戦闘家政婦―次元転送社会 4-5
恵は知らなかったが、この頃ネットの世界では次元転送技術における人体転送の可否、良否について連日、侃侃諤諤の議論がなされていた。
アンダーグラウンドに立脚点を置くサイアス・ミラー博士はネットの世界では大学教授の時代から有名人で、狂気のマッドサイエンティストとして一部の“信者”から多大な支持を受けていた。
その流れからミラーや、次元転送技術に関する事柄についてはネット社会では深い考察がなされており、真贋は別にしても各種の情報には事欠かなかった。
しかしそのような経緯の上でも、次元転送技術は未だ謎を秘めた部分も多く残されており、その問題点を残したまま氏が帰らぬ人となったことは、次元物理科学界においては痛恨の極みと言えた。
その後を継いだのが右腕と言われる東条一郎博士であり、現在国際次元物理科学委員会デフィの委員長の座についている。そしてミラー博士の実娘であるアミリア・ミラーが実質ミラー研究所とその莫大な資産を引き継いだと言われている。
現在、次元転送関連掲示板で最もせわしなく更新が行われている『チャンネルイオタ』日本ではイオタ次元などと呼ばれる掲示板がある。無論ここで言われるイオタというのは掲示板の管理人が、現在ある並行次元帯の名称をギリシア文字で表記するのになぞらえて、でっち上げた架空の名称である。
現在ここでなされる議論は主に『人体転送』に関しての考察であり、あまり知られてはいないが、過去にミラー博士が人体転送の禁止を明言したことがある、という情報が元となっている。
これが現在次元転送法で定められている『生体転送の禁止』と根拠を同じくする物なのかは、氏がその論拠について明言することなくこの世を去ったため永久に謎とされてはいるが“不可能”としなかったのは何らかの氏の思惑があるのではないか、という議論を生んでいる。
しかし、あまねく世界の次元物理科学者の誰一人として、極秘であっても人体転送実験をしたことがないなどと考えるほうが不自然であり、それらの実験結果の成否を異にしてもネット上では“人体転送は行われている” というのが常識となっている。
掲示板の住人とも言うべき常連者の中には、次元転送社会に反抗するテロ組織を擁護する発言を厭わない者もおり、それらの言は真っ向から次元転送社会を“口撃”している。
そのテロリストまがいの組織は“ヴィの種を持つ者達”と呼ばれており、次元転送技術の知られざる部位を隠し持つと言われている。それをもってして、「ヴィは人体転送の秘密を知るが故に消された」あるいは「ヴィ自身が人体転送の被験者となった」あるいは「ヴィは人類の精神統合を目論む世界政府への反抗組織の救世主」などとも呼ばれている。
そのいずれの意見も顔なき公言の上に成り立つ妄想に過ぎないが、このような思想が恣意的にだとしても生まれる素地は十二分にある。
それは、次元物理社会が隆盛を極めるとともに、発展途上国を中心に国境を廃絶するという動きにシフトしていることによる。
各地の紛争が沈静化した十年前から国連を中心として囁かれていたことだが、世界政府を樹立するという人類史上類をみない試みが計画されており、文字通り国家の解体、民族の平等を目指すユニバーサルグローバリスト、“普遍的地球人”というスローガンは、これから宇宙時代に突入する地球という星にとっては、必要なものであった。
無論その統一統合を危惧する者も一定数以上はおり、次元転送技術がその動きを加速させたことで反作用が生まれたという理屈がある。加えて、世界政府樹立を先導するのが国際次元物理科学委員会デフィであることも反発を生んでいる。
国際テロリスト『ヴィ』はその旗手となって一方的に加速する社会に警鐘を鳴らしたのだと好意的に解釈する者も少なくはない。
いずれにしても、現在も『ヴィ』の所在、生死は確認されてはいないが、彼が世界各地のテロリストに送った“何らかの装置”は後に『ヴィ・シード』と呼ばれ、反次元転送社会テログループはほぼ、それを所有しており、壊滅のおりに回収されたそれは極秘扱いとなって、正体は謎のままデフィへと分析に持ち込まれた。
チャンネルイオタでは“住人の性質”からか、不安と閉塞感が蔓延し、自身の不遇を重ねて根拠なき盲目的な希望を見出す発言、すなわちヴィ・シードは世界を元に戻す解放の礎であり、『ヴィ』を英雄視する意見が徐々に盛り上がりを見せてもいた。
「ジュンがさ、言ってたんだけどな。そのヴィ・シードって奴には人間の魂を操る技術が秘められてるんだって。オカルトだろ?」マキタは冗談めかして恵に向かって笑った。
「魔法みたいな話や、アホらしい」
「そうなんだよなぁ。よくよく考えたら次元転送なんて魔法みたいな話なんだよ。俺達にゃあ理解はできないのかもしれないけど、並行次元がなんたらとか……だからと言ってジゲンテンソウとか、訳解らねぇ名前つけてよぉ」
「あれ? マキタんとこって中学校で習った? ウチらのとこは先生もあんまりわからんままやったしまだちゃんとした教科書も出来てへんから、なんか曖昧やねん」
「俺の高校は基礎次元物理科学って授業あるぜ?」
「あ、そうなんや? そういうもんなんかな?」
「俺んちはDFS営業所だからあれだけど、ヴィ・シードのこととかはもっぱらジュンに教えてもらっただけだ。あいつ変な事ばっかり知ってるんだ。だけどまあ、次元転送社会の転覆なんて今やネットオタクの妄言に過ぎないさ、謎の秘宝じゃあるまいし、教科書にも載らないだろう。だいたいヴィ・シードが何なのかも判らないし、その恩恵も実害も俺たちが受けてるって意識もないし、よっ」
