戦闘家政婦―次元転送社会 1-2
学校から帰った恵はいつものように工場を通り過ぎて奥の居室へと続く階段に向かっていた。古い商店街沿いに建つ加納モータースは道路に面して、車二台分ほどの工場の間口が有り、薄暗い工場内の奥に、二階の居宅への上り階段があった。
どのような経緯でこんな建物になったのかは分からないが、おそらくは祖父の代から増改築を繰り返した結果の、違法ギリギリの建築だろうと推察できる。
おかげで昼も夜も営業中は車の排気音や機械の作動音が家の中に響き渡ることは避けられず、半分倉庫にめり込んだような形の家は倉庫内の熱気にさらされ、あるいは排気ガスやガソリン臭などが時折家の中を満たすこともあり、とても快適な居住環境とは言えなかった。
恵が年頃になった頃、やはり女の子であることを気にして五郎が再び家の内装をリフォームし、内壁に防音断熱の素材を使用し、幾分快適な家に生まれ変わった。五郎は当然ながら手先の器用な男で“作る”ということに関しては何でもといっていいほど長けていた。
五郎が土日は仕事で、遊びに連れて行ってはくれない分、母がいろいろな場所に恵を連れ出してくれた。二人は一人娘である恵のことを随分可愛がったが、けしてそれは甘やかすという意味ではなく、様々なことを体験させて選択肢を増やし、間接的にでも生きる道筋を自分で決めるという意味を教えようとしていたのだろうと恵は理解している。
いずれにしてもきょうだいのいない恵は加納家では最後に残る一人となる。仮に生涯の伴侶が得られなかった場合、一人で生きてゆく強さをつけておかねばならなかったからだ。
その甲斐あってか、父親の職場と家が同じ場所にあり、業者やお客との面識を得ることは日常茶飯事で、恵は大人の社会の中にいることを普通に捉え、器用に人間関係をこなす娘に成長していた。
一週間前から預かっている古いビートルという車は整備が終わり、いつでも走り出せると言わんばかりの生気がみなぎっていた。
誰がどんな経緯で乗ってきた車両でも、車は車だとして一生懸命修理をしていた。恵が物心ついて五郎の背中を眺めるようになってからそれはずっとだった。
どんなクルマでも直せる、と大きな声で言う男ではなかった。正直なところお客にその顔は見せなかったが、何時間も悩んで資料とにらめっこをしている姿を知っている。わからないとは言えない、できないとは言えない、自分ができないなら他人に頼めばいいと考えられるほど器用でもなく、それよりもできるようになる選択をする実直な男だった。
恵はそういう父の背中を見て育った。だから母がいなくなった今だって頑張っている。できない、やりたくないなどと言えないし、言いたくもなかった。
今年最初の寒波が日本を襲った二〇四〇年師走のある日、学校から帰りついて、すっかり冷えきった店の戸口まで足を踏み入れた恵は、工場の端に備えているデスクに座る父の後ろ姿をふとのぞき見た。「ただいま」と声をかけるも返事はない。
何かに夢中になっている時はだいたいこんなものだ。
作業つなぎ越しに見える、細いが筋肉質の背中。けしてまだ衰えてはいない。四十歳だ、まだまだ経営者としては若いうちに入る。なんならこれからやり直すことだって十分できるに違いない。
恵は乏しい知識ながらにもこの業界の実情を理解し始めていた。全国でガソリン自動車が減ってゆく中、整備事業者も年々店を畳んでゆく。ならば最後まで生き残った者が勝ち残るのではないだろうか。ここに来ているお客のように、古い乗り物を大事にする人種は一定数を保つ。
それはス-パーマイノリティであるかもしれないが、完全絶滅はまず彼らが許さないだろう。
そしてこの店がなくならなければ、彼らも絶滅を逃れることが出来る。共存共栄は望めないかもしれないが、“共存共生”ならば、たとえこの世が次元転送社会に染められたとしても、存在意義は保てるだろう。
恵は考えながら工場を抜け、奥の居宅への鉄製の階段を登った。
冷蔵庫の中はあまり材料が残っていなかった、学校帰りに買い物に行っておくべきだったと後悔しながら、今夜の晩御飯はスタミナがつけられる料理がいいかと思案していた。
十二月も半ば、少し気を抜けば体を冷やして風邪などをこじらせてしまいそうだった。
そういえば父は何も羽織らずつなぎ姿のままデスクに向かっていた。寒くないだろうかと買い物に出かけるついでに上着を持って行ってやることにする。
「父さん、ウチ買い物行ってくるわ。それからこれ上着。寒くなってきたし」恵は振り向かない父の背中に語りかける。今日は随分熱心だな、と思いながら「ここ置いとくからね」デスクの方には近づかず、作業椅子の上に上着を置いて出口へと向かった。
今年の冬は格別に寒い。もちろん一年前の体感記憶があるわけではないが、いわゆる例年に比べ寒いと言われている。
二十世紀末からはじまった中国大陸をはじめとする途上国の高度経済成長による環汚染が深刻化し、地球環境は急激に悪化を始めたと言われている。もっとも深刻だったのは温室効果ガスによる地球温暖化問題だが、これに歯止めをかけると期待されたのもまた次元転送技術だった。
次元転送技術が導入された現在、地球の平均気温は徐々にではあるが下がりつつあり、亜熱帯化していると言われていた日本でも、本来のメリハリのある気候を取り戻しつつある。
だが、ただ生活するだけなら夏は涼しく冬は暖かいに越したことはない。そう恵は思いながらコートの襟にマフラーを巻いて、足早に街灯がともる商店街の方へと駆けて行った。
