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Dream&どりーむ

作者: いすぱる
掲載日:2026/10/12


『Dream&どりーむ』を見つけてくださり、ありがとうございます。


 まずはこの本編の物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。

 読了後は、ぜひスピンオフの『喫茶アンコール~もうひとつのドリーム』にも遊びに来てくださいね。


 

『Dream&どりーむ』



 駅前から延びる商店街は、昼間だというのに人影がまばらだった。


 古びた店舗兼住宅が軒を連ね、半分以上の店がシャッターを下ろしている。一本路地に入れば、窓をベニヤ板で塞いだ空き家や、雑草に覆われた家が目立った。


 そんな町にも、工場の音だけは絶えなかった。


 錆びたトタン屋根の下で、油に汚れた作業着の男たちが金属を打っている。狭い路地には、出入りするトラックの排気音が響いていた。


 さらに奥まった路地には、潰れた段ボール箱や空き缶が散らばり、壁には落書きが幾重にも重なっていた。


 その路地の奥から、男たちの言い争う声が聞こえてきた。


「もういっぺん言ってみろよ」


 そう口にした若い男は、表情ひとつ変えず相手の目を見据えた。


「何度も言ってやるよ」


 相手はにやけた表情で、わずかに顎を上げた。


「とっとと死ね、やぁ!」


 その言葉と同時に、相手の拳が飛んだ。


 若い男は顔を殴られ、よろめきながらも殴り返した。相手も負けじと掴みかかり、二人は狭い路地でもみ合った。


 若い男が相手の髪の毛を掴み、背後の壁に叩きつけた。


 ゴン! ゴン!


 鈍い音が路地に響く。


 男は構わず相手の頭を叩きつけ続けた。


 その時。


「はーい、誰?」


 間の抜けた声とともに、背後の扉が開いた。


 男が相手の頭を叩きつけたのは、壁ではなく古い喫茶店の裏口だった。どうやら家人は、ノックされたものと勘違いしていた。


 顔を覗かせた年配の女性は、二人を見て言った。


「あら、なんだ。喧嘩かい。ったく、よそでやりな!」


 女性は驚く様子もなく、強く扉を閉めて鍵をかけた。


 若い男は相手の頭を両手で押さえつけ、力任せに引き下げた。


 上体がくの字に折れたところへ、立て続けに膝を突き上げる。


 その一撃一撃が容赦なく相手の顔面を捉えた。


 やがて男は抵抗する力を失い、その場に崩れ落ちた。


「はっ!? よっわ」


 そのとき。


 チリリーン。


 通りの向こうを行き交う自転車のベルが聞こえた。


 この街は、喧嘩ごときでは、誰も騒がない。


 ましてや、駆けつける者もいない。


 若い男は、痛みの残る拳に目を落とした。


 何かを確かめるわけではない。ただ、いつの間にか身についた癖だった。


 その手をズボンのポケットに突っ込み、大通りへと歩き出した。


 この通りはダンプカーの往来が多く、車道は大型車同士が余裕をもってすれ違えるほど広く取られていた。そのしわ寄せで、歩道は人ひとりがやっと通れるほどの狭さだった。

 

 その狭い歩道を、喧嘩を終えたばかりの若い男が歩いていた。


 長身で均整の取れた体格をしており、この街ではチンピラとして名が知れていた。その姿を見ただけで身構える者も少なくなかった。


 向かいから歩いてくる人々は、その姿に気づくと、黙って道を譲った。


 中には、走ってくるトラックを気にしながら、車道にまで身をかわす者もいた。


 それが、この若い男にとっては当たり前の日常だった。


 そのとき、ひときわ大きなエンジン音が響いた。


 男は思わず車道に目を向けた。


 磨き上げられた大型トラックが、陽の光を車体に反射させながら走っていく。


 男は口元にかすかな笑みを浮かべ、その姿が見えなくなるまで目で追っていた。


 男が再び正面に目を戻したとき、向こうから見知らぬ人物が歩いてきていた。


 その人物は、明るい茶色の髪に、サングラス。白いシャツの上に鮮やかな青いジャケットを羽織り、袖を肘までまくり上げている。


 黒い細身のパンツに、足元は黒のブーツ。片手には小さなバッグを提げていた。


 背筋を伸ばし、長い脚を大きく踏み出しながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。


 へっ! なんだあの派手な恰好。

 この辺りじゃ、見たことねー奴だな……


 若い男は口元に不敵な笑みを浮かべた。


 どうせ、俺に気づいた途端、慌てて車道に飛び出すんだろう。


 二人の距離が縮まっていく。


 十メートル。


 五メートル。


 しかし、相手は一向に道を譲る気配がない。


 それどころか、こちらを気に留める様子すらなく、悠然と歩いてくる。


 こ、こいつ……


 若い男の笑みが消えた。


 あと三歩。


 二歩。


 一歩。


 その瞬間、すぐ脇で大きなクラクションが鳴り響いた。


 若い男は我に返った。


 すぐ隣を、大型トラックが轟音とともに通り過ぎていく。


 歩道から車道へ身をかわしていたのは、自分だった。


 あの狭い歩道を、見知らぬ人物は何事もなかったように通り過ぎていった。


 若い男は、ダンプカーが行き交う車道から、その後ろ姿を呆然と見つめていた。



 翌日。


 若い男は、昨日と同じ時刻に、同じ通りに立っていた。


 昨晩は、ほとんど眠れなかった。


 目を閉じるたびに、あの光景が浮かんでくる。


 青いジャケット。サングラス。そして、何のためらいもなく歩いてくる、あの姿。


 どうして…… どうして俺が避けた?


 相手に腹が立った。だが、それ以上に腹立たしかったのは、無意識に道を譲ってしまった自分自身だった。


  若い男は電柱にもたれかかり、腕を組んで通りを眺めていた。


 その姿に気づいた人々は、足早に脇を通り過ぎていく。


 中には、わざわざ車道を横断し、反対側の歩道へ渡る者もいた。


 だが、男はそんなことには目もくれなかった。


 昨日、自分に道を譲らせた、あの見知らぬ男が現れるのを、ただ待っていた。


 

 数時間が過ぎた頃だった。


 昨日と同じ方角から、あの男が歩いてきた。


 青いジャケットに、黒い細身のパンツ。サングラスまで昨日と同じだった。


 ふっ……


 待ち望んでいた相手の姿に、若い男は思わず笑みを浮かべた。


 電柱から背を離すと、ゆっくりと歩き出し、狭い歩道の真ん中に立ちはだかった。


 二人の距離が縮まる。


 しかし、あの男は歩調を緩めることもなく、ひょいと車道へ降りた。


 そのまま若い男の脇を通り過ぎると、何事もなかったように、ひょうひょうと歩道へ戻っていった。


 まるで、道に落ちていた石でも避けたかのようだった。振り返る素振りもみせない。


 若い男はあっけにとられ、しばらくその後ろ姿を見つめていた。


 このままでは、昨日と何も変わらない。


 そう思った瞬間、声が出ていた。


「おい!」


 しかし、相手は振り返ることもなく、歩き続ける。


 あの野郎!

 無視しやがってよ……


 若い男の声が荒くなる。


「おい! 呼んでんだろうがよ!」


 それでも、相手は歩き続ける。


「いい加減にしろよ、こらぁ!」


 若い男は追いかけると、相手の肩を乱暴につかんだ。


 あ…… あれ?


 その瞬間、今までに感じたことのない違和感を覚えた。


 肩をつかまれた人物が振り返る。


「はい? 私に何かご用ですか?」


「ああ、テメーに…… ご用……」


 言いかけた言葉が、止まってしまった。


「そ、その声……」


「あ、はい。何でございましょうか?」


 若い男は口を開けたまま、しばらく呆然としていた。


「お…… お前……」


「はい?」


「もっ、もしかして……」


「はい?」


「おっ…… 女か?」


 その問いかけに、相手の目がぱっと輝いた。


「えーっ!? 私のこと、男だと思ってくれてたんですか!?」


 その人物は、ダンプカーが行き交う道路脇の狭い歩道で、ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねていた。



 その数分後。


 若い男はなぜか、この男みたいな女に半ば強引に誘われ、近くの喫茶店にいた。


 向かいに座った女性は、ゆっくりと店内を見渡し、壁に掛けられた古い時計にしばらく目を留めていた。


「あんた! 昨日はよくもやってくれたね!」


 注文を取りに来た女主人が、若い男を睨みつけた。


「なにがだよ?」


「裏口のドア! あんたのせいでへこんでたんだよ! 弁償しな!」


「はっ。うるせぇババア!」


 その瞬間、向かいに座っていた女性が、ぱっと顔を輝かせた。


「もう一度!」


 突然の声に、若い男と女主人は同時に女性を見た。


 女性はすっと人差し指を立てた。


「今のうるせぇババア! っていうの、もう一度お願いします!」


 身を乗り出し、期待に満ちた目で男を見つめている。


「お…… お前、何言ってんだ?」


「お願いです! もう一回だけ!」


「頭おかしいのかテメー!? 変な格好してるしよー!」


「あ! 少し待ってください!」


 女性は慌ててバッグから小さな手帳を取り出した。


「お願いします!」


「なんだよ、その手帳……」


「そうだ! 何か食べたいものありませんか?」


「……は?」


「何でもいいですよ!」


 若い男は、ちらりとテーブルに置かれているメニューに目をやった。


「……カ、カレー」


「奢ります!」


 女性は嬉しそうに身を乗り出した。


「ですから、もう一度さっきの!」


「……はぁ?」


「うるせぇババア! を、お願いします!」


 若い男は、注文を取ろうとそばに立っている女主人に、ゆっくりと目を向けた。


 若い男を見つめる女主人は、どうぞと言わんばかりに首を傾げた。


 向かいの女性は、一瞬たりとも見逃すまいと、じっと見つめている。


 しばらくの間、沈黙が流れた。


 そして……


「……う、うるせぇババァ」


 その瞬間。


 女性のがっかりした声が、店内に響いた。


「あー、もうー、わざとらしい……」


 若い男と女主人は、そろって目を見開き、女性を見た。


「ぜんぜん駄目です」


「なっ…… なんなんだよお前は? 言えっていうから言ったら、今度は駄目だ? 意味わかんねーよ!」


「あーあ、残念……」


 女性は手帳を持ったまま、がっくりと肩を落とした。


「で、注文は?」


 女主人は、水の載せて来たお盆を片手に、二人の注文を待っていた。


「あ、すみません。私は温かい紅茶を。この方にはカレーライスをお願いします」


 ほどなくして、テーブルにカレーライスと紅茶が運ばれてきた。


 若い男はスプーンを手に取り、カレーをすくおうとした。


 その瞬間、ふと視線を感じ、ゆっくりと顔を上げた。


 向かいの女性が、手帳を片手にこちらを見つめていた。


 目が合うと、女性はにっこりと微笑んだ。


「どうぞ。お気になさらずに」


「いや…… 食いづれぇよ」


「いえ、お気になさらず。どうぞ、召し上がってください」


 若い男が無言でスプーンを止めたまま見つめると、女性はようやく諦めた。


「すみません」


 女性は手帳とペンを置き、紅茶の入ったカップを手にした。


 それを確認すると、若い男はカレーをすくい、口へ運んだ。


「うっ!」


 若い男の表情が歪んだ。


「ババァ! なんだこの不味いカレーは!?」


「うるさいね!」


「どうやったらカレーをこんなに不味く出来るんだよ!」


「文句あるなら帰りな!」


 次の瞬間。


 女性が慌てて紅茶のカップを置いた。


 ガチャカチャ!


