戦闘家政婦―次元転送社会2-2
凛にはふたりの兄がいる。長男尊は、なにわ工科大学で宇宙物理学を専攻する大学三回生。まだ恵との面識は二回か三回ほどだが、頭脳明晰といった雰囲気を醸し出す好青年だった。
次男が衛、恵と同い年で幼い頃から芸能界で子役として活躍している。今は中学に通いながら芸能事務所に所属して俳優の卵をやっているが、高校進学と同時に東京に出るという。
二人は大輔との血のつながりはなく、明奈美千留のつれ子、つまり前夫である俳優の井之頭健の息子ということになる。大輔と美千留の間にできたのはこの凛だけである。
少し変わった家族構成だとは思うが、よくあることといえばそれまでだ。十歳の凛はそのことをよくわかっているらしかったが、表向きの家族としての顔は何ら不自然さはなく、大輔も二人の息子を分け隔てなく愛しており、むしろ微笑ましい幸福な家族にしか見えなかった。
業界では日本DNSといえばこの次元転送社会にとって、なくてはならない企業として名を馳せているが、恵はまだ大輔のことを、ちょっと大きな会社の社長だというくらいの認識しか持っていなかった。
父の葬儀後、恵が各種の手続き等で奔走しているうちに、学校の方が冬休みに入っていた。当面あてがわれた山吹邸の一室にとりあえずの荷物を運び込み、山吹家の家族と寝食を共にして今は暮らしている。
だが、それも高校に進学し、目途が立ったらアルバイトでもして自立しようと恵は考えていた。
少なくともそれまでは世話にならざるを得ないので、せめてもの恩返しにと勉強の合間に時間がある限り広大な家の掃除や料理の手伝い、はては車屋の娘らしく洗車や簡単なメンテナンス、父から教わった大工仕事まで、毎日のように何か仕事をした。そうしなければ居心地が悪かったというのが最大の理由ではあるのだが。
美千留は仕事が忙しいこともあってあまり料理をしなかったし、関東方面の仕事が入れば週単位で家を空けることもあった。もちろんその分は恵が穴埋めをしていた。
では、自分が来るまでは一体彼らはどうして食事をしていたのだろうかと思うほど、美千留以外の人間は台所に立つ素振りもない。
二人の兄も年齢的に多くをこの家庭に求めてはいなかったし、小さな凛は物わかりがよすぎた。この家はそのあたりの家族内の役割分担というものがまるでなされていなかった。よく言えば自由、悪く言えば無秩序、だからといって不幸せでもない。
こういった家庭もまた成り立つものだろうかと恵は思ったが、やはり凛にとって良いとは思えない。
ある日恵は夕飯のクリームシチューを二人で食べていた時に、何気なく訊いてみた。
「なぁ、凛ちゃんは毎日お母さんのご飯食べたくないの?」
「ううーん、べつにぃ。美千留ちゃんも忙しいやろうし、それにテレビに出てる美千留ちゃんのほうがあたしは好きや」
小さい頃から仕込まれたせいだろうか、物分かりの良すぎる子供のセリフに眉をひそめる。
加納家も自営業という経営体制が家庭と仕事を切り離すことはできていなかった。まして自宅兼店舗工場である。父は毎日つなぎを着て整備にいそしみ、母は主に保険の取り扱いや事務、軽作業に従事していた。
しかし母は毎夕方には仕事を切り上げ、必ず買い物に行き、夕飯を作っていた。その時間まで恵は子供らしく近くの公園で友達と遊ぶことも出来た。
両親が忙しい時などは恵が洗濯物を取り込んだり、買い物や食事作りを務めることはあったが、おおむね加納家は父と母と子の役割分担は成立していた。
無論、父親がスーツを着て会社に出勤し、母親は日中家事をつつがなくこなし、夕方に帰ってくる家族を温かい食事と疲れをいやす風呂で迎え、そして日向の匂いの蒲団に一日の終わりを感じる。そんな“普通”の家族像もあるはずだった。
事実、恵の同級生は大半がそのような生活を送ることが出来ていた。それを能天気だと言うには厳しすぎるだろう。自分はあの家に生まれてあの家の生活の仕方を覚えただけだ。
毎月の給料が約束されて、ボーナスも問題なく支給され、週休の二日が保障されていれば別の家庭の成り立ちがあったかもしれない、というだけだ。
