第1話 夢の底といつもの朝
初めまして。
この作品を見つけてくださり、ありがとうございます。
本作は、片腕の少年・久瀬ちとせを主人公とした、ダークファンタジー作品です。
侵獣と呼ばれる存在に侵食された世界で、家族や仲間との絆、そして自分自身の欠落と向き合いながら、ちとせが成長していく物語です。
初めて書く作品なので、至らない部分もあると思いますが、楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。
何も無い。
どこまでも、何も無い。
上も下も、右も左もわからない。目の前には何もなく、足元に地面があるのかさえわからなかった。
それなのに、僕は確かにそこに立っていた。
ここはどこだろう。
そう考えた瞬間だった。
「――ねえ」
背後から、声がした。
知らない声だった。
僕はゆっくりと振り返る。
そこには、一人の人間が立っていた。
顔は見える。服装も、身体つきも、はっきりとわかる。
なのに、誰なのかがわからない。
初めて見る顔のはずなのに、どこか見覚えがあるような気がした。
誰かに似ている。
でも、それが誰なのかは思い出せなかった。
その人は、僕を見て笑っていた。
まるで、久しぶりに会った友達に向けるような、穏やかな笑顔だった。
「……誰?」
僕が尋ねても、その人は答えなかった。
ただ、笑っていた。
トクン。
トクン。
僕には聞こえないはずの鼓動が、なぜか耳の奥に響いた気がした。
そして――。
次の瞬間、僕の首に手が伸びてきた。
「っ……!?」
息が詰まった。
気づいたときには、僕は首をつかまれていた。
指が食い込む。
苦しい。
何が起きているのか、理解が追いつかなかった。
目の前の人物は、さっきと変わらない笑顔を浮かべていた。
どうして。
さっきまで、あんなに優しそうに笑っていたのに。
どうして、僕の首を絞めているんだ。
「な、なんで……」
声がうまく出ない。
息ができない。
必死に相手の腕をつかむけれど、びくともしなかった。
「ころ……す、の……?」
その人は、僕の目を見つめた。
そして、まるで何でもないことのように答えた。
「大丈夫、どうせ死なないから。」
――え?
力が緩むことはなかった。
むしろ、首をつかむ手に力がこもった気がした。
「何故かって、僕は――」
その人の唇が動く。
けれど、声が聞こえなくなった。
音が消えた。
僕の息遣いも、心臓の音も、何もかも。
暗闇の中で、その人の唇だけが動いていた。
僕は必死に、その言葉を読み取ろうとした。
けれど、わからない。
何を言っているんだ。
何を伝えようとしているんだ。
その人は、最後まで笑っていた。
そして――。
「――起きろー」
聞き慣れた声が、遠くから聞こえた。
「起きな。いつまで寝てんの」
身体が揺さぶられる。
暗闇が、ゆっくりと薄れていく。
僕は勢いよく目を開けた。
「っ、はぁ……!」
肺いっぱいに空気を吸い込む。
心臓がうるさいくらいに脈打っていた。
目の前には、見慣れた天井。
そして、少し呆れた顔で僕を見下ろすお母さんの姿があった。
「……大丈夫か? すごい汗だけど」
「……うん。大丈夫」
そう答えたものの、首にはまだ、誰かの手の感触が残っている気がした。
僕は無意識に、自分の首へ手を伸ばした。
何もない。
当然だ。
夢だったのだから。
「変な夢でも見たの?」
「……わかんない」
僕は首を振った。
あの人は、誰だったんだろう。
どうして僕に似ている気がしたんだろう。
そして、最後に何と言ったんだろう。
思い出そうとするたび、言葉は頭の中から逃げていく。
「じゃあ早くおいでー! パン、私が食べちゃうよ!」
……本当に食べそうだから困る。
僕はベッドから起き上がり、顔を洗ってリビングへ向かった。
窓の外には、東京の街が広がっている。
高層ビル。道路。遠くに見える建物の群れ。
そして、そのあちこちに残る、かつての日常が壊れた痕跡。
2013年。
この部屋も、日本も、何も変わらない。
少なくとも、僕たちの生活はそうだった。
「お、やっと来た。おはよー」
お母さんはテーブルにパンを並べながら、こちらに笑いかけた。
「おはよ」