マキタは寝転んでいた脚を折り曲げて頭のほうまで倒し、手と首で上体を支え同時に足の旋回反動を使う“首跳ね起き”で立ち上がった。
恵はマキタが満ちてきた水辺に着地したせいで水しぶきを被ったが、その動作の鮮やかさに見とれて文句を言う事も忘れていた。
恵もマキタに続いて立ち上がろうと、左手を砂地に手をついて上体を起こそうとしたその時、掌に冷たいぬるりとした感触と、針で刺したような微細な痛みが走った。
恐る恐る痛む手を見ると、ぱっくりと人差し指と親指の間が縦に切れていた。気づくと同時に塩水が傷口に染みて激痛に変わり、みるみるうちに傷口を押さえる手が血で真っ赤に染まった。
「どうした?」背中を向けていたマキタは振り返ると同時に驚いて、恵に向かってしゃがみ込んだ。
「見せてみろ……っあ、こりゃ深いな――これかよ。あぶねぇな、ガラスだ。……くそっ、ちょっと待ってろ!」そう言ってマキタは頭に巻いていたバンダナを解き、恵の手を取り手の甲に巻き付ける。
「とりあえず止血するからしばらくじっとしてろ」
泣くほど痛い傷でもなかったが、病院に行くべきほどの傷であることは確かだ。マキタはバンダナを巻いた手をとり手首を強く押さえ続けている。
「……なにしてるん?」
「昨日さ、俺たち忍のおじさんに怒られただろ? それでさ、夜テントの中でネットで見て救護措置っての勉強した。最低限その場で自分の力だけでなんとかできるようになろうと思って。危ないことはやめられそうにないからな」と、マキタは笑った。
「ちょっと、どうしたん!?」忍の母がマキタに付き添われた恵の様子を見て駆け寄ってきた。
「うん、浜辺で手ぇ切って。やからちょっと病院行ってきます」一時薄れていたのだが、ここに来て顔に出るほどの痛みがこみ上げてきていた。
「せやけど、お父さんビール飲んでしもてて……」忍の母は困った顔をしてパラソルの下で寝転んでいる足を見やる。
手のひらの縫合ができそうな病院は海水浴場から五キロほど走った町にあり、診療時間外だったが無理を言って対応してもらえた。初老の医師は慣れた手つきで恵の手を取り消毒をして局所麻酔後、直ぐに縫合を始めた。
「ガラスか? これだけ切ったらよおけ血でたやろ? やけど、出血がうまく止まってるわ」恵の視線からは医師が何をしているのかは見えなかった。手がスポンジになったかのような感覚で変な感じがした。
「ええ、友達がすぐに手当てしてくれて……」恵は診療室の外で待つマキタに心の中で感謝した。バイクの後ろにしがみついて痛みをこらえて何も言えないまま病院に飛び込んだから、ちゃんとお礼も言えてなかった。
「ちょっと傷は残るかもしれんで」恵が女性であることを慮っての医師の言葉だった。
この病院で今後の診察を受けることはできないため、医師に紹介状を書いてもらい治療費を支払って病院を出た。
包帯でぐるぐるに巻かれて一回り大きくなった左手は何も掴めそうになかった。バイクのタンデムシートに跨り右腕でマキタの腰をギュッと掴む。がしゃがしゃととドライブチェーンの暴れる音が耳に障ったが、ゆっくり走ってくれているのがよくわかる。
「……どう?」マキタが遠慮がちに訊く。
「どう、って……うん、まだ麻酔効いてるし、大丈夫。ありがとうね。迷惑かけてごめん」
「いいよ、別に……明日には帰るんだろ?」
「うん」
「俺達も、明日出るから……今日でお別れだな」
「……うん」
ジュンに借りたヘルメットの視界からは沈む夕日が見えた。あたり一面を赤々と照らす、朝焼けよりも腫れて膨張した太陽だった。
「みんなもうもどってるかな」
「心配するな。宿まで送ってやるよ」
その言葉通り、マキタのバイクは宿の前でイグニッションを停止させた。タンデムシートから左手をかばいながら滑り降り、ヘルメットに手をかける。しかしマキタがそれを見越して恵の顎紐を外してヘルメットを脱がせようとする。
「うっ、ううーん」ヘルメットごと頭を引き上げられて首が伸びきる恵。「あっ、顎引け!」頬の肉が押しつぶされるようになって頭からヘルメットが外れた。
「いったぁ!」恵は引っかかった耳を押さえてその場にうずくまった。
「んだよ、お前頭でかいんじゃないか?」半ば無理やり恵から脱がせたヘルメットを腕に通しながら、マキタは笑っていた。
「うるさいわ! ジュン君の頭が小さすぎるんや……ホンマにぃ」
「じゃ、俺行くから。みんなにもよろしくな」マキタはアクセルを小刻みに操作し、イグニッションキーを回す。恵は気付いたように慌てて立ち上がり言う。
「……なあ、マキタ君ら明日いつまでおるん?」
「わかんねぇ。出発する時間なんて決めてねぇし……ま、早朝には出てるよ、たぶん」
「そっか」
「またいつか、そうだな――また帰りに大阪に寄れたら会おうぜ!」マキタはキックアームに右足を載せ、もう片方の足を振り上げ振り下ろすと同時にキックアームを踏み込む。その操作は的確で華麗だった。再びエンジンは咆哮を上げ、マキタはシートに跨ると素早くギアを叩き込んだ。
じゃあな! という声が聞こえたかわからないほどの加速で恵の前から走り去ってしまった。その暴れ馬のようなバイクからは相変わらずガシャガシャとチェーンが音を立てていた。