「恵ちゃん、まいど。いやあ、寒いねぇ」精肉店の店主、岡部は禿かかった頭を隠すようにニット帽をかぶりなおしてにこりと笑う。
広大な敷地面積を持つ超大型商業施設が乱立した二〇一〇年代、各地の商店街は次々とシャッターを閉めた。総合型大型商業施設は広大な敷地に駐車場とショッピングモールを形成し、さながら地元商店街のレプリカとも言うべき専門店街を丸ごと抱え込んだからだ。
地域は巨大なコンクリート建造物の膝元で経済を支える城下町と成り果て、一極集中の消費ベクトルが形成された。
しかしいずれなりそれらは年を追うごとに、当初予測された収益を大幅に下回り、館内は客もまばらな閑古鳥が鳴く広大なスペースとなった。地域が抱える人口に対し収益が伴わなくなったのだ。この現象は全国各地で同様の現象が見られた。
巨大企業体による大型商業施設投入戦争は、さながら二〇世紀末の冷戦とも言うべき虚しさと共に二〇年余り続いていたが、業界は取り扱う品物の半分以上をDFSを利用した転送通販とすることで規模を縮小し、自ら次元転送技術の導入を積極的に進めるようになった。
ただ、これら超大型商業施設が凋落していったのは次元転送技術の所為ではない。
これは、人びとの消費意識の充足度によるものである。
端的に言えば田舎があるからこそ都会は都会と呼ばれるようなものであり、それは常に相対的な物でなければ存在意義を失うという事である。
地元でしか手に入らないもの、また地元でしか受けられないサービス、それを包括し全ての者が手に入る総合店舗にシステム化したところで、人びとが従来から地元商店で得ていた消費充足の代わりにはなることはない。人は合理化を望む一方で不合理もまた飲み下すことに価値を見出しているからだ。
日本人ほど豊かな経済環境下に生活していればこそ、この流れは自然の成り行きといえた。
一般消費社会においてはこのような離合集散が度々繰り返され、地元商店は根強く生き残り、大中型総合店舗はその体を保てずにそこそこの売り上げを保つことになる。それに耐えかねれば撤退を余儀なくされる。
そのような単純な小競り合いの上での話だ。これを岡部はいつも口にする。
「まっ、所詮は肉屋は肉屋でなぁ、どこにいたって同じなんよ。お客さんは美味い肉が食べられるならそれで満足なんや。美味いもんをバーコードや生産地域を疑い混じりで精査せなあかんなんてゆうたら面倒やってことに気づいたんやろな」
長く商店主会の会長を務める岡部は、大型スーパー建設反対の陣頭指揮を執ってきた人物だ。過去五年にも及ぶ協議のその結果、フランチャイズグループ側が恵の地元、東大阪での超大型商業施設を断念した。恵がまだ幼稚園の頃の話だ。
恵には難しいことは判らないが、少なくとも歩いてすぐに店先に顔を出し、商品に詳しい店主と会話をして買い物ができることの便利さは商店街ならではだ、と思う。
加納モータースだって、やはりそうではないだろうか。作業をする者と作業を依頼する者が直接顔を突き合わせて話をし、その作業内容や工賃や使用部品を決めてゆく。
家に帰ってしまえば不要になる包装紙のように、不要な作業や交換部品を削ぐことでコストダウンを図れるからこそ、自動車ディーラーのように杓子定規な作業にとらわれない、フレキシブルな対応ができる。
もちろん、洒落た待合室もなければ、黙っていてもコーヒーが出てくる事もないが、重要なのは大事な車をちゃんと直せるかどうかという所であり、それを任せられる店なのか、人なのかというところに落ち着くという事なのだ。
「ほれ、すき焼き肉二百グラム、もう終いやから余った分サービスで入れとくわ」
「わ、こんなに? おっちゃんありがとう。いつもすんません!」
「ええって、恵ちゃんも育ちざかりやし、おとうちゃんも最近疲れ取るみたいやしな。それ食べて体力付けて風邪ひかんようにな」
有難い。お客さんたちのみならず、この商店街の人々も加納モータースを、父や自分のことを気遣ってくれている。思いながら精肉店を後にする恵は顔がほころんでいた。
ずっとこの町に住み続けたいと思った。けして綺麗ではないし、人柄も上品とは程遠いかもしれないが、温かさだけは感じる。皆が家族のように助け合って、行事の際には協力し合って、支え合っているこの町が恵は好きだった。
両手にビニール袋を提げた恵が家に戻ったのは約一時間後だった。
「ごめん、八百屋のおばちゃんにつかまって遅なってしもた。すぐ用意するから」
店はそろそろ閉店していてもおかしくなったが、シャッターも看板の電灯も恵が出て行ったその時のまま、開け放たれて煌々と営業状態だった。
お腹もすいているだろうに、そそくさと居宅への階段に向かう恵は相変わらずデスクに居座る五郎の背中を立ち止まって見た。
「あれ? ちょっと、父さん。寒ないの?」出がけにおいて行った上着はそのままの形で残されていた。そして五郎もそのままの姿勢で椅子に座っていた。
ビニール袋を階段の上がり口に置いて、恐る恐る近づいてゆく。まさかとは思う。
「ほら、寒ないの?」そう継ぎ足して上着を手に取り父の背中にかけようとした。
だがその時、恵は父親の異変に気づく。
五郎の背中からはおよそ生気というものが感じられなかった。
少し触れればそれはわかることだ。眠っているのではない。五郎は眠ったようにその場で肘をつき、請求書にペンを走らせる格好のまま、息を引き取っていた。
恵は声が出ないまま、父の背中を揺さぶった。
右手に添えたペンがカランと乾いた音を立ててデスクに転がった。