戦闘家政婦―次元転送社会 3-2
恵は忍と別れ、石切方面へ向かうバスに乗った。
今晩の夕食は誠一の担当だ、それを考えるとさっき食べたコロッケは一気に消化されて、空腹感が襲ってきた。
誠一の作るご飯は本当に美味しいとは思う。長く家政夫をしているだけのことはある。恵も一通りの料理をこなすことはできているが、やはり彼にはかなわない。
誠一の調理は素早く正確で味のブレがない、並行して何品もの調理をこなす。そして無駄も出さない。畢竟、仕事のできる人間とはこういうものかも知れないと思う。
だが、彼の料理はどこか機械的にも思える。有り体に言えば店屋で出される料理のようにも感じる。対して恵が料理を教わった母の料理は一日一日で微妙な変化があった。けして一定ではなく、時に失敗もあった。それに対し父が文句を言ったりして喧嘩になったりもした。
見慣れた街から離れるバスに揺られていると、一体自分はどこへゆくのだろうかという気になる。自分の住まう街はあそこなのに、なぜ、バスに乗っているのだろうか。父や母が恵を育てた街。一生懸命働いていた街。
きっと今でも、父が生きていれば店のシャッターは開きっぱなしで、寒い寒いと言いながらストーブを囲んで、煌々と灯る電灯の下で車仲間たちと談笑しているはずだと思った。
暗闇の中を走るバスの車窓に映る顔、前髪をそっと上げて覗き込む。先日おでこに出来たニキビがまだ治らない。
母を亡くしてから、よく近所の人に「お母さんに似てきた」と言われたことを思い出す。だが恵は言われるたびにそうだろうかと思っていた。どちらかといえば父親似だと言われてきていたからだ。自身でもそう思う。
恵の顔はどちらかといえば造りは五郎に似ていた。長いまつげに切れ長の目、自己主張しすぎない鼻頭に薄い唇。一見すればクールで繊細に見られがちだ。よく言えばおちつきがある。女性としては平均より背が高いこともあって、昔から年上に見られることも多い。
それとは対極に母の紗子は小柄で目が丸く、唇もぽってりとしていて可愛らしい印象の女性だった。今となっては一六七センチの恵が特別背が高いとは思われないが、「お母さんに似ればよかった」などと口にするほど、小学生の恵にとって背の高さと、落ち着きのある容姿はコンプレックスだった。
だが、その切れ長の涼しげな眼の奥の、眼差しは母、紗子のそれであり、恵はそのことにはまだ気付けなかった。目に映らない相似は見かけよりも強く他人に訴えかける。それは気配や雰囲気のようなものだとしてもよいかもしれない。
ふう、と息を吐いて車窓から目を逸らし、首に巻いたマフラーに顎をうずめ、青白いLED照明が点るリニア駆動バスの微振動に体を預けた。
次元転送社会元年とも言われる二〇三〇年当初、次元転送社会が到来すると宣言された時、DFSは一年と待たずに完全普及し、当然運送関係者の全ては転職しDFSオペレーターとなるだろうとデフィは高をくくっていた。
その驕りが、かの『マイアミ事件』を引き寄せたといっても過言ではない。
そう、次元転送社会の生みの親であるサイアス・ミラー博士が殺害された今世紀最悪とも言われるテロ事件だ。
事件を起こした反次元転送社会過激派グループは『カリブ共同戦線』と名乗った。
北アメリカ大陸全土に名を馳せたテロリスト集団で、ちょっとした軍師団レベルの組織力と軍事力を有し、テロ鎮圧の小競り合いが大規模戦闘に発展することも少なくはなかった。
そんな大規模な組織の彼らの中核を形成したのは、アメリカ南西部、キューバ、メキシコで運送業に携わる者達だったという。
カウボーイハットを被り、広大な大地を巨大なコンボイで走り抜けていた血の気の多い若者、キューバ産の葉巻をくわえ、悠々とコンテナ船でメキシコ湾を渡っていた往年の船乗り、宇宙につながる深く広い大空に目を細めながら町から町を目指した女好きの貨物飛行機乗り。
そして街に活気を運んできてくれる彼らを迎える人々、船舶の運航に滞りがないように管理するビール好きの港湾関係者、田舎のガススタンドでいい男が立ち寄らないか、頬杖をついて退屈な顔をし続けた女性アルバイト店員、そんな者達が一斉に次元転送社会に反旗を翻したのだ。
いつも大変で、退屈で、大した稼ぎもないと愚痴をこぼしていた彼らであったが、自身らの仕事には誇りを持っていた。
運送仲間内でニューヨークから最も早くメキシコシティに着けるのは誰かをワイス・ビルの店に置かれている三十年もののウィスキーボトルを賭けて勝負した。
だが、その酒は誰にも酌み交わされることはなかった。
誰も希少なウィスキーボトルが欲しかったわけではない。それがいかに高価で価値のあることかを証明するためではない。
南北アメリカ全土にDFSが普及されるという噂は一瞬にして広がり巨大なデモに発展した。そして巨大なムーブメントは過激派化し、各地の次元物理科学研究所やDFS機器製造メーカーを襲うようになり、やがて『反次元転送社会組織カリブ共同戦線』へと発展した。