「ほら、座った座った。早く食べないとお兄ちゃん、もう行っちゃうよ」
「いや、もう準備できてるけど」
玄関の方からお兄ちゃんの声がした。
振り向くと、お兄ちゃんはいつものように準備ていた。
侵獣対策本部。
日本で侵獣と戦う組織の中でも、東京湾に浮かんでる東京の奪還と防衛を担う拠点。
お兄ちゃんは、そこに所属するうちの一人だ。
今日もまた、東京の街へ侵獣を狩りに行く。
「じゃあ今日も生きて帰ってくるよう頑張りマース」
お兄ちゃんは軽い調子で手を振った。
「言い方! もっとこう、絶対帰ってくるから安心しろ、とかないの?」
母さんが笑いながらツッコむ。
「いやー、ほら、俺って嘘つけないタイプだから」
「はいはい。じゃあ帰ってきたらお土産よろしくねー」
「侵獣の死体でも持って帰ればいい?」
「いらんわ!」
お母さんのツッコミが部屋に響く。
僕も思わず笑った。
……いつもの朝だ。
こんな世界になっても、僕たちの家族はこんな感じだった。
「じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃーい。気をつけてね!」
「お兄ちゃん、いってらっしゃい」
お兄ちゃんは僕の頭を軽くぽんと叩き、玄関から出ていった。
扉が閉まる。
その音を聞きながら、俺はパンを口に運んだ。
テーブルの上では、ラジオがいつものようにニュースを流している。
『昨夜の侵獣による被害者数は32名。ここ最近では最多を更新し続けています。東京の周りにお住まいの方、また、東京の中にまだ居る方は、東京から距離を置く、もしくは侵獣対策本部の人に助けてもらうよう心がけてください』
毎日、毎日、同じようなニュース。
被害者の数が増えて、避難を呼びかけて、それで終わり。
僕はパンをかじりながら、ぼんやりと思った。
(……毎回思うことだけどさ)
(東京の中にいる俺らって、普通に戦えるんだけど。こういう場合、どういう扱いになるんだろうな)
避難しろと言われても、俺たちはここに住んでいる。
侵獣がいることも、戦うことも、もう特別なことじゃない。
そんなことを考えていると、お母さんが向かいの席から顔をのぞかせた。
「ねえ、聞いてる?」
「ん?」
「朝ごはん食べたら屋上行くよー!」
「むーん」
パンを口いっぱいに頬張ったまま返事をする。
「はいはい、返事は一人前ねー。ちゃんと飲み込んでからしゃべりなさい」
お母さんは楽しそうに笑った。
僕は慌ててパンを飲み込む。
「……はーい」
今日も、お母さんと屋上で訓練をする。
侵獣がうろつく東京のど真ん中。
そんな場所で、僕たちは今日もいつもどおりの朝を過ごしていた。
僕には、左腕がない。
お母さんが僕を産んだときから、なかったらしい。
「ほら、脇が甘いよ!」
お母さんの声が屋上に響く。
次の瞬間、僕の体は大きく傾いた。
「うわっ!」
なんとか踏ん張ろうとしたが、間に合わない。僕はそのまま地面に転がった。
「はい、一本!」
「いや、今のはずるくない!?」
「えー? どこが? ちゃんと正面から行ったじゃん!」
お母さんは悪びれる様子もなく笑っている。
……絶対、楽しんでるだろ。
僕はため息をつきながら立ち上がった。
物心がついた頃から、左腕がないことは当たり前だった。
けれど、周りの人間にとっては違ったらしい。
子供の頃、お母さんやお兄ちゃんと出かけると、周囲から変な目で見られることがあった。
「なんで腕がないの?」
「かわいそう」
「気持ち悪い」
面と向かって言ってくる奴もいれば、聞こえるように陰口を叩く奴もいた。
お母さんやお兄ちゃんがかばってくれることもあった。
それでも、嫌なものは嫌だった。
なんで僕には左腕がないんだろう。
どうして僕だけ、みんなと違うんだろう。
そんなことを考えていた時期もあった。
「ほらほら、ぼーっとしない!」
「分かってるって!」
母さんの木刀が飛んでくる。
僕は体をひねって避け、そのまま距離を取った。
今はもう、左腕がないことにも、周りから何か言われることにも慣れてしまった。
もちろん、今でも好きなわけじゃない。
ただ、いちいち気にしていたって仕方がない。
そう思えるようになっただけだ。
