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消えかけの留守電に残された、あなたの『好きだよ』を私はまだ消せない

作者: uta
掲載日:2026/05/24

深夜二時。私はまた、死んだはずの恋人に会いに行く。


――嘘。死んでなんかない。ただ、私の前から消えただけ。


古いスマートフォンの電源を入れる。画面が青白く光って、暗い部屋に私の顔を浮かび上がらせた。目の下の隈。荒れた唇。三年前より確実に老けた顔が、そこにある。


『留守電メッセージ:1件』


この表示を見るたび、心臓が嫌な音を立てる。ドクン、と一度だけ強く脈打って、それから静かになる。まるで死刑宣告を待つみたいに。


再生ボタンを、押した。


ザザ、という砂嵐みたいなノイズ。三年間、何百回と聞いた音。その奥から、かすかに――本当にかすかに、彼の声が聞こえる。


『……莉子、俺は――』


そこから先は、もう聞き取れない。


何度再生しても。耳を澄ませても。音量を最大にしても。彼が最後に何を言ったのか、私には永遠にわからない。


『――お前のためなんだ』


『――俺のことは忘れて』


そう言っているように、聞こえた。三年前は。


だから私は忘れようとした。別の人と出会って、付き合って、婚約までした。左手の薬指には、百万円もする指輪が光っている。翔太さんが「君にふさわしいものを」と言って買ってくれた、完璧な婚約指輪。


