もう待てないよ」
風が強く吹き、言葉をさらっていく
「聞こえない、風が強いんだ」
「辛い」
そう言って小さくなった上原にかける言葉は見当たらない、どんな言葉も釣り合う重さをもっていない
上原の隣に腰をおろして、そっと肩を寄せ呟く
「ここにいれば大丈夫だから、傷つける人なんていないから」
上原はゆっくりと顔を上げ「それ」と言った
間の抜けた「は?」という音が大きめに響くと
上原がスッと勢いよく立ち上がった
「そう!それくらいの感じでもう一回!さっきのやつやってみない?」
熱を持った上原に何よりも重要なことを問いかける
「それってどこからやるんだ」
上原は笑顔で当然のように「頭から」
と絶望的なことを言った
あまりにもやられっぱなしだったので少し仕返しがしたくなった久木山は上原に深刻そうな声で言った
「・・・・上原」
ん?と上原がこちらを向き怪訝そうな顔をする
「スカートめくれ上がってる」
上原が放たれた弦のような速度でスカートに手を当て元に戻そうとする
もちろんめくれ上がっているなんてことはない
耳を赤くした上原がゆっくりとこちらを向き、羞恥にうるんだ瞳でにらみつける
「冗談だ、さあ帰ろう」
そういって立ち上がると、尻に強めの蹴りが刺さった
痛みと驚愕で反射的にしゃがみ込み、上原のほうをにらみつけると、
上から目線の上原が「さあ、帰ろう」と、したり顔で見下ろしていた。
* * * *
遮断機が下りる
カンカンと警報が「電車が来ますよ、危ないですよ」と声を大にしている
とても魅力的なリズムに体が自然と前に向く
「このまま飛び込んでしまえればどれだけ楽だろうか」そう何度思ったか、数えるのはもう止めてしまった
ただ、飛び込みたくなくてもどうしても体が吸い込まれていくのだ
カンカン
体が前に出る
カンカン
体が躍り出る
フッと踏切の向こうへ吸い込まれていく冷たい体を、暖かい手が制した
「ダメだ、この先はまだダメだ」
久木山君は私より少し高い目線から私を見ていた、その表情は逆光で見えなかったが
それはとても幸福なことに思えた
「うん大丈夫、それに行きたかった訳じゃないんだ」
久木山はふと踏切のほうを見て何かを言ったが
その言葉は電車とレールの摩擦の内側に掻き消えていった
それこそまるで、私の代わりに飛び込むように
「そういえばご飯を炊き過ぎたんだが、寄っていくか?」
きっと何かを言い終えた久木山が優しい声音で言う
「折角ロマンチックだったのにぶち壊しだよ」
私は、そういって小さく微笑んだ
久木山は振り返り際に自殺にロマンも何もねぇよと言って、遮断機の上がった踏切を歩き出す
私はその歩みに答えるように少し遅めに歩き出し、「そういえば今日はジャガイモが安いんだよ」
と背中に向かって言うと、私よりずっと大きな背中が「今日はポテサラがいいな」と呟く
私は遅れないように歩調を早め、隣に出てから「そんなに好きなの?」と尋ねると
「前スーパーで買ったんだが言うほどおいしくなかったんだよ」と少し苦い顔をしていた
私は少し機嫌がよくなって半歩だけ距離を詰め、そのままスーパーまでの坂道を並んで歩いた。
* * * *
エプロンのリボンがフリフリ揺れている
ただ、それを見ているだけで少し心が軽くなっていくような、そんな感覚に襲われる
楽しそうな鼻歌が聞こえる
ただ、そこにいるだけで優しく包まれているような、そんな感覚に身が落ちる
きっとこのままテーブルに突っ伏していれば、上原がコーヒーを持って来てくれるだろう
きっとこのまま目を閉じれば、夕食を作り終えた上原がきっと優しく起こしてくれるだろう
それはそれはとても楽しみだが、それよりも今はやるべき事がある
久木山は微睡み沈んでゆく体を叩き起こして、椅子から立ち上がると、上原が音に驚いた様子でこちらを見ていた
上原に「手伝うよ」と微笑みかけると、上原は少しきょとんとしたまま硬直し、数秒を経てから目を輝かせて久木山に両手で楽しそうに手招きをした
もしも尻尾が生えていたならそれはそれはブンブンと左右に行ったり来たりして、なんとまあ隠しきれていないことだろう
キッチンに入ると上原の足が着地したばかりの久木山の足をむんずと踏みつけた
上原は耳と尻尾をシャーと逆立てながら「エプロン!」と指をさすと、久木山は「えー」と言いたそうな顔でエプロンを取りに戻ろうとする
しかしやられっぱなしでは気分が悪い、久木山は既に料理に戻っていた上原の腰に手をまわし、エプロンの紐をほどくと
「え、いきなり!?」と言わんばかりに顔を染めている上原のエプロンを剥ぎ取り
