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D線上のクオリア ー家政婦は戦うー  作者: 相楽山椒
第五章:ジュン 第一話 「東京の僕」
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戦闘家政婦―ジュン 1-3

 四月を迎えマキタはようやく退院したが、まだ学校に通うには様々な制約があり自宅療養していた。高校も二年になりジュンは新しいクラスの中でも上手く友達を作り、順調に高校生活の駒を進めていた。


 もともと中学までは成績はよく、方々から秀才だ天才だと言われることも少なくはなかったが、高名な私学の進学校には通わなかった。


 母子家庭といえど母親は大学教授で懐事情には問題はなかったジュンが一番に気にしたのは、三年前に交通事故で足を不自由にした祖母の事である。


 仕事で家を空けがちな母に代わり何かと身の回りの世話をしなければいけない都合上、寮住まいになるような学校に通うことには抵抗があった。


 無論それが理由で進学に積極的でない、と家族に察せられるのも嫌だったので、あらかじめ毎度のテストは赤点を取らない程度に調整して並かそれより下くらいの成績を維持し、MAKITA運送でバイトを始め、ごく普通の高校生を演じるよう心がけるなどと、明らかに普通ではない高校生だった。だが彼が幼少の頃に比べれば随分と普通になったとも言えた。


 昨年の夏のツーリングで訪れた海水浴場のある漁村、ジュンの母親の出身地であり、幼少の頃祖母に預けられていたジュンは十歳までそこで過ごしていた。


 ジュンが祖母に預けられるきっかけとなったのは、両親の海外渡航によるものであるが、今時両親の仕事の関係で海外出張となったところで、子供を置いてけぼりにすることなどないと誰もが首をかしげるだろう。ただ彼の家の場合少し事情が違っていた。


 ジュンの母親の名は白石スミレといい、若い頃渡米した先で知り合った北欧系のアメリカ人、ジャック・マレーという男と結婚し、ジュンを儲けた。


 ジュンが日本人離れした顔つきと体型を持つのは父親側の遺伝子を多く引き継いだためだ。


 ジャックはフリージャーナリスト、スミレは考古学者という夫婦で、二人は互いに触発し合い、一年の半分以上を世界各地を飛び回り取材と研究に没頭していた。


 そこに子供を同行させるとなるとやはり無理がある。だが、彼らがジュンを無視し可愛がらなかったという訳ではない。むしろ一緒に居る時は最大限の愛情を注ごうと彼らは躍起になっていた。ジュン自身がそれを迷惑がるほどに、といえばどれほどの事かわかるだろう。


 逆にジュンは幼い頃から、学校以外の時間は身を寄せている祖母の家で本を読むことに多くの時間を割くような子供だった。しかし友達は多いようで学校や外では一人でいるという事はなかった。


 礼儀正しく容姿端麗で頭のいい非常によくできた子供だと近所でも評判で、泣いたり駄々をこねたりといった行動を見た者はいないほど、落ち着きのある子だった。


 子供らしくないと気味悪がる者もいたが、ジュンを避けたり嫌ったりするような者は逆に非難された。年寄りはこぞって彼の事を神童だ、などと事あるごとに囃し立てはしたが、祖母は自身の孫をことさら普通に扱おうとしていた。


 それというのも当時のジュンには不思議なところがあり、夜な夜な奇妙な行動が目についたからだ。


 この当時のジュンはほぼ毎日のように夜空を見上げていた。一緒に暮らす祖母も、こんな聡明な子供でもやはり遠くに離れた両親が恋しいのだと不憫に思っていた。







 夏の暑さも落ち着いた晩夏の夜、満月が煌々と輝き庭の雑草の隙間から虫の音がしんしんと聞こえる。どこにでもある田舎の夏の夜の風景だ。


「ジュン、お父さんとお母さんが居んくて寂しいか?」祖母の白石カオリは縁側で本を広げるジュンにスイカを差し出しながら言った。


 カオリは祖母といってもまだ六十だった。背も曲がっていなければどこか体が悪いという訳でもない。むしろ孫がいるといえば人から驚かれるほどの容姿を保っていた。彼女は自分がジュンの母親と間違われることが愉快で、わざわざジュンと街まで出かけることもよくしていたのだが、人が多く入り乱れる場所では時折ジュンの視線が定まらないことに気づいてはいた。


「ううん、父さんも母さんも仕事に一生懸命だもん。僕が寂しいとか言って困らせちゃ悪いし」わずか九歳の少年が気を遣っている、ともとれただろう。だがカオリにはこのジュンの言動が庭先からしんしんと漏れる虫の音のように優しく響いていた。あまりにもその声色は自然で流れるように心に滑り込み、問うた者のそれ以上の思惟を受け流してしまう。