 すかさず手帳とペンに手を伸ばす。


「今のをもう一度!」


 女性の目が輝いた。


「ババァ! なんだこの不味いカレー! っていうの、もう一度お願いします!」


 若い男と女主人は、また同時に女性を見た。


 だが、今度は二人とも無表情だった。


 十分後。


 不味いカレーを食べ終えた若い男は、視線を落として食後のコーヒーを飲んでいた。


「ふー。やっとコーヒーのおかげで口の中がましになってきた」


 そんなに不味かったのなら、残せばよかったのに……


 女性は若い男をじっと見つめていた。


 その視線に気づいた若い男は、コーヒーカップをゆっくりと置いた。


「で……」


「はい。なんでしょうか?」


 若い男は女性に目を向けた。


「あんた、いったい何なの?」


「と、申しますと?」


「いや…… そんな男みたいな格好してさ、俺を無理やりこんな小汚い場所に連れてきてさ」


 小汚いねぇ…… ドアの弁償代、ふっかけてやろうかしら。


 厨房では、女主人がタバコをふかしながら二人の様子を眺めていた。


 女性は質問に答えるどころか、嬉しそうに手帳へ何かを書き込んでいる。


「はぁー……」


 男がため息をつくと、女性はまた表情を輝かせ、ペンを走らせた。


「お前、いい加減にしろよ!」


「え?」


「俺が色々聞いてんだろ! なのに、ニヤニヤしながら何書いてんだ!」


 声を荒らげる男を前にしても、女性の笑みは深まるばかりだった。


 それどころか、ペンを動かす手がますます速くなっていく。


「サングラスぐらい取れよ! 室内だぞここは!」


「あ、そうですね」


 女性はやっとサングラスを外した。


 若い男が呆れていると、女主人が空になったグラスに水を注ぎ足しにやってきた。


 水を注ぎながら、ふと女性の顔に目を留めた。


「……あんた、もしかして四丁目の柏木さんとこの娘じゃないかい?」


 女性のペンがぴたりと止まった。


「はい、そうですけど……」


「やっぱり。その瞳! 変わってないねぇ。大きくなっちゃって」


「えっ! 私のこと、覚えていてくださったのですか?」


「申し訳ないね。今やっと気づいたよ。小さい頃、お母さんとよく来てくれてたよね」


 女性は懐かしそうに微笑んだ。


 若い男は二人の顔を交互に見た。


「……なんだよ。知り合いかよ」


 女主人は答えず、懐かしそうに女性の顔を見つめていた。


「凪沙(なぎさ)ちゃんだったね?」


「はい!」


 女主人は、さらに何かを思い出した。


「そういや、あんた確か宝塚に……」


「はい。今、宝塚歌劇団に所属しています」


「やっぱり! 噂で聞いてたよ!」


 その言葉に、若い男が顔を上げた。


「……宝塚過激団(・・・)。なんだそれ? どっかの族か?」


 ここでも、若い男の問いには答えず二人で話を進める。


「それでそういう格好をしてるんだねぇ。もう、素敵よ凪沙ちゃん」


「ありがとうございます」


「なんだよ、なんだよ。意味わかんねーけど」


 女主人は男の言葉など気にも留めず、女性に尋ねた。


「それで、名は何て言うんだい?」


「凪沙だろ! さっき自分で名前呼んでただろ、ババァ」


「白凪(しらなぎ)玲央(れお)と申します」


「はぁー? なんだそのキラキラネームは!?」

 

 女主人と凪沙は、同時に若い男を見た。


 凪沙は不思議そうに首を傾げた。


「そういえば、あなたのお名前は?」


「……」


 若い男は途端に困った顔になり、目をそらした。


「……別に、どうでもいいだろ」


「あら、凪沙ちゃん知らないの?」


 女主人が口を挟んだ。


「この子、天城(あまぎ)麗翔(れいと)っていうんだよ」


「バッ、ババァ!!」


 凪沙の目が輝いた。


「……あまぎれいと!?」


「うるせぇ! フルネームで呼ぶな!」


 女主人は凪沙の手帳を引き寄せると、さらさらと名前を書き込んだ。


「ほら、こう書くんだよ」


「バ、ババァ! 何書いてんだよ!」


 凪沙は手帳を覗き込み、目を輝かせた。


「まあ! 漢字まで素敵!」


「おい! 消せ! 今すぐ消せ!」


「私よりずっと宝塚らしいお名前じゃないですか!」


「意味わかんねーし! と、とにかく、名前の話はおしまい!」


 なんで漢字まで知ってんだこのババァ……


「どうしてですか? 良いお名前じゃないですか!」


「おしまいだっつってんだろ!」


 ドン! 


 麗翔がテーブルを叩いた音が、店内に響いた。




 その後、麗翔は凪沙から宝塚歌劇団について、一通り説明を受けた。

   

「ふーん。だからあんた、そんな男みたいな格好してんのか」


「はい。男役ですから」


 麗翔はふとテーブルの下を覗き込んだ。


 凪沙の足元には、かなり高いヒールのついた黒いブーツがあった。


 麗翔は納得したように頷き、改めて凪沙の姿を眺めた。


「へぇ…… 女が男を演じるのか。変わってんな」


「変わってますか?」


「だってそうだろ。男ならそこら中にいるじゃねえか」


 凪沙はくすりと笑った。


「でも、私たちが目指しているのは、ただの男性じゃないんです」


「……は?」


「女性が憧れる、理想の男性です」


「……どういうことだよ?」


「例えば、優しくて、頼りがいがあって、立ち居振る舞いが素敵で…… 女性が、こんな男性がいたらいいなって思うような人です」


「だったら、本物の男でいいじゃねえか」


「それを女性が演じるからこそ、表現できる理想の男性像があるんです」


「……なるほど。いや、やっぱりよくわかんねえ」


 麗翔はしばらく凪沙を見つめた。


 そして、思ったことを口にしてしまう。


「けど、そんなかっこうしてても、こうやって話してみると女性って感じが出てるよな」

 

 その言葉を聞いた瞬間、凪沙の笑顔が消えた。


「……」


 手にしていた手帳とペンを、テーブルに置いた。


「……そう、ですか」


 凪沙はうつむいた。


「やっぱり…… まだまだなんですね、私……」


「あ? 何が?」


「男役として、全然駄目なんです……」


 さっきまで嬉しそうに書き込んでいた手帳を、ぱたりと閉じた。


「舞台の上だけじゃなくて、普段から自然に男役として振る舞えるようにならないといけないのに……」


 凪沙は小さくため息をついた。


「……情けないです」


 そのまま肩を落とし、黙り込んでしまった。


 麗翔は困惑した。


「……おい、そんな落ち込むことかよ」


 返事はなかった。


 まいったな。褒めたつもりだったんだけど……

 

 麗翔は頭をかきながら、うつむいた凪沙を見た。


「いや、だからさ……」


 凪沙は顔を上げない。


「……なんつーか、外でも言ったけど、最初は本当に男だと思ったんだぜ?」


 凪沙が、ちらりと麗翔を見た。


「だから俺、今日。お前に喧嘩を売ってボコってやろうと思って……」


 麗翔も凪沙をちらりと見た。


「それに、お前昨日覚えてないのかよ?」


「え? 昨日?」


「ああ。さっき会った歩道。お前昨日も同じ格好で歩いてただろ?」


「ええ。稽古のつもりで歩いてました。昨日お会いしました?」


「……」


 麗翔はがっくりと肩を落とした。


 俺が一晩中悔しがってたってのに、こいつ、覚えてもいねえのかよ……


 しばらく黙っていた麗翔は、うつむいたままの凪沙に目をやった。


「……あのさ」


「はい?」


「昨日、お前とすれ違ったとき……」


 麗翔は言いかけて、口をつぐんだ。


「俺、気づいたら道を譲ってたんだよ」


「……え?」


「自分でもわかんねえんだ。なんで避けたのか」


 麗翔は気まずそうに視線をそらした。


「たぶん…… なんつーか、オーラみたいなもんを感じたんだと思う」


 凪沙が顔を上げた。


「私に…… オーラ?」


「ああ。なんか、普通の男とは違うっつーか……」


 まぁ、違うよな。本当は女なんだから……


 麗翔は頭をかいた。


「だからさ、そんな落ち込むことねえんじゃねえの?」


「……」


 凪沙は麗翔をじっと見つめていた。


 その手には、いつの間にか手帳とペンが握られていた。


「今の!」


「……は?」


「今の、頭をかいた仕草! 最初からもう一度お願いします!」


「……」


 麗翔は頭に当てた手を、指を広げたままぴたりと止め、凪沙を黙って見つめた。


 恥を忍んで話したってのに……

 この野郎……


 麗翔はもう、何も言う気になれなかった。

 


  

「あの、天城さん」


「あ?」


「私、休暇で帰ってきているので、まだしばらくこの街にいるんです」


「へぇ、そうかよ」


「それで、お願いがあるんですけど……」


「なんだよ」


「その間、できれば私と一緒にいていただけませんか?」


「はぁ!? なんで俺が!」


「もっと天城さんのことを勉強したいんです!」


「勉強ってなんだよ!?」


「言葉使いは参考になりませんが」


 ほっとけ……


「あなたの仕草や立ち振る舞いには、自然な男らしさがあるんです!」


「ああ?」


「私の理想とするものに近い気がするんです! 是非それを、学びたいんです!」


「あのなぁ、俺だって暇じゃねえんだよ!」


「お仕事ですか?」


「いや、その……」


「どのようなお仕事を?」


 凪沙は手帳とペンを構え、期待に満ちた目で答えを待っていた。


「む、無職だけど」


「……」


「……」


「では、お時間はありますよね?」


「まぁ…… あるっちゃあるけどさ……」


 無職で無いとは言えないわな……


「是非、お願いします!」


 凪沙はすっと背筋を伸ばし、姿勢を崩さないまま、優雅に頭を下げた。


 麗翔は、その妙に洗練されたお辞儀を黙って見つめていた。


 すると、ふと昨日の出来事が頭をよぎった。


 どうして俺は、こんな男女に道を譲ったんだ?

 さっきはこいつを慰めるために適当に言ってみたけどよ、本当のところ、いまだにその理由がわからない。


「……」 


 もう少し一緒にいれば、何かわかるかもしれないな……


「……まあ、いいけどよ」


「えっ! 本当ですか!?」


「ああ」


「ありがとうございます! カレーのお替りしますか? もちろん奢ります!」


「……いらねぇ」


 厨房では、女主人がタバコを片手に、二人のやり取りを眺めていた。


 その口元には、いつの間にか小さな笑みが浮かんでいた。




 家に帰った凪沙は、まず男物の服を脱ぎ、普段着に着替えた。

 

