戦闘家政婦―次元転送社会 1ー1
「お父さん、ご飯できたよー」後ろでひとくくりにしていた髪を解きながら恵が五郎を呼びに工場脇の扉を開いて顔をのぞかせた。
「何や恵、帰っとったんか。今日は稽古ちゃうんか?」背中を丸めてエンジンの音を聞く五郎が振り返らずに応えた。
「うん、もうすぐ高校の受験やし、今月から休もう思って。父さんも大変そうやし今日からはウチがごはん用意するわ」恵はつっかけ履きで父に近づき、部屋着のポケットに両手を入れて腰をかがめ、背中越しに話しかけた。
その途端バンッ、というけたたましい破裂音がし、恵は両肩を跳ね上げる羽目になる。
「ああーびっくりしたぁ。なんか爆発した?」
「すまんすまん。合成燃料やとなかなか調子でんくてなぁ。ははっ、びっくりしたなぁ!」
よくあることだとばかりに五郎は笑って恵を振り返った。
「かわいいビートルやねぇ。何年式?」全体的に独特の丸みを帯びたベージュ色の美しいフォルムの車がそこにあった。西ドイツ時代に生産された、世界で最も有名な大衆車である。
「これか? ええと一九六四年式やから、七六年前の車やな」
「へぇっ、長生きやねぇ」百七十センチの五郎とさして変わらない背丈の恵は立ち上がり、物珍しそうに全体を見渡した。
「そや、機械はなぁ大事に使えば長持ちする。ちゃんと手を入れてやればいつまでも動くんや」エンジンが鎮座するリアのフードに潜り込むようにしていた体を持ち上げながら、五郎は腰に手をやり立ち上がった。
「でも、もともとガソリンで動く車なんやろ?」バサバサという音を立てて小刻みにエンジンが震えている。五郎はビートルの運転席の窓から室内に腕を入れてイグニッションキーをひねり、エンジンを切った。
「ん、まあな。ガソリンは高くて手が出んし、合成燃料もなくなったら動かすこともでけんのは確かや……」五郎は首にかけたタオルで顔を拭きながら、「こういう車がどんどん減っていくのはなんか悲しいもんやな……。さ、メシ食お!」と言って倉庫の階上の居宅へと続く扉の方へ歩みを進めた。
恵は中学三年生の秋を迎え、本格的な受験勉強に打ち込む日々が続いていた。授業料が高い私学への進学は眼中になかった。
母を亡くした三年前ころから社会の風向きは変わり、経営難、廃業という言葉が五郎の周辺でも囁かれるようになり始めていた。五郎にとっては予見できた事態ではあったが、現実はその予想をはるかに上回っており、主に運送事業所のメンテナンスを請け負う大型トラック整備事業者などが大打撃を被り、おのずと廃業、それに伴う油脂、部品関係の事業者が連鎖的な倒産、結果的に車業界全体を不景気に陥れることになり、材料仕入れの経費は年々上昇してきていた。
父と子の二人暮らしとはいえ、ここまで経営が悪化すると店自身が立ち行かなくなってくるのは明白で、持ち家故に家賃はかからずとも、そもそも来るか来ないかわからない客を待っているだけの毎日を過ごしていても仕方がなかった。そこで五郎は週の三日間を昼間だけ営業し、夕方から近くの家電製品の組立工として日夜働くようになっていた。
転送機器というものを身近に目にすることが増え、役所や大きな店舗では民間へのサービスとして転送機器を使用できるようになっていた。もちろん有料でではあるのだが、従来の運送料と比べても安いわけでなくとも話題性と、何といっても最大のメリットは瞬時に品物を送ることが出来るという点にあり、それらの機器の前には物珍しさも手伝って、いつでも行列ができていた。
次元転送およびその機器やネットワークをまとめて『ディメンション・フォワーディング・システム』略して『DFS』といい、日本では単純に転送や転送器と略される。もっとも昨今ではこなれてカタカナ表記で“テンソー”と書いたり、呼ばれることが多い。
ちょうど二十世紀末に爆発的に普及した携帯電話が時を経て“携帯”や“ ケータイ”と変化したようなものだ。
そのテンソーはケータイにははるか及ばない巨大な顕微鏡のような形状をしており、転送台と呼ばれる部分に品物を置き、透明な円筒状のカバーをかぶせてその上から光を当てると通信先へと転送ができるという、原理が解らずとも操作自体は誰でもできそうなものだった。
だが恵はこれを試そうとも使おうとも思ったことはない。五郎から散々、経営の悪化は次元転送のせいだと愚痴を漏らされていたからだ。
だからそれについての話題にも無関心を装い、存在自体を無視し、五郎に歩調を合わせていた。