なのに。


「……っ」


深夜になると、私はこうして古いスマホを取り出してしまう。


ベッドの隣で眠る婚約者に背を向けて。壊れかけの音声に耳を傾けて。もう聞き取れもしない「好きだよ」を探している。


惨めだ。


自分でもわかってる。こんなの、ただの執着だ。未練だ。病気だ。


蒼真はもう、私のことなんか覚えてもいないかもしれないのに。


『……莉子』


ノイズの向こうで、彼が私の名前を呼ぶ。


その声だけは、まだ鮮明に聞こえる。低くて、少しかすれていて、でも優しい声。大学時代、毎日のように聞いていた声。


「……蒼真」


誰にも聞こえないように、私も名前を呼び返す。


馬鹿みたい。


本当に、馬鹿みたい。


隣の寝室で寝返りを打つ音がした。翔太さんが目を覚ましたのかもしれない。慌ててスマホの画面を消して、布団に潜り込む。


暗闇の中で、左手の指輪が冷たく光っていた。


この指輪を見るたびに思う。私は最低な女だ、と。


翔太さんは優しくて、誠実で、私を大切にしてくれる。「傷ついた君を守りたい」と言ってくれた。申し分のない人だ。


なのに私の心は、三年前に時間が止まったまま。


蒼真。


どうして何も言わずにいなくなったの。


どうして私を置いていったの。


どうして――最後に「忘れて」なんて言ったの。


答えは返ってこない。当たり前だ。彼はもう、私の人生のどこにもいないのだから。


目を閉じる。


明日も会社がある。明後日は翔太さんの両親との食事会。来月には結婚式の打ち合わせ。私の人生は、着々と「前」に進んでいる。


進んでいる、はずなのに。


私だけが、三年前のあの夜に取り残されたまま。


消えかけの留守電を抱きしめて、眠れない夜を過ごしている。



蒼真と初めて会ったのは、五歳の時だった。


隣の家に引っ越してきた、無口で不愛想な男の子。挨拶もろくにしないで、じっと私を見ていた。


「ねえ、お名前は?」


私が聞いても、彼は黙ったまま。困って母を見上げると、彼の母親――志乃おばさんが苦笑いしながら言った。


「ごめんなさいね、この子人見知りで。蒼真っていうの」


「そうま」


名前を復唱すると、彼は少しだけ目を見開いた。それが嬉しかったことを、今でも覚えている。


私たちはすぐに仲良くなった。


蒼真は相変わらず無口だったけど、私の話はちゃんと聞いてくれた。学校で嫌なことがあった時、泣きながら帰ってきた私の隣に、黙って座っていてくれた。


「……大丈夫か」


彼が声をかけてくれるのは、いつも最後の最後。でもその一言が、どんな慰めより心に沁みた。


中学、高校と、私たちはずっと一緒だった。


周りからは「付き合ってるの?」と何度も聞かれた。そのたびに「違うよ、幼馴染だから」と笑って否定していたけど――本当は、とっくに好きだった。


気づいたのは高校二年の夏。


花火大会の帰り道、浴衣姿の私を見て蒼真が言った。


「……似合ってる」


たった一言。でも彼にしては珍しい、素直な言葉だった。


街灯の下で立ち止まって、私を見下ろす蒼真。少し長くなった前髪の奥で、切れ長の目が揺れていた。


心臓が、ドクンと跳ねた。


ああ、私、この人のことが好きなんだ。


そう自覚した瞬間、世界の色が変わった気がした。


大学に入って、やっと両想いになれた。


告白したのは私から。入学式の帰り道、桜並木の下で、震える声で「好き」と言った。


蒼真は長い沈黙の後、ぽつりと答えた。


「……俺も」


不器用で、ぶっきらぼうで、でも確かに「好き」と言ってくれた。


それからの二年間は、夢みたいだった。


一緒に講義を受けて、一緒に帰って、休日は映画を観たりカフェに行ったり。特別なことは何もなかったけど、蒼真と過ごす時間はどれも愛おしかった。


「卒業したら、一緒に住もうか」


三年生の冬、彼がそう言った。


プロポーズじゃなかったけど、私にはそう聞こえた。嬉しくて泣いて、蒼真を困らせたのを覚えている。


この人と、ずっと一緒にいられる。


一生、隣にいられる。


そう、信じていたのに。



卒業式の前日。


蒼真は、何も言わずに消えた。


朝起きたら、LINEがブロックされていた。電話は繋がらない。実家に行っても「蒼真は出かけた」と言われるだけ。


何が起きたのか、わからなかった。


昨日まで普通だったのに。「明日、一緒に式出よう」って約束したのに。


パニックになって、泣いて、吐いて、それでも彼は戻ってこなかった。


残されたのは、たった一件の留守電だけ。


『莉子、俺は――お前のためなんだ。だから、俺のことは忘れて』


忘れて?


何を?


二十年以上一緒にいた幼馴染を?


二年間愛し合った恋人を?


