消えかけの留守電に残された、あなたの『好きだよ』を私はまだ消せない
深夜二時。私はまた、死んだはずの恋人に会いに行く。
――嘘。死んでなんかない。ただ、私の前から消えただけ。
古いスマートフォンの電源を入れる。画面が青白く光って、暗い部屋に私の顔を浮かび上がらせた。目の下の隈。荒れた唇。三年前より確実に老けた顔が、そこにある。
『留守電メッセージ:1件』
この表示を見るたび、心臓が嫌な音を立てる。ドクン、と一度だけ強く脈打って、それから静かになる。まるで死刑宣告を待つみたいに。
再生ボタンを、押した。
ザザ、という砂嵐みたいなノイズ。三年間、何百回と聞いた音。その奥から、かすかに――本当にかすかに、彼の声が聞こえる。
『……莉子、俺は――』
そこから先は、もう聞き取れない。
何度再生しても。耳を澄ませても。音量を最大にしても。彼が最後に何を言ったのか、私には永遠にわからない。
『――お前のためなんだ』
『――俺のことは忘れて』
そう言っているように、聞こえた。三年前は。
だから私は忘れようとした。別の人と出会って、付き合って、婚約までした。左手の薬指には、百万円もする指輪が光っている。翔太さんが「君にふさわしいものを」と言って買ってくれた、完璧な婚約指輪。
なのに。
「……っ」
深夜になると、私はこうして古いスマホを取り出してしまう。
ベッドの隣で眠る婚約者に背を向けて。壊れかけの音声に耳を傾けて。もう聞き取れもしない「好きだよ」を探している。
惨めだ。
自分でもわかってる。こんなの、ただの執着だ。未練だ。病気だ。
蒼真はもう、私のことなんか覚えてもいないかもしれないのに。
『……莉子』
ノイズの向こうで、彼が私の名前を呼ぶ。
その声だけは、まだ鮮明に聞こえる。低くて、少しかすれていて、でも優しい声。大学時代、毎日のように聞いていた声。
「……蒼真」
誰にも聞こえないように、私も名前を呼び返す。
馬鹿みたい。
本当に、馬鹿みたい。
隣の寝室で寝返りを打つ音がした。翔太さんが目を覚ましたのかもしれない。慌ててスマホの画面を消して、布団に潜り込む。
暗闇の中で、左手の指輪が冷たく光っていた。
この指輪を見るたびに思う。私は最低な女だ、と。
翔太さんは優しくて、誠実で、私を大切にしてくれる。「傷ついた君を守りたい」と言ってくれた。申し分のない人だ。
なのに私の心は、三年前に時間が止まったまま。
蒼真。
どうして何も言わずにいなくなったの。
どうして私を置いていったの。
どうして――最後に「忘れて」なんて言ったの。
答えは返ってこない。当たり前だ。彼はもう、私の人生のどこにもいないのだから。
目を閉じる。
明日も会社がある。明後日は翔太さんの両親との食事会。来月には結婚式の打ち合わせ。私の人生は、着々と「前」に進んでいる。
進んでいる、はずなのに。
私だけが、三年前のあの夜に取り残されたまま。
消えかけの留守電を抱きしめて、眠れない夜を過ごしている。
◇
蒼真と初めて会ったのは、五歳の時だった。
隣の家に引っ越してきた、無口で不愛想な男の子。挨拶もろくにしないで、じっと私を見ていた。
「ねえ、お名前は?」
私が聞いても、彼は黙ったまま。困って母を見上げると、彼の母親――志乃おばさんが苦笑いしながら言った。
「ごめんなさいね、この子人見知りで。蒼真っていうの」
「そうま」
名前を復唱すると、彼は少しだけ目を見開いた。それが嬉しかったことを、今でも覚えている。
私たちはすぐに仲良くなった。
蒼真は相変わらず無口だったけど、私の話はちゃんと聞いてくれた。学校で嫌なことがあった時、泣きながら帰ってきた私の隣に、黙って座っていてくれた。
「……大丈夫か」
彼が声をかけてくれるのは、いつも最後の最後。でもその一言が、どんな慰めより心に沁みた。
中学、高校と、私たちはずっと一緒だった。
周りからは「付き合ってるの?」と何度も聞かれた。そのたびに「違うよ、幼馴染だから」と笑って否定していたけど――本当は、とっくに好きだった。
気づいたのは高校二年の夏。
花火大会の帰り道、浴衣姿の私を見て蒼真が言った。
「……似合ってる」
たった一言。でも彼にしては珍しい、素直な言葉だった。
街灯の下で立ち止まって、私を見下ろす蒼真。少し長くなった前髪の奥で、切れ長の目が揺れていた。