僕は再び構えた。
お母さんの動きをよく見る。
今度こそ――。
「はい、終わり!」
「えっ?」
気づいたときには、また地面に倒れていた。
「……うそだろ」
「いやー、今日もいい汗かいたね!」
お母さんは額の汗を拭いながら、満足そうに伸びをした。
僕は地面に寝転がったまま、空を見上げる。
十五歳のとき、僕は侵獣対策本部に入ろうとした。
侵獣と戦う組織。
東京を侵食した侵獣から、人々を守るための組織だ。
僕だって、そこに入りたかった。
左腕がなくても戦える。
そう証明したかった。
だから、誰よりも強くなろうと鍛えてきた。
それなのに、入隊を志願した僕に返ってきた言葉は、あまりにもあっけなかった。
『左腕がないから使えない』
たったそれだけ。
僕がどれだけ鍛えてきたかなんて、関係なかった。
左腕がない。
ただそれだけで、僕は必要ないと言われた。
「……ちくしょう」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
「ん? 何か言った?」
「なんでもない」
僕は起き上がり、服についた汚れを払った。
侵獣対策本部には入れなかった。
けれど、侵獣と戦うことまで諦めたわけじゃない。
そのために、僕は今もお母さんと鍛錬を続けている。
……まあ、お母さんには一度も勝てていないんだけど。
「よーし! じゃあ、そろそろ行こっか!」
お母さんが手を叩いた。
「どこに?」
「侵獣狩り!」
まるで近所のコンビニにでも行くような軽い口調だった。
「私、ちょっと狩りに行ってくるから。あんたも行くなら行ってきなよ!」
お母さんはよく、こうやって暇つぶしみたいな感覚で侵獣を狩りに行く。
毎日のように鍛錬をして、そのあと敵を狩りに行く。
……正直、なんでそこまでしているのか、僕にはよく分からない。
お母さんは強い。
それも、異常なくらいに。
それなのに、まだ鍛える必要があるんだろうか。
侵獣を狩ることだって、お母さんにとっては日常の一部みたいなものだ。
うちでは晩飯のときに、その日に倒した侵獣の数を家族で報告し合う習慣がある。
誰が一番多く倒したかを競うのだ。
兄ちゃんも参加するし、俺も参加する。
そしてお母さんは、毎回のように勝つ。
……いや、あれ絶対、家族相手でもガチで勝ちにきてるだろ。
たしかに毎回勝ってるけどさ。
もうちょっと手加減してくれてもいいんじゃないだろうか。
「じゃあ、僕も行こーかな」
僕がそう言うと、お母さんはぱっと顔を輝かせた。
「おっ! じゃあ今日も勝負だな!」
そして、得意げに笑う。
「まあ、今日も私が勝つだろうけど……」
「うぅ……」
腹が立つ。
めちゃくちゃ腹が立つ。
でも、言い返せない。
だって、実際に勝てないんだから。
「よーし! 今日は何匹倒せるかなー!」
お母さんは楽しそうに拳を握った。
僕は小さく息を吐き、母さんの隣に並ぶ。
「……今日こそ勝つからな」
「ん? なんか言った?」
「なんでもない!」
お母さんはケラケラと笑いながら、屋上から出る階段へ向かっていった。
僕もその後を追う。
東京の街には、今日も侵獣がいる。
そして俺たちは、今日もそいつらを狩りに行く。
いつか、お母さんに勝つために。
……まあ、まずは一匹でも多く倒すところからだ。
僕は自分の刀を手に取り、家から少し離れた場所まで歩いてきた。
「早く侵獣出てこねーかなー」
小石を蹴りながら、あてもなく辺りを歩き回る。
侵獣の多くは赤い目をしている。
昼間は比較的大人しいが、夜になると活動が活発になり、強力な個体も現れやすくなる。
だから、昼間の狩りは夜に比べれば危険が少ない。
……まあ、あくまで比較すればの話だけど。
そんな話を思い出しながら歩いていると、廃校になった学校が目に入った。
「ん?」
校舎の中を覗くと、奥のほうに一匹の侵獣がいた。
人間とは似ても似つかない、異形の姿。
赤い目をした、いかにも弱そうな侵獣だった。
「お! 侵獣いたぞ! それにあいつは弱そうだ!」
見た目からしても弱そうだ。
これなら僕でも簡単に倒せそうだ。
「よーし! まずは一匹!」
僕は侵獣に向かって勢いよく飛び出した。
その瞬間だった。
ドゴォンッ!!