 カオリは無言で縁側に腰をおろしジュンと同じように月を見上げた。


 千年も前の物語にでさえ月という存在は“場所”という認識をされている。そしてそこに国があるなどという想像力までをも持っていた。これは驚愕すべきことではないだろうか。


 暗い夜空に日ごと形を変える奇妙な物体、あるいは単なる形状物、立体としてすら捉えられなくとも不思議ではないはずなのに、人びとは、いや竹取物語の作者はかの衛星を国としてまで表現した。望遠鏡もまして観測衛星もない、地球が惑星であるなどという認識すらできなかった時代にだ。


「ジュンはどう思う? 不思議やねぇ」


 ジュンは読んでいた本から目を離し、カオリの顔を見た。


「月に……月にウサギがいるって言ったのは誰なのかな。なんでそんなこと思うんだろ」


「それは……月の表面の模様がそう見えたからやないかな?」


「かぐや姫の話のほうがよっぽど現実的だよ。あれがウサギだとしたらいくらなんでも大きすぎるよ。二匹とも動かないし」


「二匹……? ははっ、まあ、そうやな、ジュンにはそう見えるんか」


 カオリはジュンの言質に引っかかりながらも、彼のもっとも過ぎる指摘に対して笑った。ジュンは本を傍らに置き、大皿に盛られたスイカを一切れ手に取った。


「最初の月面着陸はあたしが生まれた年やった。もう六十年も経ってるけどまだ基地の一つも出来てへん。子供の時はいつか月に行けるかなぁ思ってたんやけどなぁ」


「そうだね。NASAは一九七二年以来月着陸は行ってないし、行くつもりもないみたいだしね。何もないってことが判ったからなんだろうけど、なんかもったいないよね」


「お金がかかるんやろ」


「うん、本にもそう書いてた。国の問題で一杯一杯で、月になんて構っていられなくなったんだって」


「まあ、そやな。大変な時代やったからなぁ。今から比べたら、やけど」人生をたった九年しか生きていないジュンにこのような話をするカオリは苦笑いを作りながら、平穏無事に今も過ごせていることへ感謝する様子の口調で愛しい孫の頭を撫でた。ところがその言葉にジュンはこう返す。


「でもね、本当は、しなかったんじゃなくて、できなかったんだよ。まだ人類はあそこにはたどり着けるレベルにないんだ」


 カオリの掌を通して響いたその言葉は、一瞬感じかけた祖母と孫との少し背伸びした有意義な語らいをガラガラと突き崩しかけた。


 ジュンから感じる底知れぬ畏怖にも似た性質はそこにある。長い時間を共に過ごすカオリだからこそわかることだ。すべてを見透かしているかのような高貴で気高いとも言える横顔。


 彼の行動がある一定の法則に従っていることに気づくのにさほどの時間が必要だったわけではなかった。だがカオリはあえてそれを無視し続けてきていた。


 ジュンが夜空を見上げるのは、正確には月が出ている晩だけだった。曇りや雨の日は窓に注意を向けることすらなかった。


 カオリは娘の夫であるジャックを内心良く思ってはいなかったが、それを表に出すような軽率な女性ではない。ジャックは礼儀正しく、日本語もたどたどしさを残しながら一生懸命コミュニケーションを取ろうとする姿勢に好感を覚えない者はいない。ただ、このような不可解な言動をする孫――いや、ジャックという外国人の妙な遺伝子が孫にこのような行動を起こさせているのではないかと、娘と孫を擁護するために自身に言い聞かせていた。


 それでもジュンは自分の孫であり家族だ。ジュンは娘のスミレの腹から生まれたのであって、桃や竹の節から生まれ出てきたわけではない。カオリは頭を振り茶色く細い艶やかな髪に覆われた頭の下にあるジュンの顔を覗きこみ言う。


「それな、おばあちゃんも知ってるで、NASAの陰謀論って奴やろ。おじいちゃんがよお言うとったわ」


 ところがジュンは夜空に煌々と浮かぶ月を見上げこう言う。


「月は地球を支配しているんだ。そのために常に同じ面を地球側に向けている。交信しやすいように」


 ジュンは意味不明な言葉を淡々と述べた。カオリは生唾を呑み、そんな孫の横顔を見つめることしかできなかった。


 一見不可解でミステリアス、聡明で冷静、陰気といえば陰気、子供らしくないといえばそうだったが、不思議なことにジュンに友達は多かった。夏休みともなると毎日のように誰かが誘いに来てはジュンを連れ出してゆく。


 もっぱら漁師の村だけに遊びといえば海に行く程度のことしかなかったのだが、子供というのは飽きもせず毎日毎日海で泳いでは、日が暮れるまで遊び倒している。


 もともと色白のジュンではあったが、このような環境である。夏になれば否が応でも肌は焼けて多少なり黒くはなる。そんな“普通の子供”のジュンを見ている時がカオリはもっとも安心できた。


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