しかし、ここ山吹家はそれらとは別次元で、富が有り余っているようにしか感じられない。それでこれなのだ。家族がひと所に固まっていない事を当り前のように受け取って生活している。
ところが、山吹家にもう一人の家族がいるという事に気づいたのは、恵が居候を始めて二週間後、年の瀬も押し迫った大晦日の前日の事だった。
年末の台所に立つ田能誠一という、二十代後半くらいの男性は、藍色の和服にエプロンを胸にかけてフライパンを振っていた。
この男、端的に言えばいわゆる“家政夫”で、先日までは所用で屋敷を空けていたそうだ。主夫という言葉が珍しくなくなった時代とはいえ、あえて男が家政婦のまねごとをするものだろうかとも思ったが、事実誠一の慣れた手つきは疑いようのないものだった。
西日が入り込むキッチンに顔を出した恵に、誠一は振り向きもせずに語り掛ける。
「なじまない家に来て早々、悪かったね。なんか僕がいない間に家の事をしてくれたようで。年末だから助かったよ」その家政夫は穏やかな声を発した。
「いえ、なんか、差し出がましいことをして……すみません」謝る必要などなかったが、居候の手前、つい口から出てしまう。
「ははっ、嫌味で言ってるんじゃないよ。みんな君のこと褒めてたよ。若いのに頑張り屋さんだって」そこで誠一は初めて振り向いた。
若いのに頑張り屋さんって、言われ方は変な感じはしたが、誠一の笑顔は甘くすべてを包み込むような優しさに満ち溢れていた。
しかも相当なイケメン。大きな目と嫌みなく通った鼻筋、少し上がり気味の口角とウェーブのかかった長めの髪。このままドラマの主役を張ってもいけるのではないかと思えた。
山吹家のみんなが褒めてくれたのは知っている。恵もその場にいたのだから。それが儀礼的なものだったとしても悪い気はしていなかった。だが、この誠一が言う“みんな”という響きは少し違ったニュアンスに聞こえた。
誠一は山吹大輔に信頼を得ているようで、家の物事に関しては何でも知っていた。それこそ恵がやってのけたように、料理から洗濯、掃除までそつなくこなす。ただ大工仕事や車のメンテナンスといった機械仕事は苦手なようで、加納モータースに大輔のビートルの修理を依頼したのもこの誠一で、部下に指示して持ち込ませたのであった。
「あの、誠一さんって、会社の人なんですか? その……山吹さんの」彼はタオルで手を拭きながら恵に向き合い、少し困ったような顔をする。
「会社、ねぇ……ちぃと違うんだけど、まあそんなもんかな――あ、もし手が空いてるなら手伝ってくれる?」
誠一は御節料理の下ごしらえの真っ最中だった。
恵がここへ迎え入れられたのが父の葬儀が終わってすぐで、クリスマスムードを味わうまでもなくバタバタと駆けてきたので、正月があと数日後に迫っているのだという事に今更気づいた。
そのくらい山吹家は、時計のように家事をこなす誠一がいなければ時間の流れとともに季節感を感じられなかったのだ。逆を返せば山吹家の人間はみな一様に忙しく自分の事をこなすので精いっぱいになっていると言ってもよく、凛が変に大人びた考え方であるが故に誰もそのおかしさに気づかないと言った風でもある。
「これ、全部ですか?」誠一の傍らにある材料は驚くべき量だった。
「まだ外にもあるよ、お正月のお客さんは多いからね」段ボール箱単位の食材がキッチンの隅に山積みになっている。
「いっつもこうなんですか?」
「いっつもって?」誠一は恵の関西弁に引っ張られるようなイントネーションで応える。
「なんか、こっちの家に来てそれほど時間が経ってるわけやないんですけど、あの、なんかみんなこの家の人ってバラバラな感じがするんですよ。あの、悪い意味じゃなくて、えと……」
「ああ、わかるよ。バラバラになってるというか、それぞれが独立してるって感じの意味だろ?」恵は頷きながら腕まくりをして手を洗った。
「だから僕みたいな屋敷の時間軸になっている人間が必要なんだけど、まあ仕方ないよ。旦那様は大企業の社長、奥様は売れっ子女優、家族のイベントごとよりも自分個人のフィールドのほうに重きを置いてるし、尊君や衛君だってもうほぼ独立した存在だからね。ただそういう外面の体裁よりも実をとってるってのはよくわかるよ。好意的な捉え方としてはリベラルなんだな」