「……ふざけないでよ」


声が震えた。涙が止まらなかった。


何度も何度も留守電を聞いた。彼の声を聞くたびに、胸が引き裂かれるように痛んだ。


どうして。


どうして、何も言ってくれなかったの。


答えはなかった。三年経った今も、ない。



「莉子、聞いてる?」


翔太さんの声で、意識が現実に引き戻された。


日曜日の昼下がり。婚約者とカフェでランチをしていた、はずだった。


「あ……ごめん、ちょっとぼーっとしてた」


「最近多いよね、そういうの」


彼の声には、かすかな苛立ちが混じっていた。


翔太さんは完璧な人だ。高身長で端正な顔立ち、大手企業の管理職で、収入も申し分ない。結婚相手としては、これ以上ないくらいの「正解」。


「体調悪いなら言って。病院連れてくから」


「ううん、大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」


嘘をついた。本当は、昨夜も留守電を聞いて眠れなかっただけ。


「……そう」


翔太さんはコーヒーカップを置いて、私の顔をじっと見た。


「最近さ、夜中に起きてること多くない?」


どきり、と心臓が跳ねた。


「え……」


「気づいてないと思った? 君が布団から出て、何かこそこそやってるの」


「それは……」


「スマホ見てるんでしょ。古いやつ」


呼吸が止まった。


知られていた。バレていた。私が毎晩、元カレの留守電を聞いていることを。


「翔太さん、違うの、あれは」


「違わないよ」


彼の声が、一段冷たくなった。


「まだあいつのこと、引きずってるんでしょ」


「……」


否定できなかった。


「もう三年だよ、莉子。いい加減にしないと」


いい加減に。


その言葉が、胸に突き刺さった。


わかってる。わかってるよ。三年も前に終わった恋を引きずってる私がおかしいことくらい。


「俺じゃ、駄目なの」


翔太さんの声が、珍しく震えていた。


「俺は君のこと、本気で好きなんだよ。傷ついてた君を見つけて、守りたいと思って、ここまで来たのに」


「……ごめんなさい」


謝ることしかできなかった。


翔太さんは間違っていない。彼は優しくて、誠実で、私を大切にしてくれる。


でも。


彼の「好き」は、私の心の一番深いところには届かない。


そこにはまだ、蒼真がいるから。


消えかけの声だけを残して、いなくなった人が。



きっかけは、美羽の何気ない一言だった。


「ねえ莉子、音声修復アプリって知ってる?」


会社の昼休み、いつものように二人でコンビニ弁当を食べていた時のこと。美羽は派手な巻き髪をくるくる弄りながら、スマホの画面を見せてきた。


「なにそれ」


「古い録音とか、ノイズだらけの音声をAIが修復してくれるやつ。昨日テレビでやってたんだけどさ、めっちゃすごいの。亡くなったおばあちゃんの声が蘇った、みたいな」


心臓が、一瞬止まった。


「……修復?」


「そ。聞き取れなかった部分もクリアになるんだって。技術の進歩ってすごいよねー」


美羽は何気なく言っただけだった。私があの留守電をまだ持っていることなんて、知らないから。


でも。


私の頭の中で、何かがカチリと噛み合った。


聞き取れなかった部分が、クリアになる。


つまり。


蒼真が最後に何を言ったのか、わかるかもしれない。


「……美羽、そのアプリの名前、教えて」


「え? いいけど……なんで?」


「ちょっと、気になることがあって」


「ふーん?」


美羽は怪訝そうな顔をしたけど、それ以上は聞いてこなかった。彼女は昔からそういうところがある。詮索せずに、でもちゃんと見ていてくれる。


「ありがと」


「どういたしまして。……ねえ莉子」


「ん?」


「最近、顔色悪いよ。ちゃんと寝てる?」


「……まあまあ」


「翔太さんとは上手くいってんの?」


「……まあまあ」


「『まあまあ』ばっかじゃん」


美羽は呆れたように笑った。でもその目は、少しだけ心配そうだった。


「あんたさあ、本当にそれでいいの? 結婚」


「……いいも何も、もう決まったことだし」


「決まったことは変えられないって、誰が決めたの」


「…………」


答えられなかった。



その夜。


翔太さんが出張でいない日を選んで、私は古いスマホを取り出した。


アプリはすでにダウンロードしてある。有料版を購入するのに少し躊躇ったけど、三年分の疑問が解けるなら安いものだ。


深呼吸する。


留守電を読み込ませる。


画面に波形が表示されて、AIが解析を始めた。『修復中……』の文字が点滅する。


一分。


二分。


三分。


『修復完了』


指が震えた。再生ボタンを押すのが、怖い。


三年間、ずっと聞きたかったはずなのに。真実を知るのが、怖い。


でも。


「……聞かなきゃ」


そうしないと、私は一生このままだ。消えかけの声に縋って、前にも後ろにも進めないまま。


意を決して、再生ボタンを押した。


ザザ、というノイズが――消えた。


クリアな音声が、スピーカーから流れてくる。


『莉子』


蒼真の声だ。


三年ぶりに聞く、鮮明な彼の声。低くて、少しかすれていて、でも今までで一番はっきりと聞こえる。


『莉子、俺は――お前のことが好きだよ』


息を呑んだ。


好き。


好きだよ、と言っている。忘れて、じゃない。好きだよ、と。


『だから、俺の病気のことは、知らないままでいてくれ』


――病気?