 と、いっても。スカートではない。それもズボンだった。


 脱いだ服の皺を一つひとつ丁寧に伸ばし、形を整えると、ハンガーに掛けた。少し離れて眺め、襟元をもう一度直してから、大切そうにクローゼットへしまった。


 そして、鞄から手帳を取り出すと、仏壇の前に座った。


 手帳をそっと仏壇に置き、静かに手を合わせる。


「ただいま、お母さん」


 凪沙は遺影を見つめ、微笑んだ。


「今日ね、おもしろい人を見つけたよ」


 そう言って、仏壇に置いた手帳を開いた。


 そこには、喫茶店の女主人が書いてくれた名前があった。


『天城麗翔』


「この人ね、私が求めていた仕草を、自然とする人なの。この人のことをたくさんメモしてきたんだ」


 凪沙は麗翔の名前をしばらく眺めてから、遺影に目を向けた。


「お母さんも、読んでみてね」


 そう言って、もう一度小さく微笑んだ。




 それからしばらくして、麗翔もようやく家に帰り着いていた。


 凪沙の実家がある地区からは、ずいぶん離れた場所だった。


 麗翔は玄関の戸を開け、家の中へ入った。


 家には誰もいなかった。


 居間に置かれた仏壇にちらりと目を向け、麗翔は小さく呟いた。


「ただいま……」


 返事はない。


 しかし、奥のキッチンから一匹の三毛猫が姿を現した。


「おっ、今日はいたか?」


 麗翔はそう言うと、三毛猫を抱き上げた。


「ん?」


 ふと、猫の耳のあたりに血がにじんでいるのに気づいた。


「あーあ、怪我してんじゃねえか」


 麗翔は猫の顔を覗き込んだ。


「また喧嘩か? ん?」


 三毛猫は答える代わりに、小さく鳴いた。


「ミャー」


「お前は三毛なのにオスって珍しいタイプだからな」


「ミャー」


「メスにモテるし、嫉妬されてるんだろうな。用心しろよ」


 そう言って、麗翔は傷口にそっとガーゼを当てた。


 手当てを終えると、三毛猫を静かに床へ下ろした。


「エサあげるからな、ちょっと待ってろ」


 三毛猫の餌をやり終えると、居間へ向かい、仏壇の前に座った。


 しばらく遺影を見つめてから、静かに手を合わせた。




 翌日。


 約束の時間が近づいていた。


 凪沙は喫茶店の前で、麗翔が来るのを待っていた。


「遅いなぁ……」


 そう呟いて時計に目をやった。


 もっとも、約束の時間まではまだ少しある。


 宝塚で厳しい時間管理を身につけた凪沙にとって、遅刻など考えられないことだった。


 そのとき、遠くからバイクのエンジン音が聞こえてきた。


 それは、今では希少となった規制前のRPMマフラーが奏でる、独特の排気音だった。


 もちろん、凪沙がそんなことを知るはずもない。


 その音は次第に大きくなり、こちらへ近づいてきた。


 やがて一台のバイクが姿を現し、喫茶店の駐車場へ滑り込むように入ってきた。


 バイクが止まって、エンジンを切った。


 麗翔はバイクにまたがったまま、左足でサイドスタンドを蹴り出した。


 車体をゆっくりと傾け、スタンドが地面についたのを確かめると、長い脚を軽々と振り上げてバイクから降りた。


 ……わぁ。


 凪沙は、思わず心で呟いた。


 そしてヘルメットを脱ぐと、軽く頭を振り、乱れた髪を無造作に整えた。


 その一連の動きを見つめていた凪沙は、すでに手帳を開いていた。


 ペンが猛烈な勢いで紙の上を走る。


 バイクから降りる足の運び、ヘルメットを脱ぐ手の動き、何気なく髪をかき上げる仕草。


 凪沙はそのすべてを、夢中で書き留めていた。


 さっそくかよ……


 麗翔も、そんな凪沙を見て心の中で呟いた。


「かっこいいですね、このバイク」


「お、ありがとう」


「なんてバイクなんですか?」


「カワサキ、FX400」


「へぇー。ずいぶん古そうですね」


「そうだな。1981年製かな、これは」


「そんなに古いんですね」


 凪沙はFXと麗翔を交互に見ながら、何か言いたそうにしていた。


 その様子に気づいた麗翔が、先に口を開いた。


「なんだよ?」


「あ、あのー、大変恐縮ですけど……」


「うん?」


「あのー、そのー……」


「なんだよ? はっきり言えよ」


「すみません。そのー、お高いんですか?」


「まさか…… 買う気か?」


「いえ、あの…… あなたとこのバイクが、とても絵になっていたので……」


「で?」


「出来れば、真似してみたいなって……」


 麗翔は、くすりと笑った。


「うーん、まぁそうだな。新車で40万ちょっとぐらいかな」


「新車が40万円ですか?」


 けっこうするんですね、バイクって……


「そうだよ。当時はな」


「あっ。じゃあ今は、中古でもっとお安いんですね」


「ああ。だいたい、500万くらいさ」


 凪沙は目を大きく見開き、口を半開きにしたまま一瞬固まった。


「……え? ご、500……」


 いったい、どうやってそんな大金を……


 驚く凪沙を残して、麗翔は店の中に入っていった。


 ヘルメットを手に歩いていく麗翔の後ろ姿を見て、我に返った凪沙は、すぐさま手帳を開いた。


 喫茶店に入った麗翔は、店内をぐるりと見渡した。


「なんだよ。また客がいねえのかよ!」


「ちょっと、天城さん。失礼ですよ」


 追いかけてきた凪沙が、慌ててたしなめた。


「事実だろ?」


「そういう問題じゃありません!」


 麗翔は肩をすくめ、昨日と同じ席へ向かった。


「また今日も奢ってくれるの?」


「はい。もちろんです。私がお願いして来ていただいてるので」


「じゃあ、遠慮なく」


 麗翔は、店の奥に向かって声を上げた。


「おーい、ババァ。早く注文取りにこいよ」


 厨房の奥から、女主人の声が聞こえた。


「いちいちうるさいね。今いくよ!」


 麗翔は、その間にメニューを見始めた。


 女主人が、ぶっきらぼうに水をテーブルにおいた。


「で、何にするんだい?」


「私は昨日と同じで、温かい紅茶をお願いします」   


 その注文を聞いて、女主人は小さく微笑んだ。


「あんたは?」


「うーん。サンドウィッチとコーヒーくれ」


 すると、女主人は短く即答した。


「ないね」


 その言葉を聞いて、麗翔は顔を上げた。


「はぁ? メニューに書いてんじゃん!」


「書いててもないもんはないんだよ」


「チッ!」


 麗翔は舌打ちをして、再びメニューを見た。


「あーあー。じゃあ…… オムライスでいいよ」


 女主人は、再び即答した。


「卵がない」


「じゃあ、おむすび!」


「具と海苔がない!」


「トースト!」


「カビが生えてた!」


「ピザ!」


「買い忘れた!」


「ナポリタン!」


「めんどい!」


「ちょっと待て! なんだよ、めんどいって!?」


「めんどいものはめんどいんだよ!」


 凪沙はうつむいたまま、二人のやり取りに必死で笑いをこらえていた。


 しかし、その肩は小刻みに震えていた。


 やがて言い争う声が途切れ、凪沙がそっと顔を上げると、二人がじっとこちらを見ていた。


「コ、コホン」


 凪沙は慌てて咳払いをした。


 そして、何事もなかったかのように口を開いた。


「……あ、あのー。何か、飲み物を注文なさっては……」


 精いっぱい上品に取り繕った。


「あー、腹減ってんだよ俺」


 そういうと、女主人が口を開いた。


「カレーならあるよ」


「カッ、カレーだぁ? チッ!」


 麗翔は、また舌打ちをした。


 そして、しばらくメニューとにらめっこしたあと、諦めたように呟いた。


「……カレーでいいよ」


「あいよ」


 女主人はお盆を手にしたまま、厨房へ下がっていった。


「なんでカレーしかないんだよ。いったい何屋だここ……」


 頭を抱えていた麗翔が、ちらりと凪沙を見ると、彼女は手帳を開いて何やら書き留めていた。


 ……帰ろうかな。


「あいよ。カレーおまち」


 なんだその言い方。本当に何屋だよ。


 麗翔は、カレーを口に運んだ。


 ……やっぱまっず。 




 カレーをようやく食べ終えた麗翔は、コーヒーを一口飲んだ。


 しかしよー。


 どうして俺は、こんな奴に道を譲っちまったんだ……


 目の前では、凪沙が相変わらず手帳を開いていた。


「なあ、お前」


「はい?」


「いつから男役やってんだ?」


「えっ?」


 突然の質問に、凪沙は少し照れくさそうに笑った。


「宝塚歌劇団に入ってからですから、3年になりますね」


「ふーん……」


 女主人も、二人の話に耳を傾けていた。


 麗翔はしばらく考え込んでから、再び口を開いた。


「お前、芸能人なんだよな?」


「いえ、私は宝塚歌劇団の生徒です」


「せ、生徒?」


「あ、すみません。劇団員のことは生徒と呼ばれてまして」


「どうでもいいよ。それよりもよ」


「……はい?」


「その男役ってやつ、ちょっと見せてくれねえか?」


 凪沙は目を丸くした。


「えっ!? ここで、ですか?」


「ああ」


「それは、ちょっと……」


 凪沙は、困ったように俯いた。


 すると、女主人が口を開いた。


「いいじゃないか。あたしも凪沙ちゃんの演技を見てみたいねえ」


「おばさままで……」


「よかったら、冥土の土産に見せてくれないかい?」


「そんな、縁起でもないことを……」


「ほら、早く見せてやれよ。ババァは今すぐにでも死ぬかもしれないぞ」


「死にゃしないさ! ……いや、そうかもね」


 凪沙はしばらく迷っていたが、やがて小さく頷いた。


「……わかりました」


 凪沙が席を立ち、少し離れた場所へ歩いていくと、女主人も突然立ち上がった。


 そして、壁際にある照明のスイッチをいじり始めた。


 カチッ、カチッ。


 店内の照明が次々と消えていく。


 やがて、凪沙の立つ場所だけを、小さなライトが照らしていた。


 麗翔はその光景を呆然と見つめた。


 ババァ…… のりのりじゃねーか。


 女主人は何食わぬ顔で席に戻った。


 凪沙は二人に背を向け、しばらく目を閉じた。


 小さく息を吸い、唇を閉じたまま「んー」と低く声を響かせる。


 続いて「あ、え、い、う、え、お、あ、お」と、口を大きく動かしながら、短く発声を確かめた。


 その様子を見ていた女主人は、くわえていた煙草を口から離すと、灰皿に押しつけて火を消した。


 凪沙は一度深く息を吸い、静かに吐き出すと、目を閉じた。


 やがて、ゆっくりと振り返る。


 その瞬間、麗翔は思わず背筋を伸ばした。


 凪沙はすっと背筋を伸ばし、片手を胸元に添えると、優雅に頭を下げた。


「お待たせいたしました。お迎えに上がりました」


 落ち着いた、よく通る声だった。


 顔を上げた凪沙は、柔らかく微笑み、目の前に誰かがいるかのように、そっと右手を差し出した。


「さあ、お手を。参りましょう」


 麗翔は、黙ってその姿を見つめていた。


 古びたテーブルに、使い込まれた椅子。長年の煙草のヤニで黄ばんだ壁。


 つい先ほどまで、まずいカレーを食べさせられていた冴えない喫茶店。


 それなのに、今はまるで違って見えた。


 小さな照明に浮かび上がる凪沙の姿。その優雅な立ち振る舞いと、店内に響く澄んだ声。


 凪沙が一歩踏み出すたびに、古びた床は宮殿の大理石へ、くすんだ壁は豪華な広間へと姿を変えていくようだった。


 もちろん、実際には何ひとつ変わっていない。


 ただ一人、凪沙がそこに立っているだけだった。


 麗翔は、いつの間にか身を乗り出していた。


 凪沙は差し出した手をゆっくりと引き寄せると、見えない誰かをエスコートするように歩き始めた。


 その足取りは軽やかで、背筋はまっすぐに伸びている。


 ふと足を止め、隣にいるはずの相手に顔を向けた。


「そんなに心配なさらないで。今夜は、私があなたをお守りします」


 優しく語りかけると、凪沙はわずかに顎を引き、相手を安心させるように微笑んだ。


 そして、再び正面を向いた。


 その目つきが変わった。


 柔らかな微笑みは消え、鋭く前方を見据える。


「……そこをお退きください」


 低く、静かな声だった。


 凪沙は一歩前へ出た。


「この方には、指一本触れさせません」


 麗翔は思わず息をのんだ。


 華奢な体つきも、整った顔立ちも、さっきまでと何ひとつ変わっていない。


 それなのに、今、目の前に立っているのは、確かに一人の青年だった。


 凪沙はしばらく前方を見据えていたが、やがてふっと表情を和らげた。


 そして優雅に一礼した。


「……以上です」


 喫茶店に静けさが戻った。


 麗翔は何も言わなかった。


 女主人も、しばらく凪沙を見つめていた。


 やがて女主人が、小さく手を叩いた。


「……立派になったねえ、凪沙ちゃん」


 女主人はこの日を境に、タバコを吸うのをやめた。


「ありがとうございます、おばさま」


 凪沙は少し照れくさそうに笑った。


 麗翔は、まだ黙っていた。


「……天城さん?」


「……あ?」


「いかがでしたか?」


 麗翔は腕を組み、少し考え込んだ。


「……そうだな」


 凪沙は期待に満ちた目で、麗翔の言葉を待った。


「なんていうか…… オカマみたいだったな」


 その評価を聞いて、女主人は麗翔から目をそらして大きなため息をついた。


 凪沙は、しばらく言葉が出なかった。


 自分なりに精いっぱい演じたつもりだった。


 それなのに、麗翔の目には、そんなふうに映っていたのだろうか。


 凪沙はそっと目を伏せた。


「……そうですか」


 やっぱり、私は……


 胸の奥に押し込めていた思いが、再び顔をのぞかせた。


 その様子を見ていた女主人が、口を開いた。


「凪沙ちゃん、気にすることないよ。こんな奴に、演技の良し悪しなんてわかりゃしないんだから」


「なんだと? じゃあ、お前にはわかるのかよ、ババァ!」


「ああ、少なくとも、あんたよりはね」


 そう言うと、女主人は立ち上がり、店の奥へ消えていった。


「……なんだ、あのババァ」


 しばらくして戻ってきた女主人の手には、一枚の古い写真があった。


「よかったら、みてごらん」


 そう言って、女主人は消していた照明を点けた。


 テーブルに置かれた写真には、舞台衣装をまとった若い女性が写っていた。


「おー、スタイルいいし、イケてんじゃん。誰だ、これ?」


「あたしだよ」


「はぁ!? こ、これがババァ!?」


「そうさ」


 女主人は懐かしそうに写真を眺めた。


「あたしも昔は宝塚に憧れてね、何度か試験を受けたけど、合格できなくてね。それでもどうしても諦めきれなくて、小さな劇団で、舞台に立っていたことがあるのさ」


 凪沙は驚いて写真を覗き込んだ。


「まあ、若い頃の話さ。けどね、凪沙ちゃんの演技が本物だってくらいは、今のあたしにもわかるさ」


「おばさま…… ありがとうございます」


 麗翔は写真を手に取って、ゆっくりと凪沙に目を向けた。


「な…… なんですか?」


「……」


「なんなんですか、その目は?」


 麗翔は、小さな声で呟いた。


「ま…… まさか、お前も……」


 そう言って、写真を見た後、女主人を見つめた。


 そして、またゆっくりと凪沙を見た。


 その意図に気づいた凪沙は、思わず口に出してしまった。


「ちょっ、ちょっと。やめて下さい。私はこんな風にはなりませんから」


「……凪沙ちゃん」


 その静かな呼びかけに、凪沙はハッとした。


「あっ、は、はい!」


「こんな風って、どういう意味だい?」


 凪沙は一瞬、言葉に詰まった。


「いえ、あの! 本当に悪意はなくて。申し訳ありません! つい……」


「つい、なんだい?」


「いえ、その…… 本当に申し訳ありません!」


 凪沙は深々と頭を下げた。


 その様子を見ていた麗翔は、とうとう堪えきれず、大声で笑い出した。


「ぎゃははははー、ぎゃははははははー、しっ、死ぬ―」


 女主人はそんな麗翔をじろりと睨んだ。


「元はと言えば、演技を見る目がないあんたのせいだろ!」


 そう言うなり、テーブルに置かれていた麗翔のヘルメットをひょいと持ち上げた。


 ゴンッ!    