心臓が、ドクンと跳ねた。
ああ、私、この人のことが好きなんだ。
そう自覚した瞬間、世界の色が変わった気がした。
大学に入って、やっと両想いになれた。
告白したのは私から。入学式の帰り道、桜並木の下で、震える声で「好き」と言った。
蒼真は長い沈黙の後、ぽつりと答えた。
「……俺も」
不器用で、ぶっきらぼうで、でも確かに「好き」と言ってくれた。
それからの二年間は、夢みたいだった。
一緒に講義を受けて、一緒に帰って、休日は映画を観たりカフェに行ったり。特別なことは何もなかったけど、蒼真と過ごす時間はどれも愛おしかった。
「卒業したら、一緒に住もうか」
三年生の冬、彼がそう言った。
プロポーズじゃなかったけど、私にはそう聞こえた。嬉しくて泣いて、蒼真を困らせたのを覚えている。
この人と、ずっと一緒にいられる。
一生、隣にいられる。
そう、信じていたのに。
◇
卒業式の前日。
蒼真は、何も言わずに消えた。
朝起きたら、LINEがブロックされていた。電話は繋がらない。実家に行っても「蒼真は出かけた」と言われるだけ。
何が起きたのか、わからなかった。
昨日まで普通だったのに。「明日、一緒に式出よう」って約束したのに。
パニックになって、泣いて、吐いて、それでも彼は戻ってこなかった。
残されたのは、たった一件の留守電だけ。
『莉子、俺は――お前のためなんだ。だから、俺のことは忘れて』
忘れて?
何を?
二十年以上一緒にいた幼馴染を?
二年間愛し合った恋人を?
「……ふざけないでよ」
声が震えた。涙が止まらなかった。
何度も何度も留守電を聞いた。彼の声を聞くたびに、胸が引き裂かれるように痛んだ。
どうして。
どうして、何も言ってくれなかったの。
答えはなかった。三年経った今も、ない。
◇
「莉子、聞いてる?」
翔太さんの声で、意識が現実に引き戻された。
日曜日の昼下がり。婚約者とカフェでランチをしていた、はずだった。
「あ……ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「最近多いよね、そういうの」
彼の声には、かすかな苛立ちが混じっていた。
翔太さんは完璧な人だ。高身長で端正な顔立ち、大手企業の管理職で、収入も申し分ない。結婚相手としては、これ以上ないくらいの「正解」。
「体調悪いなら言って。病院連れてくから」
「ううん、大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
嘘をついた。本当は、昨夜も留守電を聞いて眠れなかっただけ。
「……そう」
翔太さんはコーヒーカップを置いて、私の顔をじっと見た。
「最近さ、夜中に起きてること多くない?」
どきり、と心臓が跳ねた。
「え……」
「気づいてないと思った? 君が布団から出て、何かこそこそやってるの」
「それは……」
「スマホ見てるんでしょ。古いやつ」
呼吸が止まった。
知られていた。バレていた。私が毎晩、元カレの留守電を聞いていることを。
「翔太さん、違うの、あれは」
「違わないよ」
彼の声が、一段冷たくなった。
「まだあいつのこと、引きずってるんでしょ」
「……」
否定できなかった。
「もう三年だよ、莉子。いい加減にしないと」
いい加減に。
その言葉が、胸に突き刺さった。
わかってる。わかってるよ。三年も前に終わった恋を引きずってる私がおかしいことくらい。
「俺じゃ、駄目なの」
翔太さんの声が、珍しく震えていた。
「俺は君のこと、本気で好きなんだよ。傷ついてた君を見つけて、守りたいと思って、ここまで来たのに」
「……ごめんなさい」
謝ることしかできなかった。
翔太さんは間違っていない。彼は優しくて、誠実で、私を大切にしてくれる。
でも。
彼の「好き」は、私の心の一番深いところには届かない。
そこにはまだ、蒼真がいるから。
消えかけの声だけを残して、いなくなった人が。
◇
きっかけは、美羽の何気ない一言だった。
「ねえ莉子、音声修復アプリって知ってる?」
会社の昼休み、いつものように二人でコンビニ弁当を食べていた時のこと。美羽は派手な巻き髪をくるくる弄りながら、スマホの画面を見せてきた。
「なにそれ」