頭が真っ白になった。


病気って、なに。蒼真が、病気?


『お前の人生を、縛りたくないんだ』


彼の声が、震えている。泣いているみたいに、震えている。


『俺は……たぶん、長くない。医者にそう言われた。だから』


長くない。


その言葉の意味を理解した瞬間、視界が歪んだ。涙が溢れて、止まらなかった。


『お前には、幸せになってほしい。俺のことなんか忘れて、別の誰かと笑っていてほしい。だから――俺のことは、忘れてくれ』


嘘だ。


全部、嘘だったんだ。


蒼真は私を捨てたんじゃない。私を「縛りたくない」から、自分から離れたんだ。


病気で。死ぬかもしれなくて。それでも私の幸せを願って。


「なんで……っ」


声が震えた。嗚咽が漏れた。


なんで言ってくれなかったの。


一緒に泣きたかった。一緒に怖がりたかった。たとえ結末がどうなっても、最後まで隣にいたかった。


なのに。


『三年後、もし俺がまだ生きてたら』


音声の最後、蒼真は静かに言った。


『そのときは――』


音声が、途切れた。


「……そのときは、なに」


続きがない。そこで録音が終わっている。


でも。


三年後。


その言葉が、頭の中でぐるぐる回った。


今日は何日だっけ。カレンダーを確認する。三月十四日。卒業式の前日から、ちょうど――


「三年」


声に出して、気づいた。


今日で、ちょうど三年だ。


蒼真がいなくなってから。あの留守電が残されてから。


彼は言った。『三年後、もし俺がまだ生きてたら』と。


つまり。


もし蒼真が生きているなら。三年経った今日、彼は何かを待っているのかもしれない。


私が、来るのを。


気づいたら、立ち上がっていた。


コートを掴む。財布とスマホをポケットに突っ込む。玄関に向かおうとして――左手の指輪が、目に入った。


翔太さんの婚約指輪。


三秒、迷った。


五秒、迷った。


そして。


私は指輪を外して、テーブルの上に置いた。


「……ごめんなさい」


誰にともなく呟いて、玄関を飛び出した。



深夜の電車は、がらんとしていた。


終電にぎりぎり間に合って、私は座席に崩れ落ちた。息が上がっている。心臓がうるさい。でも、止まれなかった。


蒼真の実家は、隣の県にある。私の実家の、すぐ隣の家。


住所は、今でも覚えている。二十年以上、毎日のように通った道だから。


電車が揺れるたびに、さっき聞いた音声が頭の中でリピートされる。


『お前のことが好きだよ』


『俺の病気のことは、知らないままでいてくれ』


『三年後、もし俺がまだ生きてたら――』


蒼真。


生きていて。お願いだから、生きていて。


窓の外を、夜景が流れていく。街灯の光がぼやけて見えるのは、まだ涙が止まらないからだ。


スマホが震えた。


LINEの通知。美羽からだ。


『ねえ、どうしたの? 翔太さんから連絡来たんだけど。莉子が指輪置いていなくなったって』


既読をつけてしまった。返信しないわけにはいかない。


『ごめん。説明は後で。今、電車の中』


『は? こんな時間に? どこ行くの?』


『……蒼真のところ』


送信してから、後悔した。美羽に余計な心配をかける。


案の定、すぐに返信が来た。


『え、ちょっと待って。あの蒼真? 三年前に消えた元カレの?』


『うん』


『なんで今さら』


『留守電、聞いたの。ちゃんと聞いたら、全然違うこと言ってた』


『……どういうこと?』


長くなるから、要点だけ打った。


『蒼真、病気だったみたい。私を縛りたくなくて、離れたんだって。三年後に生きてたら、って言ってた。今日で三年』


既読がついて、数秒の沈黙。


そして。


『行ってこい馬鹿』


たった一言。でもその一言に、美羽の全部が詰まっていた。


『ありがとう』


