戦闘家政婦―GODS 1-2
早朝五時、恵は布団をたたむと、ジャージに着替え、手早く櫛を通して髪をゴムでとめる。恵は朝の家事が始まるまでの一時間のジョギングを再開した。これは中学時代から五郎が死去して石切の山吹家に来るまでずっと続けていた習慣だった。
運動神経は中の中といったところ、小学校の頃からずっと合気道を習っていたが、こちらも父が死去してからしばらく休んだままになっていた。それに、山吹家の仕事を覚えるのが予想以上に大変で、おまけに手の怪我をして足が遠のいてしまっていた。
このところはめっきり運動らしいこともしてこなかったから、たかだか三十分の走り込みでもすぐに息が上がってしまう。以前のペースを取り戻すのに幾日かかかっていた。
石切の坂道は足腰にこたえる。だがその分、恵の身体はもともと持っている身体能力を引き出し、目覚めさせるのにちょうどいい荒療治ともいえた。
六時には屋敷に戻っていなければいけない。汗でじっとりと重みを増したジャージを脱ぎ、烏の行水よろしく五分でシャワーを済ませる。
バスタオルを巻いたまま自室に飛び込み、仕事着を身に付ける。
仕事着とは与えられた絣の着物で、黒や紺のシンプルなものを多く身に付ける誠一と違い、恵の物は美しい桔梗色の地に幾何学の文様があしらわれたものだ。
これが山吹家が代々受け継いだ使用人の服装である、という訳ではない。単に山吹大輔がこのような古風なスタイルを好むだけであり、自身も屋内では着物で過ごしていることが多いためだ。
恵は、学校があるときは制服の上から割烹着を着て朝食の支度をするのだが、休みの日は、日中のほとんどをこの和服のまま過ごしている。最初は窮屈だと思っていた帯も、今では特に気にならず、脱ぎ着にしても五分もかからずできるようになっていた。
それをめんどうだとか思う事はない、何に気を付けているわけでもなく、いつも同じようにしているからそうしているだけだ。そのくらい恵は規則正しく毎日を過ごしている。
ちらちらと眩しい陽光に乗って早起きのセミが声を上げ始める。
切った左手はずいぶんと良くなり、縫合の糸はまだ抜けなかったが、ほとんどの家事をそれほどの抵抗もなく行えるようにはなっていた。
「手はもう大丈夫なのか?」誠一はたすきを結びながら恵の背中に語り掛ける。
「はい、先生が体をよく動かしていれば傷の治りも早いからって、軽いジョギングはいいことやって言うてました」恵は湯気の立つ鍋から煮干しをすくい上げて大きく鼻で息を吸い、火を止める。
恵の隣に立ち、誠一は冷蔵庫から取り出した一夜干しをコンロの網に並べる。ちりちりと音を立て、香ばしい香りが台所に立ち上る。
恵はその火加減を確認して「そういうもんなんですか?」と、続ける。
「ああ、代謝が活発になるからな。若いと尚いい」傍らの保存容器の糠床の中のナスとキュウリを一本ずつ取り出し、一枚板の分厚いまな板の上に置いた。誠一の包丁捌きは正確無比で、ナスはそのどれもが同じ幅に切りそろえられた。意識してやっていることではなく、それは長年の間に誠一が身に付けた、朝の当り前の作業の一つだった。
「ところで、訊いたことなかったんですけど、セイさんっていくつなんですか?」味噌を溶きながら恵が訊く。
「あん? いくつに見えるよ?」キュウリの浅漬けを刻みながら、抑揚のない声で応える誠一。
「そうやって訊き返すあたりからして……三十は越えてる」確信の眼差しを鍋に向けたまま味見をして、つぶやく恵。だが「まだ二十九だ。わるかったな」と、小さく息を吐いて天井を見上げる誠一だった。
八月も終わりを迎えようとしていた。子供のころ夏休みの宿題を最後まで残すようなことはなったが、自由研究だけはどうも苦手だった。植物観察をしてくる子もいれば、工作を作ってくる子もいた。だが恵はどうもそれらがしっくりこず、毎年八月末にうんうんと唸って研究材料を探していた。
そんな懐かしい思い出を足元の黒い影の中に見据えて、買い物かごを提げ、石切の商店街へと向かっていた。
もう、慣れたものだ。下町育ちの恵は家政婦の仕事を始めてすぐに地元の商店主らと顔見知りになり、冗談の一つも言い合うようになっていた。彼らは商店の大人と物怖じしない会話をする恵のことを、今時珍しい子だと言ってかわいがってくれていた。
どこかのクラブの試合の帰りだろうか、大きなスポーツバッグを抱えた中学生くらいの数人が頭を垂れて坂を登ってくる姿とすれ違う。試合に負けたのかな、と彼らのうちの一人の横顔に視線を走らせて考えた。
勝ち負けのある勝負事はどうにも自分の性に合わないと思っていた。だから空手や剣道ではなく、試合のない合気道を選んだ。
女性の護身術として習得する向きがある合気道だが、実戦に使えるようになるまでには少なくとも十数年は鍛錬を要するため、多くの者はそれを武術として実践することは考えず、礼節や精神修養を目的とする側面が強い。