恵はリベラルの意味がよくわからなかったが、誠一にとってはそれほど悪い家庭には見えないらしい。だが、恵からすると、やはり年中のイベントごとはその規模は問わずとも、家族で迎えるべきなのではないかとも思う。
恵の家もやはり正月は正月で休みをとって、母が御節料理を作っていたし、盆の休みは墓参りがてらの家族旅行に行っていた。節分の豆まき、ゴールデンウィーク、七夕、夏祭り、十五夜、クリスマス、簡略化されることもあったが、それらはおおむね恵か母が執り仕切り、実行していた。
その季節ごとに、イベントごとに家族的な何かを感じていたことも確かであり、こういった慣習は世代をつながなければ継承されないものなのだとも思った。
「合理的やとは思うんですけどね。ウチは古い家なんかもしれませんけど、そういうの続けてきた家やから」
「へえ。恵ちゃんの御両親はしっかりした方だったんだね」
誠一の過去形の台詞は心にずしりと重く響いた。
目頭が熱くなり涙が出そうになるのをこらえながら「だから、凛ちゃんがなんか、不憫ってゆうか。やっぱりもうちょっと家族ってのを感じさせてあげたいなって思うんです」
「愛情ある家庭で育てられた女性ならでは、って感じか」誠一は恵の感情には気づかなかったようで、はにかみ首をかしげる。一見バカにされたようにも見えたがそうではない。
「僕はさ、ここで仕事として家事全般や雑務をこなしてるわけだけど、それが結果として“ちゃんとやってる家庭”ってのを醸し出してはいるかもしれない。外向きにはね。だけどこなすだけじゃダメなんだなって。ちゃんと意味を考えて、ここにいる人の気持ちを考えてやらなきゃ意味がないのだろうね」
次元転送社会をはじめとし、社会形態は二十一世紀に限らず、それ以前から文明文化の流入や勃興により変化を続けてきた。半ば形骸化しその意味を知る者もいなくなった風習もあれば、単なる年中の節目として称されるだけの行事、本来の意味にこだわれば成り立たなくなるものは経済観念の上で処理されることにより、生き残りを得たりもする。
「ウチは凛ちゃんのためだけにでも、家族はちゃんと家族の役割を果たさなあかんと思うんです」たった二週間そこそこで、この家庭の事をすべて知ったわけではない自分がこんなことを臆面もなく言う僭越さ。だが確信はある。やはり凛には母も父も必要だ。
凛が口にしたように、恵の事を「姉」と呼びたいその気持ちは家族を求めての事なのだ。言い方が悪ければ、たとえ他人であったとしても、比較的フリーで自身の仕事を擁さない恵が山吹家に来たことで“自分だけの家族になってくれる人”が現れた、と自己都合で解釈をした。恵はそう感じたのだ。同じ一人っ子として。
だが、もちろんそんな役回りは、恵はごめんだと思った。居候で肩身が狭いとはいえ、そこまで家族の事情に踏み込むのは憚れる。
「旦那様に僕から口添えしておこうか」
「何をですか?」
「恵ちゃんを僕の助手として、アルバイトとして雇うってこと。しばらくはこっちにいるんなら、学校も大変だろうけど、その合間に家事の手伝いでお金を稼いだらいい。君だってただ居候させてもらっているよりも気が楽だろ?」誠一は話している間中ずっと手元から目を話すことなく、慈姑の皮剥きをしている。鮮やかな手さばきだ。
「なんせこんな家なんだ、お手伝いさんがもう一人増えたところでやることがなくなるってことはないさ。君が出来ないことは僕がちゃんと教える」
何気ない会話の中で生まれた恵への光明だった。
天涯孤独になった自分にはさしあたり高校に入学することしかやるべきことはなくなっていた。誰かから必要とされることもなく、誰かのために動くこともしなくてもいい、それは恵にとって忸怩たる思いを過ごす羽目になる時間であった。もしも、ここで自分をそのように捉えてくれるのならばうれしい。自分のために、誰かのために、生きたい。それが凛一人のためだったとしても。
「人間にはね。どんな人間にもね、居場所と役割は必要なんだよ。そしてそれの受け皿となってくれる“家族”がね」誠一の発した“家族”は再び何らかの意味をまとって恵の耳朶を打った。
気づいたときには台所に差し込む西日はなりをひそめ、闇が辺りを染めつくしそうとしていた。