爆発したような轟音が、校舎の中に響き渡った。
「……は?」
僕は思わず足を止めた。
目の前で、さっきまで狙っていた蟲級の侵獣が潰されていた。
そいつを潰したのは、僕よりも大きな人型の侵獣だった。
赤い目。
人間と同じような身体。
けれど、その姿からは普通の侵獣とは明らかに違う、異様な圧力が感じられた。
「人の形をした……侵獣!?」
僕は息を呑んだ。
人型の侵獣は知能が高く、人間の言葉を話す個体もいる。
人型の侵獣が昼間に現れるなんて、聞いたことがない。
しかも、たった今、僕が倒そうとしていた侵獣を一瞬で潰した。
……こいつ、何級なんだ?
僕は二十メートルほど離れた場所にいるそいつから、目を離せなかった。
距離があるのに、身体が勝手に警告を発しているようだった。
近づくな。
逃げろ。
本能がそう叫んでいる。
すると、そいつがゆっくりとこちらを向いた。
赤い目が、俺を捉える。
「おいっ、お前」
低い声が、静かな校舎に響いた。
「浩太郎ってやつ……知ってるか?」
「し、知らない……」
僕は正直に答えた。
浩太郎。
誰だ、それ。
聞いたこともない名前だった。
「そうか……」
そいつは小さく呟いた。
そして――。
次の瞬間、姿が消えた。
「うがっっっ!!」
気づいたときには、僕の身体は壁に叩きつけられていた。
「がっ……はっ……!」
肺の中の空気が、一気に押し出される。
何が起きたのか、理解できなかった。
さっきまで、目の前にいたはずなのに。
あいつは――。
人型の侵獣が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
一歩、また一歩。
その足音が、やけに大きく聞こえた。
逃げなきゃいけない。
そう思っているのに、身体がまったく動かない。
全身に激痛が走り、指一本動かすことすらできなかった。
「ぐっ……あ、あぁ……」
視界がぼやけていく。
息をするのも苦しい。
さっき何をされたのかさえ、まだ理解できていなかった。
(やばい……僕……死ぬのか?)
頭の中が真っ白になる。
お母さん。
お兄ちゃん。
もう二度と、二人に会えないのか?
そんな考えが浮かんでは消えていく。
意識が朦朧とする中、侵獣はとうとう俺の目の前までやってきた。
赤い目が、俺を見下ろしている。
そして、そいつは鋭い爪の生えた腕をゆっくりと振り上げた。
避けられない。
防ぐこともできない。
僕は、ただそれを見ていることしかできなかった。
(……ああ、もう無理だ)
僕は諦めた。
その瞬間だった。
スパッ。
何かが切れる音がした。
侵獣が振り下ろそうとしていた腕が、肩口から切り落とされていた。
「……?」
侵獣は何が起きたのかわからないといった様子で、自分の腕を見つめている。
切断された腕が、床に落ちた。
「おい、あんたの相手はこっちよ」
聞き覚えのない女性の声が、校舎の中に響いた。
僕は残された力を振り絞り、ゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、女性だった。
身にまとっているのは、兄ちゃんが着ているものとよく似た服。
侵獣対策本部の人間……なのか?
誰だ、この人。
いつからそこにいたんだ?
侵獣が、ゆっくりと女性のほうへ顔を向ける。
その赤い目が、今度は彼女を捉えた。
女性は怯むことなく、侵獣と向き合っていた。
その姿を見届けたところで、僕の意識は途切れた。