 


 数分後。


「いてててて……」


 頭にたんこぶを作った麗翔は、凪沙とともに喫茶店の駐車場にいた。


「ヘルメットで頭を殴るなんて正気かあのババァ。もう二度とこんな店には来ねえからな」


 麗翔は腹立たしそうに吐き捨てた。


「まあまあ、天城さん。おばさまも悪気があったわけでは……」


「悪気がなきゃヘルメットで人を殴っていいのかよ! へたすりゃ死んでたぞ!」


「それは…… 確かにそうですね、けど…… あんなに笑うから……」


「何か言ったか?」


「いいえ」


 凪沙は困ったように微笑んだ。


「とにかく、今日はもう帰る。明日も会うんなら別の場所にしようぜ」


「では、どちらにしましょうか?」


「ここじゃなければ、どこでもいいよ。けど、そうだな…… 静かな場所がいいかな」


 その言葉を聞いて、凪沙は少し考え込んだ。


「あの…… 二人きりで、静かな場所というのは……」


「……はぁ? 何言ってんだ、お前」


 麗翔は呆れたように凪沙を見た。


「あのなー…… 俺が男みてえなお前に何かするわけねえだろ!」


「……えっ?」


 凪沙は一瞬、目を丸くした。


 普通の女性なら、傷ついてもおかしくない言葉だった。


 ところが凪沙は、ほんの少し頬を緩めた。


 やっぱり私って、ちゃんと男に見えるんだ。


 今の凪沙には、それが何より嬉しかった。


「……ありがとうございます」


「はぁ? 何がだよ?」


「いえ、何でもありません」


 あーもう…… こいつと話してると、わけわかんねー。


 結局、二人は翌日、小さなショッピングモールで会うことにした。


「じゃあな」


 麗翔はヘルメットをかぶり、バイクにまたがった。


 セルを回すと、エンジンが低く唸る。


 麗翔は軽く吹かして、しばらくエンジンを暖めた。


 そして、前のブレーキだけ強くにぎって、半クラッチで一気にアクセルを開いた。


 後輪が激しく空転し、甲高い音を立てながら、バイクが一瞬で向きを変える。


 白い煙を残して、麗翔はそのまま勢いよく駐車場を飛び出し、通りへと走り去っていった。


 凪沙は、その鮮やかな光景に目を奪われ、しばらく立ち尽くしていた。




 家に帰った凪沙は、仏壇の前に座り、静かに手を合わせた。


「ただいま、お母さん」


 遺影に微笑みかけると、凪沙は鞄から手帳を取り出した。


「今日もね、あの人と会ってきたよ」


 そう言って、手帳を仏壇の前に置いた。


 それから立ち上がり、部屋の隅にあった姿見を運んできた。


 鏡の前に立ち、仏壇に置いていた手帳を開く。


 そこには、今日見てきた麗翔の仕草が、びっしりと書き込まれていた。


 凪沙は背筋を伸ばし、鏡の中の自分を見つめた。


 まず、片足を軽く上げ、バイクから降りる動作をしてみる。


 続いて、ヘルメットを脱ぐように両手を動かし、軽く頭を振った。


 鏡を覗き込み、首をかしげる。


「……違う」


 もう一度、頭を振る。


 今度は少し角度を変えてみた。


「うーん……」


 凪沙は手帳に目を落とし、麗翔の動きを思い返した。


 そして、何度も同じ仕草を繰り返した。


 どうして上手に真似できないんだろう……


 やがて、ふと仏壇の方を振り返る。


「お母さん、難しいね……」


 凪沙は少し困ったように笑った。


「やっぱり私には、向いてないのかな……」


 それでも再び鏡の前に立った。


 その夜、凪沙は深夜まで練習を重ねていた。




 ショッピングモールのフードコートは、昼時だというのに客の姿はまばらだった。


 そんな中、近くのテーブルに座っていた二人の若い女性が、ふと凪沙に目を留めた。


「ねえ、あの人……」


「うん。格好よくない?」


 二人は顔を見合わせ、声をひそめた。


 少し離れた席では、中年の女性が凪沙をちらりと見て、隣の友人に何かを囁いていた。


 フードコートのあちこちで、小さな視線が凪沙に向けられていた。


 しかし、当の凪沙はまったく気づいていなかった。


 テーブルに座り、時計に目をやった。


 約束の時間まで、あと五分。


 三十分前から来ていた凪沙は、すでに何度も時計を確認していた。


 周囲を見渡してみたが、麗翔の姿はない。


 やがて、約束の時間になった。


 しかし、麗翔は現れなかった。


 五分が過ぎ、十分が過ぎた。


 凪沙はもう一度、時計を見た。


「……遅いですね」


 そう呟いて、フードコートの入口へ目を向けた。


 それでも、麗翔の姿は見当たらなかった。


 ふと、近くの店に目が留まった。


 それは、カレー専門店だった。


 店頭には、大きなトンカツにエビフライ、コロッケ、納豆までがのったカレーの写真が飾られている。


 凪沙はその写真を眺め、思わず微笑んだ。


「……天城さん、喜ぶかもしれませんね」


 そして、再び入口へと目を向けた。


 そういえば、連絡先を交換していなかった。


 宝塚歌劇団に所属する身として、知り合ったばかりの男性に電話番号やLINEを教えることには、どうしても慎重になってしまう。


 けれど、こんなことなら交換しておけばよかった。


 凪沙は少し後悔した。


「……何かあったのでしょうか」


 このまま待っているよりも、少し様子を見に行った方がいいかもしれない。


 凪沙は、麗翔が今日もあのバイクで来るだろうと考えた。


 幸い、ショッピングモールの館内図は、昨夜のうちに確認してあった。


 待ち合わせ場所はもちろん、出入口の位置や駐輪場までの経路も、頭に入っている。


 宝塚で身についた、事前の準備を怠らない習慣だった。


 凪沙はもう一度時計を確認すると、席を立った。


 その瞬間、近くのテーブルから小さなどよめきが起こった。


「……わ、背が高い」


「ねえ、あの立ち姿……」


「普通じゃないよ、あの人……」


 先ほどから凪沙を気にしていた女性たちが、思わず目で追っていた。


 すっと伸びた背筋に、無駄のない足の運び。何気なく鞄を手に取る仕草まで、どこか洗練されていた。


 少し離れた席の年配の女性も、思わず友人の腕をつついた。


「見て…… ねぇ見て、あの歩き方……」


 近くにいた年配の男性までも、凪沙の姿に目を留めていた。


 何気なく視線を向けただけだったが、その洗練された立ち姿に、思わず見入ってしまった。


 しかし、凪沙はそんな周囲の反応にはまったく気づかず、麗翔と行き違いにならないよう、駐輪場へ続く最短の通路を歩き始めた。


 駐輪場にたどり着いた凪沙は、ずらりと並んだバイクを見渡した。


 しかし、あのカワサキFX400の姿はどこにもなかった。


 ……まだ来ていない。


 凪沙が辺りをきょろきょろと見回していると、背後から小さなエンジン音が聞こえてきた。


 一台の原付バイクが、駐輪場へ入ってきたのだ。


 そのバイクは、凪沙の目の前を通り、駐輪場の奥で停車した。


 凪沙は、その後ろ姿に思わず目を奪われた。


 バイクにまたがる姿勢、何気ない肩の動き。


 見間違えるはずがなかった。


 まだヘルメットも脱いでいないというのに、凪沙にはすぐにわかった。

 

 凪沙は、その人物に向かってまっすぐ歩き始めた。

 

「遅刻ですよ」


 そう言って、ヘルメットを脱いでいる麗翔に声をかけた。


「あれ? 俺ってよく分かったな?」


「当たり前じゃないですか。わかりますよ」


「へぇー」


 麗翔はヘルメットをシート下の収納に収め、鍵をかけた。


「どうして遅刻したんですか?」


 振り向いた麗翔は、悪びれる様子もなく、一言だけ口にした。


「寝坊」


 フードコートへ向かう麗翔をよそに、凪沙はさも当然のように手帳を広げ、何やら書き留めていた。




「今日も奢ってくれんの?」


 フードコートに着いての第一声がそれだった。


「もちろんです」


 麗翔は並んでいる店を、一軒一軒見渡した。


 凪沙はその様子を、黙って見ていた。


 そして、予想どおりだった。


 麗翔の視線が、カレー専門店の前でぴたりと止まった。


 凪沙は思わず、小さく微笑んだ。


「ここにしますか?」


「ああ、そうだな」


「では、行きましょう」


 麗翔が注文を済ませると、凪沙が財布を取り出し、代金を支払った。


「やっぱり、カレーがお好きなんですね」


「ん? 口直しだよ、口直し」


 その言葉に、凪沙は小さく笑った。


 二人は向かい合って席に着いた。


 麗翔はトレーを置くと、さっそくスプーンを手に取り、カレーを口に運んだ。


 何口か食べ進めたところで、凪沙が尋ねた。


「美味しいですか?」


「ん…… まあな」


 そう答えた麗翔の表情は、なぜか浮かなかった。

 

