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D線上のクオリア ー家政婦は戦うー  作者: 相楽山椒
第五章:ジュン 第一話 「東京の僕」
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戦闘家政婦―ジュン 1-4

 この頃、少年たちの間では海への飛び込み合戦が流行っており、誰がどれだけ遠くまで飛べるかと競い合うのが日常だった。


 小学生の男子とは他愛もないことで一生懸命になれるもので、この点においてはジュンも変わらずだった。


 近くの湾状になった海水浴場は遠浅で、飛び込みには適していなかったが、両端は岩場で、その部分だけは湾に回り込む海流の具合で深くなっており、ちょうど飛び込みに適した五メートルほどの背の高い岩が海面から屹立していた。


 傍から見ればそれは大した高さには見えないが実際、岩の上から海面を覗けば軽く目がくらむ、というより本能的に恐怖を感じる高さであった。


 最初はジュンも恐る恐るではあったが、二度三度と飛ぶうちにより遠くに飛ぶことを考えられるほどに慣れた。


 ジュンの友達は主には五人いたが、そのほかはこの“飛び込み台”で知り合ったり競ったりしながら仲良くなった者達で、総勢十数人はいた。その中でも最も遠くに飛べるのはアツヤという少年で、背は低いが運動神経は万能で、なおかつ喧嘩も強くガキ大将的なポジションに位置づいている。


 小学校の途中で東京から越してきたジュンを最初に誘ったのもアツヤだ。小さいからだながら喧嘩は強く、面倒見がよく、大人に向かっても物怖じしない。天真爛漫、幼さゆえの怖いもの知らずとも言えたが、ジュンは彼に対して全面的に心を開いているようにも見えた。


 ある日、この飛び込みで本当に一番遠くに飛べるのは誰かという“王者決定戦”が行われた。対戦はトーナメント形式で進められ、最後に残ったのがアツヤとジュンだった。


 計測役の少年が二人で岩場の下の海上で待機し、先に飛んだ者の着水点をロープを張って記録するという方法で行われた。つまり後に飛ぶ者はロープを越えることが出来れば勝ちという寸法だ。


 先攻はアツヤだった。


 助走したアツヤは持ち前の身軽さとバネの効いたしなやかな体を岩場の縁から一気に伸ばし、真っ青な海へと飛び出した。その姿はまるで猫のように野性的で力強く華麗だった。アツヤの跳躍はこれまで見たものよりもずっと高さがあり、驚くような距離が出ていた。


 その姿は後ろで待機していたジュンが恐怖を感じるほどだった。


 ジュンは飛び込むのを恐れたのではない。


 アツヤが無事に着水できないのではないかという恐怖が頭をよぎったからだった。


 アツヤの心の中に恐怖が広がるのが見えた。アツヤが“飛び過ぎた”と感じたことがジュンには判ってしまった。失敗したとアツヤが舌打ちしているのが判った。それは一瞬の出来事だった。

 

 常軌を逸するほどのアツヤの跳躍は、沖側の海上で待機していた計測役の二人にも予想外だった。アツヤは着水点を今更変えることも出来ず、ロープを持ったままの二人の少年は衝突を恐れるものの、浮輪に浮かんだ状態では逃げることも出来なかった。


 彼らが計測のために持っていたロープが着水した瞬間のアツヤの喉元に食い込んだ。計測役の二人はアツヤの着水の勢いでロープが手から離れてしまい、そのままアツヤとともにロープは海中へと没した。


 着水の衝撃を喉元に引き受け、その苦しさにもがいたため、海中でアツヤの身体にロープがまとわりついていた。自由を奪われ状況がつかめないアツヤはパニックになり肺の中の空気を吐きだしてしまい海水を飲んだ。


 岩の上からその様子を見ていたジュンは即座に海面にめがけて頭から飛び込んだ。それは華麗かつ正確な、魚類のような流線形を描いた飛び込み姿勢だった。波間にほとんど飛沫を上げずに吸い込まれるように海中へと潜り、目を凝らして海に没したままのアツヤを探した。



 結果的にアツヤは海水を飲んではいたが、命に別条はなく引き上げられた岩場ですぐに意識を取り戻した。些細なことだと皆で笑い合い、親にそのことが伝えられることもなく少年たちの遊びはこれ以降も続けられた。それらが明るみに出れば飛び込みが親や教師に咎められ、岩場への立ち入りが禁止されるという事も考えられたからだ。


 無論彼らなりに安全性の確保という理性は一定量働いた。事故はロープの所為であり、以降は判定にロープを使用するのをやめようという事にはなった。


 ただ、ジュンはこれ以降飛び込むのをやめてしまい、海へ入ることも憚るようになった。怖い思いをしたのはアツヤであり、ジュンはそれを助けた張本人なのにだ。


 その日の晩、助けられたアツヤよりもジュンのほうが蒼白な顔を膝に埋めてふさぎ込んでいた。アツヤの恐怖が自分の中に流れ込んできた。ジュンはそのおかしな体験を祖母のカオリに話すこともなく、ただじっと心の中にしまい込んだ。


 その後も仲間たちはジュンを何度か誘いに来たが、頑なに拒否するジュンを不思議な目で見て、やがて誘わなくなっていった。


 事情を知らないカオリはそんな日々のジュンを見て、海で何か嫌なことがあったのだろうと考えもしたが、同時に子供らしい拒否の感情を露わにするジュンに安堵も覚えた。今までジュンは嫌がったり悲しんだり怖がったりすることを決して表側に見せなかったからだ。それが我慢していたせいなのか本当に感じていなかったのかはわからない。


 しかし今、目の前の色白の少年は「水が怖い」とカオリに縋り付いていた。

祖母としてカオリはジュンのそれを見て、男の子として情けないと思うよりも、孫が本来の孫のように、ようやく自分の保護の元へ収まったことに満足していた。今までの彼は体験が希薄過ぎて実感のなさゆえに感情表現が伴っていなかっただけなのだと、根拠なく自分なりに納得していた。だがそんな呑気な事を言っていられたのはこの時だけだった。


 数日後、父親のジャックが滞在していたカリフォルニア州のマイアミでサイクロンの被害に遭い、命を落としたという報が入った。史上最大の災害規模に被害者も甚大、被害者の身元が明らかになるまでに数日を要した。


 それからというもの、白石家には立て続けに不幸が襲い掛かった。


 母スミレは中東地域での研究調査中にテロに巻き込まれ、拉致監禁された。やがて米軍の強襲部隊に救出されることにはなるが、プロジェクトそのものが消滅し帰国の途につくことになる。


 カオリは交通事故に遭い、右足を複雑骨折、後遺症から不自由を強いられる。


 ジュンは月を見上げることを忘れたかのようにぱったりとしなくなり、不可解な言動も一切なくなった。そのことはカオリを安堵させることともなったが、その反動のように普通の子供以上にナイーブとなり、塞ぎ込むことが増え、言葉を忘れたかのように喋ることをほとんどしなくなり、友達とは一切遊びに行かなくなった。


 これらを契機に白石家は祖母、母、ジュンの三人暮らしを東京で再開することになり、マキタの住むここ八王子に越してきた。


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