恵も同じく暴漢に襲われたことなどないが、合気道の技の数とそれを発動させるポイントとタイミングの面白さにはまって六歳の頃から続けてきた。演武ならばそれなりに見せる自信はある。
打撃系の格闘技とは違い、柔術に近いものだと捉えられることがあるが、体力や体格に影響をほぼ受けない合気道はそれとは全く別の理論で成り立っている。
達人の技を見ればまるで八百長のように映るほど、いとも簡単に小手先で相手をいなし投げてしまう。こういうのを気合だとか気功だとか、超能力のように言う者もいるがそうではない。
人間の関節構造や重心構造を熟知して、それを崩すポイントとタイミングを技として体系化したもの、と言って良いだろうか。技によっては本当に指一本で相手を倒すこともできる。
だが、実戦はセオリー通りに暴漢が襲ってくるわけではないから、相手を捉えるポイントへの体裁きが勝敗を決するといってもよいだろう。無論試合そのものを経験していないため自分がそのような状況に鉢合わせた時に使えるのかどうかも怪しい限りなのだが。
それでも、この前のようなことがあれば自分は真っ先に山吹家の家族を、凛や美千留を守らねばいけない。
そんなことを悶々と考えていた時だ。
背後でクラクションが鳴る。先ほどすれ違った中学生に向かって放たれたものだったようだ。彼らは車が通れる道を空けようとめいめい道路の端に散る。
誠一の車だった。
「セイさん!」恵はウィンドグラスを下げる運転席に駆け寄る。
「おう、買い物か? ちょっと急ぎの用事で出てくる」いつもの和服ではなく、ノーネクタイの黒いスーツ姿で“会社”の仕事に出るのだと思われる。
「どこ行くんですか」
「お前にゃ関係ない、家で飯作って待ってろ」まるで亭主関白の旦那のような言いぐさで、サングラスを外しながら眉をひそめた。
「そんなことゆうて、いっつも帰ってこおへんやん!」
「あーめんどくせぇ、七時には戻るって。すぐ終わる用事だ」
「ほなウチも連れてって」
誠一が制止する前に恵は助手席に回りドアを開けていた。「ご飯は帰ってから作るから」助手席に乗り込んで、ついと前を向いたまま誠一に向けて言った。
「まあ、いい。その代わり、仕事が終わるまで車から出るな」
「何や……わからんけど、はい」
誠一の運転する車はほとんど無音のまま外環状を突っ切り市内の方へと向かってゆく。あれ以来誠一が意図して恵を避けていたことは判っている。誠一に戦い方を教えてくれと頼んだきり、今日までその話題は二人の間で交わされていなかったからだ。
車は山の斜面にある石切の街を降り、外環状を横切り恵のかつての生家のある町の、東大阪の方へと向かっていた。
ほんの少し前だし、訪れようと思えばいつでも来れる距離の街だったが、随分懐かしくも感じた。これはもはや自分が山吹家の人間になったからだろうかとも思う。人は身を置く場所で気持ちまで変わる。よく言えば適応、順応、協調、同調。悪く言えば離脱か裏切りか。昔の言葉で言えば脱藩とでも言うのだろうか。
次元転送社会を受け入れ、それを擁護する側へ回る。そう決めたのは恵の中だけの話だ。だがもはや同じ気持ちで商店街に戻れるとは思わなかった。
今の自分が守るべきはもうここにはない。だから思い切って訊こうと思った。
「セイさん、あの話……」
「ああ」
「今度うちであんなことあったら……ウチもそこらの人間くらいやったら大概投げ飛ばしてやれますから」
「ふん、随分自信があるようだが、そいつがどこまで役に立つかはわからんぞ?」
「どういうことですか?」
「合気道っちゃ、人体の構造を前提とした武術だろう? つまりは人間以外――人体と構造を同じにするもの以外には無効ってことだ」
「人を襲うのは人やん。それ以外に何があるゆうんですか?」
「なら、前みたいなオーバードライブが相手でも、か?」
「関節が人ならおんなじですよ!」
「はは、そりゃあ頼もしいな――っと、ついたぞ」
「え、ここになんかあるん?」
見覚えのある景色がつい先ほどからちらちらと見えていたが、着いたのは古びた運送会社の倉庫跡だった。子供の頃によく忍び込んで怒られた記憶がある。もちろんその時は運送会社として機能してトラックが頻繁に出入りしていたが、今は人の気配すらない。
閑散とした敷地内の奥の方から、誠一の仲間だろうかサングラスをかけた黒いスーツの男が二人、こちらに駆け寄ってきた。
彼らは助手席に座る恵を見て一瞬戸惑ったが、誠一の口添えで納得したようで、それ以上構わず、車から距離を置いた。会話を聞かれたくないからだろう。誠一はイヤホンで彼らからの報告を訊いているようで、恵はその内容までは聞き取れない。
「すぐに終わる、待ってろ」といって誠一はドアを開けコンソールの傍らに差していたDOSを掴んだ。それを見て恵が何も思わなかった訳がない。
「また戦うんですか?」という恵に「いや、退治しに行くだけだ」と無表情で誠一は応え、DOSを一文字に口にくわえながらスーツの上着を脱いで恵に投げてよこした。