「で、お前はまた紅茶だけ?」


「はい。食事は済ませてきましたので」


「ふーん…… 何食ってんの普段?」


「そうですね。玄米に納豆、焼き魚、お味噌汁。それから、鶏のささみや野菜もよく食べます」


「……年寄りみたいな食事だな」


「あと、ヨーグルトに蜂蜜をかけて食べたりもします」


「へぇー……」


「身体が資本ですから。食事には気をつけているんです」


 麗翔は、自分の目の前にあるカレーに視線を落とした。


「それだと、あのババァの喫茶店やここでは食べるものなんてないよな」


「いえ…… そんなことはありません」


 凪沙は少し困ったように目を伏せ、申し訳なさそうに答えた。


 そんな凪沙を見て、麗翔はスプーンを置いた。


「あのな……」


「はい。なんでしょうか?」


「俺を見て、何かを学んでるんだよな?」


「はい。自然な男らしさを学んでます」


「じゃあよ、俺ってさ、いつもそんなに謝ってるか?」


「……ませんね」


「だろ? なんにも遠慮なんてしてないよな」


「そうですね……」


「よくわかんねーけど、もしかしてお前が求めてる、その自然の男らしさってのは、そんなとこからきてるのかもしれないよな」


 麗翔は、再びスプーンを手にして、カレーを食べ始めた。


 ……確かに、そうかもしれない。

 この人は、生まれたときから男性だ。自分が男であることを、いちいち意識して振る舞っているわけではない。

 けれど私は、どうしても男になりきろうとしてしまう。

 男らしく見せようとする。その意識こそが、自然さを失わせているのかもしれない。

 どうすれば…… どうすればいいのかな……


「あのー……」


 凪沙が何かを尋ねようと口を開きかけた、そのときだった。


「ちょっと! 麗翔!」


 突然、凪沙の背後から甲高い声が響いた。


 麗翔が顔を上げると、数人の女性がこちらに向かって歩いてくるところだった。


「お前! よくも彼氏を殴ってくれたわね!」


「……あ?」


「とぼけないでよ! あんたのせいで、あの人、大怪我したんだから!」


 女性たちは凪沙の背後に立ったまま、麗翔に次々と罵声を浴びせた。


「ちょっと、何とか言いなさいよ!」


「そうよ! 謝りなさいよ!」


 麗翔は困ったように顔をしかめた。


「いや、あのな……」


「なによ!?」


 男相手の喧嘩なら、いくらでもできる。


 だが、麗翔は決して女性に手を上げなかった。


 こうして何人も一度に責め立てられては、言い返す言葉すら出てこなかった。


 凪沙は黙って、その様子を見ていた。


 ……私や喫茶店のおばさまには、あんなに遠慮なく暴言を吐くのに。

 どうして、この女性たちには何も言い返さないのだろう。


「なんとか言えよ、この野郎!」


 女性たちは凪沙の背後から左右に分かれると、麗翔を取り囲むように詰め寄った。


 凪沙は、その様子を静かに見つめていた。


 遠慮…… 遠慮か……


 凪沙はゆっくりと席を立った。


 すっと背筋を伸ばし、女性たちに向き直る。


 そして、穏やかな、それでいてよく通る声で呼びかけた。


「お嬢様がた」


 その一言に、女性たちの声がぴたりと止まった。


 一斉に振り向いた女性たちは、凪沙の姿を見て目を見開いた。


 まるで、目の前に宇宙人でも現れたかのようだった。


 先ほどまでの威勢はどこへやら。誰もが呆然と凪沙を見つめ、言葉を失っていた。


 凪沙はそんな女性たちに、柔らかく微笑みかけた。


「せっかくの美しいお顔が、台無しになってしまいますよ」


「……えっ?」


 凪沙はすっと一歩踏み出した。


「どうか、その怒りをお鎮めください。皆様の笑顔を曇らせてしまうのは、私も悲しいのです」


 先ほどまで怒鳴り散らしていた女性たちは、口を半開きにしたまま、ぽかんと凪沙を見つめていた。


 まるで、幼い頃に誰もが一度は憧れた、物語の中の王子様が、突然目の前に現れたかのようだった。


 その優雅な立ち姿と柔らかな微笑みに、女性たちはすっかり心を奪われていた。


 凪沙は胸に片手を添え、優雅に頭を下げた。


「この方の非礼は、私からもお詫びいたします。ですから、どうか今は、私に免じてお許しいただけませんか?」


 そして顔を上げ、一人ひとりの目をゆっくりと見つめた。


 麗翔はこのとき、スプーンを持った手をひらひらと動かしながら、どこか遠くを見つめていた。


「皆様には、怒ったお顔より、笑顔のほうがずっとお似合いです」


「……」


 女性たちは、すっかり言葉を失っていた。


 一人の女性が、口元にそっと手を当て、頬を赤らめながら小さく呟いた。


「……はい」


 別の女性も、こくこくと頷いた。


 凪沙は満足そうに微笑んだ。


「ありがとうございます」


 女性たちは先ほどまでの怒りも忘れ、凪沙に見送られるまま、その場を離れていった。


 そのときだった。


 パチ、パチ、パチ……


 どこからともなく拍手が起こった。


 見ると、フードコートの客たちが凪沙に拍手を送っていた。各店舗の店員たちまで、カウンターの向こうから手を叩いている。


 拍手は次第に大きくなり、まばらだったフードコートを包み込んだ。


 凪沙は少し驚いたように周囲を見渡すと、にっこり微笑み、舞台の上にいるかのように優雅に一礼した。


 すると、拍手はさらに大きくなった。


 麗翔は不貞腐れたような顔で、スプーンを持った手を止めたまま、あさっての方向を見つめていた。


「……なんなんだ、この世界はよ」


 やがて拍手も収まり、フードコートにはいつものざわめきが戻ってきた。


 店員たちはそれぞれの持ち場へ戻り、客たちも食事や会話を再開していた。


 麗翔はようやく視線を戻し、手に持っていたスプーンを皿に置いた。


 凪沙はふと、麗翔のカレーに目をやった。


 ほとんど減っていなかった。


「あれ? 天城さん、カレーが全然進んでいませんね」


 麗翔は皿を見下ろした。


「……ん? まぁ、さっきみたいなこともあったしな」


「そうですけど、お口に合いませんか?」


「んー…… そんなことないけど、何か物足りないんだよなー」


 凪沙は、先ほどから気になっていた疑問を口にした。


「天城さん、一つ聞いてもいいですか?」


「なんだよ?」


「どうして、さっきの女性たちには言い返さなかったんですか?」


「……女相手に、怒鳴ってもしょうがねえだろ」


「でも……」


「ん?」


「私や喫茶店のおばさまには、あんなに声を荒げるのに……」


「……ああ」


 麗翔は少し考え込んだ。


「んー。なんでだろうな。そこは、俺も不思議に思ってたんだ」


 麗翔は首を傾げたまま、黙り込んでしまった。


 凪沙は、何か気に障ることを聞いてしまったのではないかと、少し不安になった。


 そこで、さりげなく話題を変えた。


「そういえば、天城さん。今日は原付でいらしたんですね」


「ああ」


「あのバイクは……」


 麗翔は顔を上げた。


「こんな目立つ場所に停めてたら、盗まれちゃうからな」


「え? 逆じゃないんですか?」


「まあ、そう思うよな」


「はい」


「高価な単車を盗む奴らって、人の目なんて気にしないのさ」


「そうなんですか……」


「ああ。だから、人が大勢集まるような場所には、できるだけFXで来ないようにしてるんだ」


 凪沙は感心したように頷いた。


「あと一ついいですか?」


「……どうぞ」


「麗翔さんって、無職ですよね?」


「そうだよ」


「どうして、あんな高価なバイクが買えたんですか?」


 凪沙は麗翔の表情をうかがった。


 まさか、悪いことをして手に入れたお金ではないだろうか。考えたくはなかったが、どうしても確かめておきたかった。


 麗翔はちらりと凪沙を見た。


 凪沙は、ひどく不安そうな顔をしていた。


「……そんな顔すんなよ」


「え? 私、そんな顔してますか……」


「ああ、してるね」


「そうですか……」


 麗翔は、さっきのお礼も兼ねて、凪沙の不安を取り除いてやろうと、ゆっくり口を開いた。


「……実はな」


「はい……」


「俺の母親は、4歳の時に事故で亡くなっててさ」


「……えっ」


 凪沙は思わず、6歳で母を亡くした自分の境遇と重ね合わせた。


「そのときの保険金なんだよ。あの単車買った金」


 凪沙は、静かに麗翔を見つめた。


「親父がさ、大きくなったら好きに使えって、俺の口座に入れといてくれたんだ」


「そう…… だったんですか……」


「ああ。言っておくけど、かなり葛藤があったんだぜ。簡単には決めてない」


 凪沙は何も言えなかった。


 悪いことをして手に入れたお金ではないかと疑ってしまった自分が、恥ずかしかった。


「それに、バイクだけじゃない。ちゃんと、仕事に繋がるのにも使ったしな」


「……何に、使ったんですか?」


「免許だよ。大型トラックの」


「トラック……」


 麗翔は少し照れくさそうに笑った。


「ああ」


 凪沙は、麗翔の意外な一面を知った気がした。


 しかし、もう一つ疑問が浮かんだ。


「でも、今は無職なんですよね?」


「あのな、お前……」


 麗翔は呆れたように凪沙を見た。


「はい?」


「遠慮しないってのは、何でも聞いていいってことじゃないからな」


「あっ、す、すみません……」


 凪沙は慌てて頭を下げた。


「ったく。……喧嘩だよ」


「喧嘩……」


「俺は、自分にコミュ力がないのはわかってる。めちゃくちゃ短気だし」


 麗翔は自嘲気味に笑った。


「だから、トラックの仕事なら、あまり人と関わらなくていいし、自分に向いてると思ったんだ」


 凪沙は静かに頷いた。


「それでも、同僚と衝突しちゃって、クビだよ」


 麗翔は苦笑した。


「そこから、無職ってわけさ」


 凪沙はすぐには何も言わず、麗翔の顔をまっすぐに見つめていた。


 話の途中、麗翔は何度か、凪沙がこれまで見たことのない仕草をしていた。


 けれど、不思議なことに、凪沙は一度も手帳を開かなかった。


 麗翔もそれに気づいていたが、あまり気にも留めていなかった。


「さて、やっとカレーも食べ終わったし。ちょっと歩くか?」


「あ、はい」


 二人は並んで、ショッピングモールの中を歩き始めた。


 雑貨屋では、凪沙が珍しそうに商品を手に取り、麗翔が横からあれこれ口を出した。


 ゲームセンターでは、二人でゲームを楽しみ、時には笑い合った。


 気がつけば、ずいぶん時間が経っていた。


 その間、凪沙は一度も手帳を取り出さなかった。


 最初は気にも留めていなかった麗翔も、さすがに少し気になり始めていた。


 麗翔は隣を歩く凪沙をちらりと見た。


 凪沙は楽しそうに、店先の商品を眺めていた。


 そのときだった。


「おい、麗翔!」


 振り向くと、六人の男たちがこちらへ向かってきていた。


 そのうちの一人が、麗翔を睨みつけた。


「会いたかったぞ、おーい」


 それは、喫茶店の裏口のドアに頭を叩きつけられた、あの男だった。


「あー、お前か……」


「ちょっと来いよ」


 男たちは麗翔を取り囲んだ。


 麗翔は隣にいる凪沙をちらりと見た。


「……わかったよ」


「天城さん!」


 凪沙が思わず声を上げた。


「大丈夫だ。お前は先に帰ってろ。通報もしなくていい」


「でも、六人も……」


「いいから」


 男たちの一人が、口を開いた。


「おい、こいつも連れて行ったほうがいいんじゃね?」


 別の男が慌てて制した。


「そいつはいいんだよ」


「なんでだよ?」


「俺らの女から、そいつには絶対に手を出すなって、釘刺されたんだよ」


「はあ? なんだそりゃ」


「知り合いだからとしか聞いてねーよ。とにかく、そいつはいいよ」


「……くっ」


 麗翔は思わず吹き出した。


「くくっ…… ふははははっ!」


 ついには肩を震わせ、身体を大きく揺らして笑い始めた。


「おい! 何がおかしいんだよ!」


「いや、悪い、悪い…… たいしたもんだ。くふふふっ!」


 麗翔は笑いをこらえようとしたが、どうにも止まらなかった。


「天城さん……」


 凪沙の呼びかけに、麗翔は振り返らなかった。


 六人の男たちに囲まれながら、悠然と歩いていく麗翔。


 その背中には、不思議なほどの落ち着きがあった。


 凪沙は思わず見入ってしまった。


 そして、何かを思い出したように慌てて手帳を取り出した。


 ペンを走らせる。


 そのとき、麗翔がふと後ろを振り返った。


 いつものように、凪沙が夢中でメモを取っている。


 麗翔はそれを見ると、口元に小さな笑みを浮かべた。


 そして、何事もなかったかのように、再び前を向いて歩き出した。 


 


 凪沙は駐輪場で、麗翔の帰りを待っていた。


 何度も時計を確認しては、落ち着かない様子であちらこちらに目を向けた。


 どれほど待っただろうか。


 ようやく、駐車場の向こうに人影が現れた。


「……天城さん?」


 顔は腫れ、口元には血が滲んでいる。服は汚れ、足元もおぼつかない。


 あれほど悠然と歩いていった男が、今は壁に手をつきながら、ふらふらとこちらへ向かってくる。


「天城さん!」


 凪沙は慌てて駆け寄った。


「大丈夫ですか!?」


「……ああ」


 麗翔は顔を上げた。


「帰ってればいいのに、待ってたのかよ」


「当たり前ですよ! 天城さんを置いて、一人で帰れるわけないじゃないですか!」


「……そうかよ」


 麗翔はふらつきながら原付に近づき、ハンドルに手をかけた。


「ちょっと待ってください! 何をするつもりですか?」


「何って…… 帰るんだよ」


「そんな身体で運転できるわけないでしょう!」


「大丈夫だって」


「駄目です!」


 凪沙は麗翔の腕をつかんだ。


「救急車を……」


「馬鹿かお前。俺なんかより必要な奴がいるんだよ」


「けど…… それなら、タクシーで病院にいきましょう。私も一緒に乗りますから」


「おい、原付はどうすんだよ」


「あとで取りに来ればいいじゃないですか!」


「……」


 麗翔は観念したようにハンドルから手を離した。


 やがて二人は、タクシーに乗り込んだ。


「行き先はどちらですか?」


「おい、病院いくなら降りるからな……」


 麗翔はそう言って、目を閉じた。


 運転手の問いかけに、凪沙が答えた。


「……喫茶アンコールってわかりますか?」


「本町の?」


「はい、そこへお願いします」


 タクシーは、あの古びた喫茶店へと走り出した。


 

 