我が物顔で身に着けた、呆然と立ち尽くす上原に、「エプロンは?」と聞くと染まったままの顔を俯かせてズドンと足を踏まれた
痛みに悶絶していると「もう!出てって!」と真っ赤な顔でエプロンをもぎ取られてしまった
両の掌を合わせてごめんなさいの意を表明しようと必死になってみたものの、取りつく島もなくプンスカしている
これは当分の間ご機嫌斜めだなと心の中で笑みをこぼし、まだ頬を膨らませている上原を後目にリビングを後にした
* * * *
久木山は日記を書いていた、何のことはなくただその日にあったことをつらつら書き連ねるだけの面白みに欠ける日記だ
事実しか書いていない分、そこには膨大な時間が封をされて眠っている
毎日のこの時間に木目調で統一されたこの部屋で日記を書くことが久木山の日課になっていた
そういえば日記を書き始めたのはあの日からだったなとふと思い、長らく眠っていた一番古い日記を取り出して捲り始めた
パラパラと捲っていくと全く記憶になかった出来事がアリアリと蘇る
そして日記の一番最初のページ、上原に初めて会ったあの日の記録へとたどり着いた
胸を締め付けられるような不愉快な圧迫感に眉をひそめる
それは上原を見たあの日あの場所で抱いたものとなんら遜色なかったことを久木山とその日記は忘れていた
コンコンとドアが叩かれる音で意識が現実へと引っ張られた
そーっと音もなくふすまが空き、上原がニコニコとマグカップを二つ持っていた、
「コーヒー持ってきたよ!」
もうスッゴイニコニコだ、一周回って恐ろしいまである
「・・・・お前怒ってないのかったのか?」
上原の時間が止まる、笑顔も固まる
「怒ってるよ?当たり前じゃん」
当然のようにサラリと言い切った上原に少し困惑する
「怒ってるから今日は一杯しか淹れてあげないし、おかわりは用意してあるけどキッチンにおいてあるので自分で取ってきてください」
プイっと顔を逸らしながらそういうと、何事もなかったかのようにお茶をすすり始めた。
多分忘れていたのだろう、耳が真っ赤に染まっていた
「そういえば、アサリアでケーキを買ってきたんだけど食べる?」
上原の耳がピクッと動いた
アサリアは上原が愛してやまないケーキ屋さんである、店主が胸筋バリバリのナイスガイであることを除けばいい店だ
少なくともケーキの中にプロテインは入っていないし、ダンベル型のマジパンも乗っていないから見た目と味に関しては保証できる
ただ、おしゃれなケーキ屋さんのレジスターの前にゴリゴリの大男が立っているのはミスマッチにもほどがある
「たべ・・・ない、怒ってるから」
どうやら意地でも怒っている事実は曲げないらしい
「折角チョコケーキを買ってきたんだけど、残念だ」
上原の尻尾がブンブンと左右にメトロノームしている
「食べないよ!惑わされないよ!食べるな私!」
「あーそうだな、俺が悪かったよ、仲直りに一緒に食べないか?」
尻尾のブンブンが最高潮に至ったと思うと上原の目がキラリと輝いた
「たべ!・・・許してあげる!」
「それは良かった、じゃあ戻ろうか」
上原はニコニコとして頷いた
「そういえばさっきまで何してたの?」
「ああ、日記を読んでたんだよ」
冷汗が頬を伝った、あの日記は上原には毒すぎる
「…アレだよね?」
こわばる口でありのままを伝える
「そうだ…あの日の日記だ」
上原はそうだよねと誰にも聞こえないほど小さく嘆いた
「そっか、うん大丈夫、私は大丈夫だよ」
上原は泣き入りそうな声で続ける
「ねぇ久木山君、もし、もし私が要らなくなったらその時は私をどうか助けないでね」
上原は今にも消えてしまいそうな声でポツリと呟いた
* * * *
ドロドロと黒い感情が叫び散らしている
思い出すごとにその牙は深く鋭く私の心をえぐり取る
汚れたこの体を黒く醜く染め上げる
醜悪な私をどうか見ないでほしい
「食べないのか?」
彼が俯く私に声をかける
それはとても甘く優しい誘いで
私のすべてを牛耳るような、幸せで塗りつぶすような
理想の体現だった
でもね
私には幸せになることはもうできないんだよ
あなたの愛に溺れて叶うならば死んでしまいたいけれど
私に愛に溺れる資格など、もってあなたの愛になど
そんなことは許されるはずがない
こんな汚れた穢れた人にも満たないようなモノでは
おもむろにあなたが額に手を伸ばす
ああ、そうだこれ以上は心配させてしまう
そんなことは許されない
待っててね、今演じ切るから
それこそ私の唯一無二だから
さて、だいぶお待たせしましたが、投稿再開します
つきましては、大幅に内容が変わり理解しがたくなっていると思われますが
更新頻度を改善するので許してください
何でもするとは言ってない