外に働きに出るようになってから五郎は酒の量が増え、体も壊しがちになっていた。ほんの一年前とは状況が違う。去年までは車の整備の仕事だけでも何とかやっていけていたのだが、次元転送機器の普及と共に次々と取引先の運送会社が倒産し、車両の修理や車検が激減した。車業界を覆い尽くす不景気の波は加納モータースにも襲い掛かっていた。
それでも五郎は、懇意にしている旧車を大事にする客のためには、昼夜構わず作業を快く引き受けていた。それもすべてガソリン車を絶滅に追い込みたくないという思いからであり、一種の使命感のようなものに駆られていた。
今、工場に入庫しているビートルとて例外ではない。
「あの車って、どんな人が乗ってんの?」食卓に向かい合わせになる形で、恵は何気にそう訊いた。
「……さあな、しらん」五郎はぶっきらぼうに答えた。
「しらん、て。お客さんやろ?」
「代理のもんから電話で連絡があって、レッカーで運ばれてきたんや。オーナーとは会ってへん」五郎は目も合わせずに味噌汁をすする。
「大事な車預けるのに顔も出さへんのってなんか変やない? その人、直ったらちゃんと取りに来てくれるん?」恵は父がまた人情気質で仕事を請け負ったのかと、憤りの気持ちが言葉尻に現れてしまった。
「お前が気にすることやない」五郎もそれに呼応して語気を強めてしまう。
「気にするよ! 昼も夜も働いて、その上ボランティアみたいなことやってて体壊したって誰も褒めてくれへんやん! そんな無理せなあかんねやったらウチ高校いくの諦めて働くわ!」
「あほか! 高校はいけ。ちゃんと金はもらうわ、安心せえ!」
二人きりの食卓になってからすでに三年が過ぎていた。
恵の母、紗子は癌で亡くなった。当時三十五歳と若いこともあり、自覚症状のないまま半年の内にたちまち癌細胞は全身をむしばみ、異常を認めた時にはすでに手遅れだった。
自営業を営む彼らにとって一年の一日は給料そのものと引き換えにする時間だからこそ、休むことを非とする傾向が否が応でも強まってしまい、ついぞ定期的に健康診断や検診にはなかなか足を運びにくくなる。
だが三か月前には胃腸炎で五郎が救急搬送されるという事件があったばかりで、恵が五郎を強くたしなめるのも仕方がないと言えた。幸い重症ではなかったものの、こういったケースは珍しくはない。
テレビのニュースがまた次元転送装置の話題を伝えている。
間に挟まれるCMからは新型の超電導リニアコイル搭載のスポーツカーが地平線の彼方へと颯爽と走り去る映像。
「……あっという間やったな。石油が枯渇するって話は二十年も三十年も前から出てた話やったけど、ほんまになくなるって時にはどこから切られるかってことをよお考えもせんかった。それにあんな次元転送みたいな技術が出来上がることも……あいつの口から聞かされてたのに、よお考えんかった。自分のとこは大丈夫やっておもっとったんや。社会の中で生かされて、その中の駒になってしもてんねやったら、その世界が変われば駒も変わらなあかんかったんや」五郎は頬杖をついて食卓の角を見つめながら言った。
「そんなん……ウチは、父さんは間違ってないと思う。いろいろ大変やったけど、父さんは自分の大事にしたいこととか、信じてることをやってきたんやもん。それを間違いとか失敗とか、そんなんゆうのは“後出しじゃんけん”や、ずるいわ」
二人で家庭と店を支えて生きている、という自負は恵の心を強く保たせていた。
学校が休みの日は父の手伝いを積極的にし、通常整備作業なら一通りこなしてみせる程になっていた。自分で出来ることはもちろん、自分が出来ない事も努力してちゃんとこなせるようになることを心がけていた。
いくら働いたとしても、今までの生活レベルを落とすことだけはしない、というのが加納家の姿勢だった。
だから表向き加納モータースは火の車には見えなかった。恵も小学三年生から続けている合気道を辞めることもしなかったし、五郎も店をたたむことをしないで、大事にしている自身のバイクも手放さなかった。それをしてしまえば自分たちは負けだと感じていた。
恵には夢などなかった。
ただ今を乗り越えること。次元転送技術が当たり前になる世界が来るならそれでも構わない。それまで、世界が安定するまでこの店を守り、相反するようだが、平和な日々が加納モータースに訪れることだけを願っていた。
ただでさえ厳しい生活、二人は精一杯を注ぎ込んでいた。ずっと続いてきたこの店を潰してしまう訳にはいかないという五郎の強い意志、笑顔を絶やさないで未来を信じようとする恵の希望を込めた心。
正直何処から見ても良いとは言えない環境下に追いやられてはいたが、二人の親子はまだ希望を棄ててはいなかった。