 どれくらい眠っていたのだろう。


 麗翔は、誰かの話し声で意識を取り戻した。


 だけど、まだ目は閉じたままだった。


「……あんたが無事で、本当によかったよ」


 喫茶アンコールの女主人の声だった。


「でもね、凪沙ちゃん。悪いことは言わない。もう、こんな奴と関わるのはおよし」


 返事はなかった。


「あんたに何かあってからじゃ、遅いんだよ。今回は無事だったからよかったようなものの……」


 女主人の声には、心配の色が滲んでいた。


 それでも、凪沙は何も答えなかった。


「……ババァの言うとおりだよ」


 二人がはっと声の方を向いた。


 麗翔はまだ目を閉じていた。


「俺みてえなのと一緒にいたら、今度はお前まで巻き込まれるかもしれねえ」


 麗翔は、ゆっくりと目を開けた。


「天城さん……」


「だから、もう俺とは会わねえ方がいい」


 しばらく沈黙が続いた。


「……ごめんなさい」


 凪沙が小さく口を開いた。


「こんなことになるかもしれないから、静かな場所で会おうって言ってくださったんですよね」


 麗翔は何も答えなかった。


「それなのに私、変なことを勘ぐって…… あんな人目につく場所にしてしまって……」


 女主人も神妙な面持ちで、黙って凪沙の話を聞いていた。


 凪沙はうつむいた。


「本当に、ごめんなさい……」


 ソファーに横になっていた麗翔が、むくりと起き上がった。


「あー、帰るわ」


 そのとき、女主人が声を上げた。


「待ちな」


「何だよ? もう会わないって言ってやっただろ」


「……カレー」


「は?」


「カレー、食っていきな。あたしの奢りだよ」


「なんでこんな時に不味いカレーなんて食わなきゃいけねえんだよ。馬鹿か」


 麗翔はふらふらとドアに向かって歩き始めた。


 そして、ドアノブに手をかけた、そのときだった。


 くぅーー。


 腹が鳴った。


 女主人はそれを聞いて、思わず笑みをこぼした。


 凪沙は、静かに手帳を取り出した。


 