『翔太さんのことは私がなんとかしとく。あんたは自分のことだけ考えな』


『……本当にありがとう』


『走れ莉子。三年分、取り戻してこい』


スマホを握りしめて、私は泣いた。


美羽。本当に、いい友達を持った。


電車が駅に着くたびに、心臓が跳ねる。あと三駅。あと二駅。あと一駅。


深夜二時。終点に着いた。


ホームに降りると、三月の夜風が頬を刺した。寒い。でも、止まれない。


駅から蒼真の実家まで、歩いて二十分。走れば十分ちょっと。


私は走った。


息が切れても、足が痛くても、走り続けた。何度も転びそうになって、何度も膝が震えて、それでも止まらなかった。


三年間、私は立ち止まっていた。


消えかけの声に縋って、前にも後ろにも進めなかった。


でも今は違う。今、私は走っている。蒼真のところへ、自分の足で。


住宅街の角を曲がる。見慣れた道。子供の頃、何度も通った道。


蒼真の家が、見えてきた。


二階建ての白い一軒家。庭には昔と同じ梅の木。三年前と、何も変わっていない。


玄関の前で、足が止まった。


……呼び鈴を、押していいんだろうか。


深夜だ。非常識にもほどがある。志乃おばさんにも蒼真にも、迷惑をかける。


でも。


待てない。一秒でも早く、彼に会いたい。彼が生きているか、この目で確かめたい。


震える指を伸ばして、呼び鈴に触れようとした、その瞬間。


ガチャリ、と玄関のドアが開いた。


「――あら」


穏やかな声。白髪の混じった髪。見覚えのある、優しい笑顔。


「志乃、おばさん……」


「莉子ちゃん」


蒼真の母親は、驚いた顔をしていなかった。むしろ、待っていたかのような。そんな顔で、私を見ていた。


「こんな時間に、ごめんなさい。私……」


「いいのよ」


志乃おばさんは、静かに微笑んだ。


「あの子、ずっと待ってたの」


その言葉に、涙が溢れた。


待ってた。蒼真が、私を待ってた。


「二階よ。上がって」


「……はい」


玄関を上がって、階段を駆け上がる。二階の廊下、一番奥の部屋。蒼真の部屋。


深呼吸して、ドアをノックした。


返事はない。


もう一度、ノック。


「……蒼真」


名前を呼んだ。三年ぶりに、彼に向かって名前を呼んだ。


数秒の沈黙。


そして、ドアが、ゆっくりと開いた。



ドアの向こうに、彼がいた。


痩せていた。記憶の中の蒼真より、ずっと。骨ばった輪郭、青白い肌、少し長くなった黒髪。


でも、確かに蒼真だった。


切れ長の目が、私を見つめている。三年前と同じ、深い黒の瞳。


「……莉子?」


掠れた声で、彼が私の名前を呼んだ。


驚いている。信じられないものを見るみたいに、目を見開いている。でもその瞳は、泣きそうに揺れていた。


「蒼真」


声が震えた。涙が溢れた。止まらなかった。


「三年……経ったよ」


「……」


「だから」


息を吸う。彼の目を、真っ直ぐに見つめる。


「続きを、聞かせて」


沈黙が落ちた。


蒼真は何も言わない。ただ、じっと私を見ている。その表情が、少しずつ崩れていく。張り詰めていた糸が、ぷつんと切れるみたいに。


「……なんで」


彼の声が、震えていた。


「なんで、来たんだ。お前には、婚約者がいるって……母さんから聞いた。幸せになったんじゃ、なかったのか」


「幸せじゃなかった」


即答した。嘘をつく気力なんて、もう残っていなかった。


「三年間、毎晩あの留守電聞いてた。何度も何度も、あなたの声を聞いてた。消えかけて、もう聞き取れなくなっても、やめられなかった」


「莉子……」


「婚約者がいても、他の人と付き合っても、私はずっとあなたのことを考えてた。あなたが最後に何を言ったのか、ずっと知りたかった」


涙が頬を伝って、顎から落ちる。