彼らは先鋭化し、狂信化をはじめ『ヴィ』という男を象徴として肥大化してゆき、遂にマイアミ事件と呼ばれる、ミラー博士のマイアミ研究所に集まる有能な次元転送技術研究員のほとんどを殺害するという、史上最悪のテロ行為に至った。
だがその後、『ヴィ』は突如として“第一の目的は達成された”という声明とともにカリブ共同戦線を解体し、姿をくらませた。
当局はこれをテロリストの拡散だと見通して各国に警戒を促したが、その後マイアミ事件ほどの大規模襲撃事件はどこにも起こることはなかった。
一説によれば資金源、後援団体、支援組織の中核を担っていた一部の石油事業、運輸事業組織などの力が次元転送社会の加速により力を失い、手先である過激派活動グループを保持し続けることが出来なくなったからだと言われているが、定かではない。
当初、日本国内においても規模は小さいが同じような混乱があった。人が同じく生きている土地ならば他の地域でも同じことである。
早々にDFS業者へと鞍替えをした元運送会社の経営者を元従業員が逆恨みで殺人未遂を起こしたり、自棄を起こしたガソリンスタンドオーナーが自身の店にガソリンをまいて立てこもったり、といった個人レベルのものから次元転送機器メーカーへのサイバー攻撃や、集団投擲行為など各地で小競り合いは今も続いているが、警察組織レベルで押さえられる範囲にとどまっていた。
しかしながらこの忍の家のように一般家庭の住人は、おおむねDFSの導入を歓迎する傾向にあったことは言うまでもない。彼らは連日報道される次元転送社会に反対する人々を冷やかな目で見過ごしていた。
そう、彼らは見過ごしてしまっていた。
『ヴィ』の遺伝子を継ぐ者達がこの日本に巣食い出していることを。
三月を迎え受験の追い込みの間、恵は家政婦業を一時中断していた。これは恵の意思ではなく大輔の命によるものである。
大輔は恵を五郎から保護者として預かっているという自負もあるのだろう、口うるさいというほどではなかったが、門限や夜更かし、遅刻など中学生なりの生活を崩すような行いには容赦なく叱咤を受けた。もし仮にそれを家政婦業の所為にしようものなら即、仕事を取り上げるとまで宣言されていた。
「おい、今朝のテレビ観たか?」教室に入ると男子たちが騒がしくしていた。
「なんや、あんたら朝からうるさいなぁ」そこへ山城忍が割って入る。
忍は女だてらに立場や集団などを気にすることがない。それだけにクラスの全員と仲がよく、特に隔たりも作らないという快活な性格をしていた。恵はその傍らで耳を傾けている。
「UMAやぞ、大阪にもUMAが出現したんやぞ」クラスでは一際情報通の荒木が興奮して唾を飛ばしながら喋る。
「ユーマぁ?」忍はそれを避けながら訊く。
「未確認生物ってやつや、ほらツチノコとかビッグフットとか、妖怪とか怪物の類のことや」体の大きな芦田が付け加える。
「ほんでぇ? 大阪には何が現れたん? 巨大ガニか? 巨大フグか?」
「っ……せぇかい」荒木は忍を指さしながら言った。その説明たるや驚くべき内容である。
「はあっ? かに道楽の蟹が歩いて道頓堀に飛び込んだって? 阪神優勝してもないのに?」忍は荒木の指した指を掴んで避けながら言う。
「あほ、阪神は関係ないやろ!」荒木も負けじと言い返す。
「巨大な蟹が道頓堀川を歩いてたんやって……深夜やったからそれほど目撃者は居なかったらしいけどな、ニュースじゃ酔っぱらいの戯言みたいに言われてるけど」芦田が自信なさげに言葉をすぼめだしている。
「ええ? かに道楽の看板が剥がれて道頓堀に投げ込まれたなんてゆうニュースないで?」恵は横で携帯のWebニュースをチェックした。
「だっからー! かに道楽も道頓堀ダイブも関係ないって、巨大蟹が現れたって話や!」
どうやらかなりローカルな話題らしく、トピックスでもちらと触れただけのニュースだったようだ。八時に起床した忍の朝はそれどころではなく、恵に至っては朝にテレビを観るという習慣もなかった。
荒木や芦田が特別オカルトマニアな訳ではない。このところ、五年ほどの間にわかに未確認生物の目撃例が増えているのは確かで、中にはかなり詳細な情報が含まれていることも多い。
いずれもこれまでと同様に、国家機関や政府がそれについてコメントをするようなこともないが、日本においてもほとんどの各都道府県でこのような未確認生物や未確認飛行物体が目撃されており、それは次元転送技術と何らかの関係があるのではないか、などともささやかれている。
「どっちにしたって、どうせその蟹捕まってへんねやろ?」
「まあ、そうゆうことやわな……」荒木と芦田は互いに顔を見合わせた。
「しょーもなっ! あんたらそんなことばっかり考えてるから幻覚見るねん。受験まであと一週間やで、勉強しぃ!」
「あほか、だから見たんは俺らちゃうっちゅーてるやろ!」
恵は二人の掛け合いに思わず笑みをこぼしていた。
忍はちゃんと人の話を聞きとらない癖がある。これはこれで困ったものだが、この軽い調子の会話が心地いいと思えることもあり、年末から落ち込み気味だった恵は随分助けられていた。