 スプーンですくったカレーを口に運んだ、その瞬間。


「いってぇぇ!!」


 麗翔は思わず顔をしかめた。


「どうしたんだい?」


「口ん中ズタズタでカレーが染みるんだよ! ババァ、わざとだろ!?」


「当然さ」


 女主人は涼しい顔で答えた。


「当然さ、じゃねえよ! おかしいと思ったんだよ! 急に奢るなんて言い出すから!」


「だったら食わなきゃいいだろ」


「腹減ってんだよ!」


 女主人は、ふん、と鼻を鳴らした。


 その様子を見ていた凪沙が、静かに席を立った。


「おばさま」


「どうしたんだい?」


「少し、見ていただけますか?」


 凪沙はそう言うと、昨日、男役を披露した場所へ歩いていった。


 そして、あのスポットライトの下に立った。


 女主人は黙って凪沙を見つめた。


 麗翔も、スプーンを手に持ったまま、顔を向けた。


 凪沙はスポットライトの下で、静かに姿勢を正した。


 そして、ゆっくりと歩き始めた。


 少し肩を落とした、無造作な歩き方。


 ふと立ち止まり、片足に重心を移す。


 何かを見つけたように顔を向け、わずかに顎を上げた。


 片手をポケットに入れ、もう一方の手で前髪をかき上げる。


 何気なく振り返り、口元に小さな笑みを浮かべた。


 言葉は、一つも発しなかった。


 それなのに、目が離せなかった。


 麗翔は、口元へ運びかけていたスプーンを止めた。


 女主人も、身じろぎひとつせず見つめていた。


 やがて凪沙が動きを止めると、店内に静寂が訪れた。


「……凪沙ちゃん」


 女主人が、ようやく口を開いた。


「昨日とは、まるで違うじゃないか……」


 麗翔も黙っていた。


「いや、昨日も素晴らしかったけど、何て言えばいいんだろうね……」


 たった一日。


 たった一日で、凪沙の男役は見違えるほど変わっていた。


「ふぅー」


 女主人は、感嘆のため息を漏らすと、静かに拍手を送った。


 誰もいない客席に、たった一人の拍手が響いた。


 麗翔はスプーンを置き、黙って凪沙を見つめていた。


「ありがとうございます」


 凪沙は顔を上げると、まっすぐに女主人を見つめた。


「おばさま。お願いがあります」


「……なんだい?」


「私には、天城さんが必要なんです」


 女主人は黙って凪沙を見つめた。


「まだまだ学ばなければならないことが、たくさんあります。今日だって、天城さんから教わったことばかりで……」


 凪沙は一度、麗翔に目を向けた。


「だから、もう少しだけ、そばで学ばせていただきたいんです」


「凪沙ちゃん……」


「もちろん、おばさまにご迷惑はおかけしません。ですから……」


 凪沙は改めて女主人に向き直った。


「これからも、ここで天城さんとお会いしていいでしょうか?」


 女主人はしばらく何も言わなかった。


「……あたしは構わないよ。ここでなら、凪沙ちゃんを危ない目に遭わせずに済むからね」


 女主人と凪沙は、麗翔に視線を向けた。


 麗翔はしばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。


「……毎日、この不味いカレーを食わせてくれるなら」


 その言葉に、凪沙の表情がゆっくりとほころび、やがて満面の笑みへと変わっていった。



 それからというもの、客の来ない喫茶アンコールでは、毎日のように奇妙な稽古が繰り広げられるようになった。


「違うよ、凪沙ちゃん! もっと自然に!」


「はい!」


「麗翔! さっきの歩き方、もう一回やってみな!」


「またかよ! もう十回はやってんぞ!」


「いいから、やんな!」


「ったく、しょうがねえな……」


 麗翔はぶつぶつ文句を言いながらも、立ち上がった。


 歩き方、座り方、振り返り方。


「あんたが意識してどうするんだよ! 自然にやりな!」


「何十回もやらされて、何が自然かわかんねーよ!」


 時には、ただポケットに手を入れるだけの仕草を、何度も繰り返させられた。


「天城さん、もう一度お願いします!」


「遠慮ねーなー!」


 凪沙は真剣だった。


 麗翔の動きを食い入るように見つめ、何度も真似をする。


 女主人はそのたびに細かく注文をつけた。


「そうじゃないよ! 形だけ真似したって駄目なんだよ。そこに気持ちがなきゃ!」


「はい!」


「だから麗翔! もう一回!」


「なんで俺が怒られてんだよ!」


 そんな声が、毎日のように店内に響いた。


 しかし、凪沙は確実に変わっていった。


 歩けば人の目を引き、立ち止まれば、その場の空気が変わる。


 何気ない仕草にさえ、以前にはなかった余裕と色気が宿り始めていた。


 やがて麗翔も、凪沙の動きを見て、自然と笑みを浮かべることが増えていった。


 凪沙も、その変化に気づいていた。


 麗翔の笑顔を見るたび、自分が少しずつ成長しているのだと感じられた。


 それが、何より嬉しかった。


「さて、今日はもう終わりにしようぜ」


「駄目ですよ! あと少しだけ」


「お前のあと少しは信用できねえんだよ!」


 二人のやり取りを見て、女主人が声を上げて笑った。


 そんな日々が続いた。


 客のほとんど来ない古びた喫茶店に、毎日、賑やかな声が響くようになった。


 女主人は、そんな二人を眺めるのが好きだった。


「ババァ! なんでこのカレー不味いんだよ!」


「それにしちゃおかわりするようになったね!」


「ただだからだよ!」


 怒鳴り合う二人の会話が、凪沙には心地よかった。


「食べ終わりましたか? 天城さん、今度はここでお尻を振る感じで、後ろ向きに歩いてください」


「どんな演劇で使うんだよ、その動作を!」


「ごめんなさい。冗談です」


「わかんなかったわ!」


「本当は、こういう動きをしてほしいです」


「こうか?」


「はい。そうです!」


 文句を言いながらも、凪沙の頼みには何度でも付き合う麗翔。


 その姿を見ていると、女主人は時折、遠い昔を思い出した。


 女主人は、二人にまだ見せていない一枚の写真を、そっと取り出して眺めていた。


 そこには、母親に連れられてこの店を訪れていた、幼い日の麗翔が写っていた。


 その隣には、同じく幼い凪沙と、その母親の姿があった。


 写真の中では、もう会うことのできない二人の母親が、穏やかに微笑んでいた。


 あの頃も、こんなふうに賑やかだった。


 笑い声があって、話し声があって。


 麗翔は、いつもカレーを頬張っていた。


 凪沙は、温かい紅茶を、ふーふーしながら飲んでいた。


 この子たちの母親であり、自分の大切な友人でもあった二人は、もういない。


 それでも。


 あの頃の喫茶店が、帰ってきたようだった。


「……おばさま?」


 凪沙の声に、女主人ははっとした。


「どうかなさいました?」


「ううん…… 何でもないよ」


 女主人は慌てて目元をぬぐった。


「ちょっと、昔のことを思い出しただけさ」


 そう言って、二人に背を向けた。


「ほら! 休んでないで、稽古の続きだよ!」


「いや、もう帰りたいって!」


「ふざけんじゃないよ! そんなんで、あの宝塚のトップスターになれるとでも思ってんのかい!?」


「いや、俺はならねーよ!」


 女主人は声を上げて笑った。


 その頬には、ひと筋の涙が伝っていた。


「泣くまで笑うなババァ!」




 その日は、喫茶アンコールでの稽古を一日だけ休むことになった。


「ほら、ヘルメット」


 凪沙を迎えにきた麗翔は、ヘルメットを差し出した。


「えっ、新品じゃないですか、これ?」


「ああ、買ったんだよ」


「おいくらでしたか?」


「なんだよ。無職だからって心配してんのか?」


「はい」


「お前な……それを言うなら、お前だってそうだろ!」


「……え?」


「前に俺が聞いたとき、宝塚は夢の世界だからお給金は出ません、とか言って茶化してたじゃねーか!」


「まぁ、そうですけど……」


「いいから早くかぶれよ。行くぞ」


 凪沙はヘルメットをかぶると、すっと長い脚を上げ、軽やかにバイクの後ろへまたがった。


 その乗り方は、以前、麗翔が見せた仕草に驚くほどそっくりだった。


「バイクは初めてか?」


「はい」


「しっかりつかまってろよ」


「は、はい!」


 凪沙は両手を麗翔の腰に回した。


 やがてエンジンが唸りを上げ、バイクがゆっくりと走り出した。


「わっ……」


 思わず麗翔の身体にしがみつく。


 風が身体全体を撫で、街の景色が次々と後ろへ流れていった。


 車とはまるで違う。


 風の匂いも、エンジンの振動も、身体を傾けて曲がる感覚も、何もかもが新鮮だった。


 凪沙はヘルメットの中で、思わず笑みを浮かべた。


 こんなにも、気持ちのいいものだったなんて。


 目の前には、麗翔の大きな背中があった。


 思わずメモを取りたくなり、麗翔の腰から片手を離しかけた。


 その瞬間、麗翔がその手をつかんだ。


「ぜってぇやると思ったわ! つかまってろって!」


「……はい!」


 凪沙は慌てて麗翔の腰に手を戻した。


 その身体にしっかりとつかまりながら、初めて知る世界に胸を躍らせた。


 街並みが遠ざかり、道の両側には深い緑が広がっていく。


 途中、道沿いのガソリンスタンドにいた男が、走り去るバイクに目を留めた。


 ……あの単車。


 男は思わず振り返り、その後ろ姿を目で追った。


 いくつものカーブを抜け、山道を登り続けると、やがて視界が開けた。


「わあ……」


 バイクが停車し、ヘルメットを脱いだ凪沙が、思わず声を上げた。


「すごい……」


「だろ?」


 目の前には、見渡す限りのススキの草原が広がっていた。


 なだらかな山の斜面を埋め尽くすススキの穂が、爽やかな風に揺れ、銀色の波となって一面を渡っていった。


 遠くには山々が連なり、青い空には白い雲がゆっくりと流れていた。


「ここ、平日だとあんまり人が来ねえんだよ。静かでいいだろ」


「はい。とっても」


 凪沙は嬉しそうに微笑んだ。


「リュック、俺が持つよ」


「えっ、でも……」


「いいから。貸せって」


 麗翔は凪沙からリュックを受け取ると、ひょいと片方の肩にかけた。


 二人はススキの草原を抜け、木々に囲まれた湖へと続く遊歩道を歩き始めた。


 木々の間から柔らかな日差しが差し込み、足元には木漏れ日が揺れていた。


 鳥のさえずりと、風にそよぐ葉の音。


 街の喧騒とは無縁の、静かな山道だった。


「気持ちいいですね」


 しばらく歩くと、道は少し急な上り坂になった。


「大丈夫?」


「はい。平気です」


「さすが、鍛えてるだけあるな」


 凪沙は少し得意そうに笑った。


 やがて木々が途切れ、目の前に湖が広がった。


 水面には青空と山々が映り込み、時折吹く風が小さな波紋を描いていた。


「わぁー、きれい……」


 凪沙は思わず足を止めた。


「こんな素敵な場所があったんですね」


 麗翔はその横顔を見て、満足そうに笑った。


「ほら、あっちにレジャーシート敷ける場所がある」


「ちょうどいいですね。今日は、お弁当を作ってきたんです」


「お! その言葉、待ってました。ここ最近、毎日毎日あの不味いカレーばっかりだったからなー」


「うふふ。前にお話しした、私が普段食べてる物ばかりですけど」


 麗翔は湖のほとりにレジャーシートを広げ、腰を下ろした。


 凪沙もその隣に座った。 


「天城さんにも、一度食べていただきたくて」


「へえ。楽しみだな」


 凪沙はリュックから大切そうに弁当を取り出した。


 弁当箱の蓋を開けると、色とりどりのおかずが並んでいた。


「わあ、すげえな。これ、全部お前が作ったの?」


「はい。でも、天城さんのお口に合うかどうか……」


「いただきます!」


 麗翔はさっそく箸を伸ばし、おかずを一口頬張った。


 凪沙は少し緊張した面持ちで、その様子を見つめていた。


「……どうですか?」


「うっま!」


「本当ですか?」


「ああ、めちゃガチでうまいよ!」


「めちゃガチ? うふふふ」


 麗翔は嬉しそうに、次のおかずへ箸を伸ばした。


 凪沙はほっと胸をなで下ろし、自分も弁当を食べ始めた。


「よかった……」


「こんなうまいもん、毎日食ってんのかよ」


「そんなに喜んでいただけるなんて、嬉しいです」


 二人は湖を眺めながら、ゆっくりと食事を楽しんだ。


 やがて弁当箱が空になる頃には、二人ともすっかり満腹になっていた。


「はあー、食った食った。やっとあのカレーの呪縛から解き放された」


「ふふふふふ」


 麗翔は満足そうに腹をさすると、そのままレジャーシートに仰向けになった。


「気持ちいいな、ここ」


「はい、本当に……」


 凪沙も隣に、ごろんと横になった。


 二人は肩を並べて、青い空を見上げた。


 白い雲が、ゆっくりと流れていく。


 湖から吹いてくる風が、二人の頬を優しく撫でていた。


 しばらくの間、二人は何も話さなかった。


 ただ、隣にいるだけで心地よかった。


「あのー……」


「なんだ?」


「天城さんの夢って、なんですか?」


「俺の…… 夢かぁ……」


「はい」


 麗翔はしばらく空を見上げていた。


「そうだな…… 小さくていいから、自分の運送会社を持ちたいな」


「運送会社ですか?」


「ああ。生まれ育ったあの町ってさ、トラックが多いじゃん」


 麗翔は懐かしそうに目を細めた。


「小さい頃から、でっかいトラックが行き交うのを、当たり前のように毎日見て育った」


 凪沙は黙って耳を傾けていた。


「だからかな。昔から妙にトラックが好きでさ」


「そうなんですね」


「ああ。いつか自分のトラックで、自分の会社をやってみたいんだよ」


 麗翔は少し照れくさそうに笑った。


「免許も持ってますしね」


「ああ、けど今は無職だけどな」


 凪沙もつられて、くすりと笑った。


「なぁ……」


「はい」


「俺も聞いていい?」


「どうぞ」


「宝塚でさ、ずっと男役だけしてたの?」


「いいえ。音楽学校にいた頃は、男役も娘役も勉強しました」


「へえ、そうなんだ」


「はい。お芝居だけでなく、歌やダンスも、毎日たくさん練習しました」


「大変そうだな」


「ええ。歌劇団に入った今も、毎日が稽古の連続です」


「へぇー。今もそんなに大変なのか」


「はい。でも、夢を叶えるためですから。大変に見えるかもしれませんが、楽しいです」


 凪沙は微笑んだ。


「小さい頃から男役に憧れていたので、迷わず男役を選びました」


「ふーん……」


 麗翔は流れていく雲を目で追っていた。


「今だと、娘役ってのは想像できないくらい染まってるよな」


「そうですかね……」


 凪沙は小さく微笑んだ。


 けれど、その笑顔には、どこか寂しげなものが混じっていた。


 麗翔はまだ、それに気づいていなかった。


 そのとき、凪沙がゆっくりと立ち上がった。


「ん? どうした?」


 麗翔も不思議そうに身体を起こした。


 凪沙は何も答えず、履いていたヒールのあるブーツを脱いだ。


 そして、上着も脱ぎ、そっと脇に置いた。


 それだけで、どこか印象が変わった。


 先ほどまでの凛々しい男役の姿から、少しだけ、柔らかな女性らしさが覗いていた。


 凪沙は湖を背にして立つと、静かに両腕を広げた。


 そして、ゆっくりと、静かに舞い始めた。


 指先までしなやかに伸ばし、風に身を任せるように身体を回す。


 軽やかな足運び。


 優しく弧を描く腕。


 肩にかかりかけた髪が揺れ、柔らかな微笑みが浮かぶ。


 聞こえるのは、木々を渡る風と、遠くでさえずる鳥の声だけ。


 それなのに、麗翔には、まるで美しい旋律が流れているように感じられた。


 麗翔は言葉を失っていた。


 いつもなら、凪沙の動きのどこが変わったのか、何がよかったのか、考えようとする。


 だが、今は違った。


 ただ、目が離せなかった。


 舞う凪沙の姿を、夢中で追っていた。


 やがて凪沙が静かに動きを止めた。


「いかがでしたでしょうか?」


 凪沙は、にっこりと笑みを浮かべていた。


 麗翔は、それでもしばらく何も言えなかった。


 胸の奥が、妙に落ち着かなかった。


 目の前にいるのは、いつもの凪沙のはずだった。


 けれど、今の麗翔には、どうしても一人の美しい女性にしか見えなかった。


「……さすがだな。お前って、本当にすごいよ」


「ありがとうございます」


「それと……」


「はい?」


「宝塚って、本当にすげえんだな……」


 その言葉に、凪沙は微笑んだ。

  

 上着を羽織り、ブーツを履いた凪沙は、いつもの凛々しい姿に戻っていた。


 二人は片付けをして、並んで来た道を歩き始めた。


 途中、道は少し急な下り坂になった。


 上り坂とは違い、ヒールのあるブーツでは足元が安定せず、凪沙は慎重に歩を進めていた。


「おい、大丈夫か?」


「はい。大丈夫です」


 そう答えたものの、凪沙は小石に足を取られ、わずかによろめいた。


「おっと」


 麗翔はとっさに手を伸ばし、凪沙の腕を支えた。


「あ、ありがとうございます……」


「ほら」


 麗翔は何気なく手を差し出した。


 凪沙は一瞬、その手を見つめた。


 そして、ためらうことなく、その手を取った。


 二人は手をつないだまま、ゆっくりと坂道を下り始めた。



   

 二人がバイクを停めた場所まで戻ってくると、見覚えのない車が一台停まっていた。


 麗翔が何気なく目を向けた、そのときだった。


 車のドアが開き、中から男たちがぞろぞろと降りてきた。


 一人、二人、三人、四人。


「ほら、やっぱりそうだ。ガソスタであの単車を見た時、すぐにピンときたんだ」


 麗翔は、その顔ぶれを見て目を細めた。


「……お前らか」


 フードコートで麗翔を連れ去った、あの六人のうちの四人だった。


 男たちはまっすぐこちらへ歩いてきた。


 麗翔は足を止め、隣にいる凪沙をちらりと見た。


「今日も俺だけでいいだろ」


 そう言って、麗翔が前に出たそのとき。


 一人の男が口を開いた。


「今日はお前じゃねーんだ」


「は?」


「そっちの男に用事があるんだよ」


 麗翔は一瞬、何を言われたのかわからなかった。


 そして、凪沙に目を向けた。


「……こいつに?」


「ああ。そいつだよ」


 麗翔の表情が、険しくなった。


「彼女の様子がおかしいからよ、問い詰めたら、お前と一緒にいる男を好きになったって言いやがったんだ!」


 その言葉を聞いて、麗翔は思わず吹き出した。


「ぷっ! ぷははははははー!」


「何がおかしいんだ! テメーも殺すぞ!」


「ぷははは! いやいやいや、それで、こいつに惚れたのは、お前の女だけか?」


「お、俺の女もだよ」


「……俺のもだ」


 なんと、三人もの女性が凪沙に惚れてしまったというのだ。


 麗翔はとうとう腹を抱えて笑い出した。


「ぎゃはははははー! 嘘だろー! あの日だけじゃなくて、まだ尾を引いてるのかよ! いや、考えてみりゃ当然かぁー。あはははははー」


「笑ってんじゃねえぞ! お前もまたやってやろうか!」


 男の一人が凪沙に向き直った。


「おい、てめえ! こっちに来い!」


 そう言って、凪沙に手を伸ばした。


 その瞬間だった。


 ドゴッ!!