「今日、やっとわかった。修復アプリで、聞いたの」


蒼真の顔色が、変わった。


「……聞いたのか」


「うん。全部」


『お前のことが好きだよ』


『俺の病気のことは、知らないままでいてくれ』


『お前の人生を、縛りたくないんだ』


「なんで言ってくれなかったの」


声が裏返った。怒りなのか悲しみなのか、自分でもわからない感情が込み上げてくる。


「一緒に泣きたかった。一緒に怖がりたかった。病気だって、死ぬかもしれないって、全部一緒に背負いたかった」


「……俺は」


「あなたの人生は、あなただけのものじゃないよ。私にとっても、大切な人生だった。それを、勝手に決めないでよ」


最後は、叫ぶみたいになっていた。


蒼真は黙って、私の言葉を聞いていた。そして――


「……ごめん」


絞り出すように、言った。


「ごめん、莉子。俺は、お前を傷つけたかったわけじゃ」


「わかってる」


私は彼の言葉を遮った。


「わかってるよ。あなたが私を想ってくれてたこと。だから余計に、悔しいの」


「…………」


「三年も、無駄にした」


声が詰まった。


「三年も、離れてた。一緒にいられたはずの時間を、全部無駄にした」


蒼真が、一歩前に出た。


痩せた手が伸びてきて、私の頬に触れた。涙を、拭うように。


「……三年、待っててくれたのか」


「待ってたよ。ずっと」


「他の男と婚約しながら?」


「……うん」


ちょっとだけ、皮肉な笑みが浮かんだ。昔の蒼真の笑い方だ。不器用で、でも優しい笑い方。


「最低な女だな」


「うるさい。あなたのせいでしょ」


「……そうだな。俺のせいだ」


彼の手が、私の頬から髪へ移動する。三年前と同じように、優しく撫でる。


「病気は、どうなったの」


「……五分五分だった。手術して、治療して、なんとか生き延びた」


「今は?」


「まだ経過観察中。でも、医者は楽観的だ」


生きてる。蒼真は、生きてる。


安堵で、膝から力が抜けた。崩れ落ちそうになった私を、蒼真が支えた。


「……莉子」


「ん」


「あの留守電の、続き」


「うん」


彼は一度、深く息を吸った。そして、真っ直ぐに私の目を見て言った。


「三年後、もし俺がまだ生きてたら。そのときは、もう一度お前に会いに行く。それで――」


言葉が、一度途切れる。


「もう一度、好きだって言わせてくれ」


三年間、聞きたかった言葉。


三年間、待っていた言葉。


「……遅いよ、馬鹿」


私は泣きながら、笑った。


「もう、言ってるじゃん」


蒼真の腕が、私を抱きしめた。痩せた体。骨ばった肩。でも、確かに温かかった。生きている人の、温もりだった。


「好きだ、莉子」


耳元で、彼が囁いた。


「三年間、ずっと好きだった。忘れてくれって言ったくせに、忘れてほしくなかった。最低な男だ」


「知ってる」


「……お前、もしかしてちょっと怒ってる?」


「ちょっとじゃない。めちゃくちゃ怒ってる」


「だよな」


「三年分、怒ってる。三年分、文句言うからね」


「……いくらでも聞く」


蒼真の声が、笑っていた。泣きながら、笑っていた。


窓の外が、少しずつ明るくなってきた。夜が明ける。止まっていた時間が、ようやく動き出す。


「ねえ、蒼真」


「ん」


「私、婚約破棄してきた」


「……知ってる。母さんから聞いた」


「責任、取ってね」


蒼真が、小さく笑った。


「……ああ。一生かけて、取る」


消えかけの留守電が繋いだ、三年分の想い。


それが今、ようやく届いた。


私は蒼真の胸に顔を埋めて、もう一度だけ泣いた。今度は、嬉しくて。


明け方の光が、二人を照らしていた。

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