 麗翔の右ストレートが、男の顔面を捉えた。


 男の身体は勢いよく後方へ吹き飛び、地面に叩きつけられた。


 残る三人が、呆然と麗翔を見た。


 つい先ほどまで大笑いしていた麗翔の顔からは、すっかり笑みが消えていた。


 凪沙は慌てて麗翔の背後に回り、服の裾を引っ張った。


「天城さん、今のうちに逃げましょう」


 小さな声でそう言った。 


 麗翔は振り返った。


 凪沙の不安そうな顔を見ると、ふっと微笑んだ。


「そんな心配すんな。俺がお前を守ってやる」


 その微笑みと、思いがけない言葉に、凪沙の胸が大きく高鳴った。


「……えっ?」


 その言葉……


 あの日、喫茶アンコールで、私が演じた台詞と同じ……


 さっきまで怖くて仕方がなかったはずなのに、麗翔から目が離せなくなっていた。


 凪沙は、服をつかんでいた手をゆっくりと緩めた。


 残る三人が、一斉に麗翔へ襲いかかった。


「邪魔すんなオラー!」


 一人が振りかざした拳を、麗翔は軽く身をかわして避けた。


 そのまま懐に踏み込み、鋭い一撃を腹に叩き込む。


「ぐはっ!」


 男は腹を押さえ、その場に崩れ落ちた。


 間髪入れず、別の男が背後から飛びかかってきた。


 麗翔は素早く振り向くと、その男の腕を払い、強烈な拳を頬に叩き込んだ。


 男はよろめき、そのまま地面に倒れ込んだ。


 残る一人が、思わず後ずさった。


「な、なんなんだよ、お前…… もしかして、ホモなのか!?」


 麗翔は笑った。


「ああ、そうかもなー!」


 男はやけくそになって突っ込んできた。


 しかし、その拳が届くより早く、麗翔の長い足の前蹴りが男を捉えた。


 男は腹を抑えてその場に倒れ、もだえ苦しんでいた。


 それは、あっという間だった。


 先ほどまで威勢よく麗翔を取り囲んでいた四人は、全員地面に倒れていた。


 麗翔は軽く息を吐くと、どうせいつものようにメモを取っているのだろうと思いながら、笑みを浮かべながら凪沙の方へ振り返った。


 しかし、凪沙は手帳を開いていなかった。


 ただ、麗翔をじっと見つめていた。


 その瞳には、これまで麗翔が見たことのない、優しく、温かな光が宿っていた。


 麗翔は、その眼差しの意味に気づいてしまった。


 そして凪沙もまた、あのとき麗翔が微笑みながら告げた言葉の、本当の意味を理解していた。


「そんな心配すんな。俺がお前を守ってやる」


 あの言葉は、本気だったのだ。


 二人の視線が重なった。


 もう、言葉は必要なかった。




 凪沙の家の近くで、バイクが静かに停まった。


 後部座席から降りると、ヘルメットを脱いだ。


「今日は、ありがとうございました」


「ああ。俺の方こそ。弁当美味しかったよ」


 凪沙はヘルメットを両手で持ち、麗翔に差し出した。


「これ、お返しします」


 しかし、麗翔は受け取ろうとしなかった。


「それ、あげるよ」


「……えっ?」


「また、明日な」


 麗翔はそれだけ言うと、ヘルメットをかぶり直し、エンジンをかけた。


 凪沙が何か言う間もなく、バイクはゆっくりと走り出した。


 遠ざかっていくエンジン音。


 凪沙はヘルメットを胸に抱きしめた。


 そして、麗翔の姿が見えなくなっても、ずっとその方向を見つめていた。




 翌日。


 麗翔はいつもの時間に、喫茶アンコールへやって来た。


 ところが、いつも先に来ているはずの凪沙の姿がなかった。


「おう、ババァ」


「カレーかい?」


「あたぼうよ。カレーに決まってんだろ」


 そう言うと、麗翔はいつもの席に腰を下ろした。


「あれ? あいつは?」


「まだ来てないよ」


「え?」


 あれほど時間に正確な凪沙が、何の連絡もなく遅れている。


 麗翔は何度か入口に目を向けた。


「……遅えな」


「そうだねえ」


 女主人も壁の時計を見上げた。


 いつもなら、もう稽古が始まっている頃だった。


「あんた」


「あ?」


「……昨日、なんかあったのかい?」


「……別に」


「そうかい……」


 女主人と麗翔は、二人きりで凪沙を待っていた。


 それから、二時間が過ぎた。


 カラン、カラン……


 ようやく、喫茶アンコールのドアが開いた。


「……遅えぞ、お前」


 入口へ顔を向けた麗翔は、そのまま言葉を失った。


 女主人も、驚いたように目を見開いた。


 そこに立っていたのは、いつもの凛々しい男装姿の凪沙ではなかった。


 スカートを身にまとった、一人の美しい女性だった。


 女主人は、その姿を見て、胸の奥がすっと冷たくなるのを感じた。


 ……やっぱり、そうだったのかい。


 凪沙は二人を見つめると、静かに頭を下げた。


「……遅くなって、ごめんなさい」


「お前…… どうしたんだよ、その格好」


 凪沙はその問いをはぐらかすように、くるりと一回転してみせた。


「あれ? 似合ってませんか? 自分では、かなりいい感じだと思ったんですけど」


 そう言って、いつもより少し明るい笑顔を浮かべた。


 女主人は黙ったまま、その様子を見つめていた。


「……凪沙ちゃん」


「はい?」


「あんた…… 宝塚を辞めるつもりだったんだね」


 凪沙の笑顔が、ふっと消えた。


「……最初から」


 麗翔は訳がわからず、女主人に目を向けた。


「前からおかしいと思ってたんだよ。こんなに長い休暇が取れるものなのかって……」


 凪沙は何も答えなかった。


 その沈黙が、女主人の言葉を肯定しているようだった。


 麗翔は驚いて、凪沙の顔を見た。


「本当なのかよ……」


 凪沙は何も答えなかった。


「ババァの言ってることは、本当かって聞いてんだよ!」


 凪沙はびくりと肩を震わせたが、それでも顔を上げなかった。


 麗翔は歯を食いしばり、返事を待った。


「……半分は、本当です」


「半分……」


「はい…… 普通の休暇ではなく、歌劇団には、しばらくお休みをいただきたいとお願いしました」


「……それで?」


「本当は、このまま退団するつもりで帰ってきたんです」


 凪沙はゆっくりと視線を落とした。


「自分でもわからないんですけど、どうしてか毎日毎日、男装してしまうんです」


 麗翔は黙って耳を傾けていた。


「この町だと、変な目で見られることもありますし…… そんな思いをしながら続けていたら、いつか、もういいかなって思える日が来るんじゃないかって……」


「……」


「でも、ひょんなことから天城さんと出会って、その仕草や立ち振る舞いを、ついいつもの癖で観察しちゃって……」


 凪沙は少しだけ微笑んだ。


「そしたら、なんて素敵な立ち振る舞いなんだろうって感動して……」


 そこで一度、言葉を切った。


「諦めかけていた夢を、もう一度追いかけたくなったんです」


 麗翔は、じっと凪沙を見つめていた。


「だったらよ……」


「でも……」


 凪沙は麗翔を見つめた。


「今は、別の夢ができてしまったんです」


 麗翔は黙ったまま、凪沙の次の言葉を待った。


「昨日、わかったんです。天城さんも、私と同じ気持ちなんだって……」


 凪沙はまっすぐに麗翔を見つめた。


「天城さんも、私の気持ちに気づいていますよね?」


「……」


「私、あなたと一緒にいたいんです」


 凪沙の声が、わずかに震えた。


「そして、天城さんの夢を叶えるお手伝いをしたいんです」


「……俺の夢?」


「はい。昨日教えてもらった、小さな運送会社を作るっていう、あの夢です」


 凪沙は優しく微笑んだ。


「一緒に、叶えたいんです」


 沈黙が流れた。


 麗翔は何も言わず、凪沙を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……俺がいつ、叶えてくれって頼んだよ?」


「……えっ?」


 凪沙の笑顔が消えた。


「俺の夢は、俺の夢だろ。お前に手伝ってもらうつもりなんかねえよ」


「天城さん……」


 思いもよらない言葉に、凪沙は目を見開いた。


 麗翔はその視線を受け止めず、顔を背けた。


「お前さ、宝塚音楽学校に入るのが、どれだけ大変か忘れちまったのか?」


「……え?」


「毎年、何百人も受験して、みんな小さい頃からバレエだの声楽だの、必死になって稽古してさ」


 凪沙は驚いたように麗翔を見つめた。


 ……どうして、そんなことまで?


「やっと合格したって、今度は予科だの本科だの、厳しい稽古が待ってるんだろ?」


 もしかして、私のために……


 麗翔は女主人に目を向けた。


「このババァだってそうだ」


「……」


「何度も受験して、何度も落ちて。それでも舞台に立つ夢が捨てられなくて、結局、別の劇団で舞台に立ってたんだ」


 女主人は何も答えなかった。


「そこまでしても、夢を諦められねえ人間がいるんだよ」


 麗翔は再び凪沙に向き直った。


「なのにお前は、その宝塚に入ったんだろ? それも、立派に舞台に立ってる」


「……」


「だったら、なんで捨てちまうんだよ! お前がどれだけの人の夢を背負ってるか、それも忘れちまったのかよ!」


 麗翔の声が、わずかに震えた。


「俺だって、見てみたいんだよ……」


「……」


「稽古のつもりで歩いてただけで、この俺を車道によけさせた奴が!」


凪沙は唇を噛んだ。


「俺の仕草や立ち振る舞いを真似した奴が……」


 麗翔は、まっすぐ凪沙を見つめた。


「こんな小汚い喫茶店を、まるで宮殿みてえな世界に変えちまった奴が!」


 女主人も、黙って麗翔の言葉を聞いていた。


「お前の演技を見て、嫉妬のあまりオカマみたいだったなんて、心にもないことを言わせた奴が!」


「……天城さん」


 凪沙の声は、震えていた。


「あのフードコートで、怒鳴ってた女たちを、一瞬で惚れさせた奴が!」


 麗翔は、声を詰まらせた。


「たった一日で、見違えるほどすげえ演技をするようになった奴が!」


 麗翔は一度、唇を噛んだ。


「そして……」


 麗翔の瞳から、涙が溢れた。


「俺が…… 初めて好きになった奴が……」


 凪沙の瞳からも、同じように涙が溢れていた。 


「あの宝塚で、どこまで通用するのか……」


 麗翔は涙を拭おうともせず、声を振り絞った。


「俺だって、見てみたいんだよ……」


 凪沙は、次から次へと溢れてくる涙を、何度も何度も拭っていた。


 けれど、拭っても拭っても、涙は止まらなかった。


「……行けよ」


 麗翔は涙を拭い、凪沙をまっすぐに見つめた。


「宝塚に、戻れよ」


「……天城さん」


「もう二度と、ここには来るな!」


 凪沙は泣きながら首を横に振った。


「俺も…… お前にはもう会わない」


 麗翔は声を震わせながら、それでも言い切った。


「だから…… 行けよ」


 凪沙は、しばらく涙を拭っていた。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


 麗翔をまっすぐに見つめ、深く頭を下げた。


「……あ、ありがとう…… ござい、ました……」


 凪沙は涙を拭い、ゆっくりと一歩を踏み出した。


 振り返りたかった。


 もう一度、麗翔の顔を見たかった。


 本当は、この店から出ていきたくなかった。


 けれど、その想いをすべて胸の奥に押し込めた。


 涙は、あとからあとから溢れてきた。


 それでも背筋をまっすぐに伸ばし、一歩、また一歩と歩いていく。


 そして凪沙は、最後まで振り返ることなく、喫茶アンコールのドアを開けた。


 カラン、カラン……


 ドアベルの音が、静かな店内に響いた。


 麗翔は、凪沙が出ていった扉を見つめていた。


 やがて、その場に崩れ落ちた。


 両手で顔を覆い、必死に声を押し殺した。


 ただ、指の隙間から、涙がとめどなくこぼれ落ちていた。


 女主人は、声を殺して泣き崩れる麗翔を、黙って見つめていた。


 そして、心の中でそっと語りかけた。


 ……凪沙ちゃん。


 あんたは、小さい頃からバレエも演技も才能があったよ。


 そして…… 男を見る目もあったんだね……


 こんなやせ我慢、本物の男にしかできやしないさ。


 女主人は、声を殺して泣く麗翔を見つめ、小さく頷いた。


 この子の想いも、亡くなったお母さんたちの想いも、私の願いも、みんな一緒に背負って、夢を叶えておいで。


 あなたなら、きっとできるよ……


 女主人の頬を、一筋の涙が伝った。




 このあと、凪沙の宝塚歌劇団への復帰は、正式に認められた。


 ただし、異例の復帰とあって、あらためて面談と演技審査が行われた。


 長期の休演を経た彼女に、以前と同じように舞台を務められるのか、疑問を抱く者もいた。


 しかし、その疑問は、凪沙が演技を始めた瞬間に消え去った。


 立ち姿、視線の運び、そして何気ない指先の動き。


 そのすべてが、以前の彼女とは違っていた。


 そして、凪沙が歩き出したとき、審査員たちは思わず顔を見合わせた。


 力みも、迷いもない。


 まさに自然体だった。


 ただ歩いているだけなのに、目を奪われる。


 審査を終えたとき、復帰に反対する者は、もう一人もいなかった。



 それから数年後。


 柏木凪沙、芸名・白凪玲央は、研11にして、ついに宝塚歌劇団の男役トップスターに就任した。


 その舞台の客席には、身なりをきちんと整えた、一人の男の姿があった。


 今では、小さな運送会社を営んでいるという。


 男は、舞台の中央で喝采を浴びる白凪玲央を、優しく見つめていた。


 そして、誰よりも惜しみない拍手を送り続けていた。


 その二年後。


 白凪玲央は、多くのファンに惜しまれながら、宝塚歌劇団を退団した。


 芸能界へ進むこともなく、その後の消息は途絶えた。


 しかし、とある小さな町の、小さな運送会社で、白凪玲央によく似た女性を見かけたというファンの報告があった。


 だが、それはあくまでも、噂にすぎなかった。


 

『Dream&どりーむ』<完>


 


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 この物語を書くきっかけになったのは、偶然目にした、宝塚歌劇団の男役スターが歩いている動画でした。

 ただ歩いているだけなのに、なぜか目を奪われる。

 その姿を見た瞬間、ふと、こんなことを考えました。

 もし、誰にも道を譲らないような乱暴な男が、この人とすれ違ったら、どうなるんだろう。

 そんな小さな思いつきから、麗翔と凪沙の物語は始まりました。

 書き始めると、二人は私の想像以上に賑やかで、勝手気ままに動き回ってくれました。

 そこに口の悪い女主人まで加わり、気がつけば、私自身がこの三人のやり取りを楽しんでいました。

 次は何が起こるのだろう。

 二人は、これからどうなっていくのだろう。

 作者である私自身が、早く結末を知りたくて、夢中で書き進めていました。

 この作品には、さまざまな想いを込めています。

 けれど、それをここで一つひとつ説明するつもりはありません。

 読んでくださった方が、それぞれの感じ方で、この物語を受け取っていただけたら嬉しいです。

 そして、最後に残された小さな噂。

 その先に、どんな物語が待っているのか。

 それは、皆様のご想像にお任せしたいと思います。

 麗翔と凪沙、そして喫茶アンコールの女主人とともに過ごした時間が、皆様の心に少しでも残ってくれたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。

 

 本当にありがとうございました。


スピンオフ作品


『喫茶アンコール ~もうひとつのドリーム~』もよろしくお願いします。


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