「古い録音とか、ノイズだらけの音声をAIが修復してくれるやつ。昨日テレビでやってたんだけどさ、めっちゃすごいの。亡くなったおばあちゃんの声が蘇った、みたいな」
心臓が、一瞬止まった。
「……修復?」
「そ。聞き取れなかった部分もクリアになるんだって。技術の進歩ってすごいよねー」
美羽は何気なく言っただけだった。私があの留守電をまだ持っていることなんて、知らないから。
でも。
私の頭の中で、何かがカチリと噛み合った。
聞き取れなかった部分が、クリアになる。
つまり。
蒼真が最後に何を言ったのか、わかるかもしれない。
「……美羽、そのアプリの名前、教えて」
「え? いいけど……なんで?」
「ちょっと、気になることがあって」
「ふーん?」
美羽は怪訝そうな顔をしたけど、それ以上は聞いてこなかった。彼女は昔からそういうところがある。詮索せずに、でもちゃんと見ていてくれる。
「ありがと」
「どういたしまして。……ねえ莉子」
「ん?」
「最近、顔色悪いよ。ちゃんと寝てる?」
「……まあまあ」
「翔太さんとは上手くいってんの?」
「……まあまあ」
「『まあまあ』ばっかじゃん」
美羽は呆れたように笑った。でもその目は、少しだけ心配そうだった。
「あんたさあ、本当にそれでいいの? 結婚」
「……いいも何も、もう決まったことだし」
「決まったことは変えられないって、誰が決めたの」
「…………」
答えられなかった。
◇
その夜。
翔太さんが出張でいない日を選んで、私は古いスマホを取り出した。
アプリはすでにダウンロードしてある。有料版を購入するのに少し躊躇ったけど、三年分の疑問が解けるなら安いものだ。
深呼吸する。
留守電を読み込ませる。
画面に波形が表示されて、AIが解析を始めた。『修復中……』の文字が点滅する。
一分。
二分。
三分。
『修復完了』
指が震えた。再生ボタンを押すのが、怖い。
三年間、ずっと聞きたかったはずなのに。真実を知るのが、怖い。
でも。
「……聞かなきゃ」
そうしないと、私は一生このままだ。消えかけの声に縋って、前にも後ろにも進めないまま。
意を決して、再生ボタンを押した。
ザザ、というノイズが――消えた。
クリアな音声が、スピーカーから流れてくる。
『莉子』
蒼真の声だ。
三年ぶりに聞く、鮮明な彼の声。低くて、少しかすれていて、でも今までで一番はっきりと聞こえる。
『莉子、俺は――お前のことが好きだよ』
息を呑んだ。
好き。
好きだよ、と言っている。忘れて、じゃない。好きだよ、と。
『だから、俺の病気のことは、知らないままでいてくれ』
――病気?
頭が真っ白になった。
病気って、なに。蒼真が、病気?
『お前の人生を、縛りたくないんだ』
彼の声が、震えている。泣いているみたいに、震えている。
『俺は……たぶん、長くない。医者にそう言われた。だから』
長くない。
その言葉の意味を理解した瞬間、視界が歪んだ。涙が溢れて、止まらなかった。
『お前には、幸せになってほしい。俺のことなんか忘れて、別の誰かと笑っていてほしい。だから――俺のことは、忘れてくれ』
嘘だ。
全部、嘘だったんだ。
蒼真は私を捨てたんじゃない。私を「縛りたくない」から、自分から離れたんだ。
病気で。死ぬかもしれなくて。それでも私の幸せを願って。
「なんで……っ」
声が震えた。嗚咽が漏れた。
なんで言ってくれなかったの。
一緒に泣きたかった。一緒に怖がりたかった。たとえ結末がどうなっても、最後まで隣にいたかった。
なのに。
『三年後、もし俺がまだ生きてたら』
音声の最後、蒼真は静かに言った。
『そのときは――』
音声が、途切れた。
「……そのときは、なに」
続きがない。そこで録音が終わっている。
でも。
三年後。
その言葉が、頭の中でぐるぐる回った。
今日は何日だっけ。カレンダーを確認する。三月十四日。卒業式の前日から、ちょうど――
「三年」
声に出して、気づいた。
今日で、ちょうど三年だ。
蒼真がいなくなってから。あの留守電が残されてから。
彼は言った。『三年後、もし俺がまだ生きてたら』と。
つまり。
もし蒼真が生きているなら。三年経った今日、彼は何かを待っているのかもしれない。
私が、来るのを。
気づいたら、立ち上がっていた。
コートを掴む。財布とスマホをポケットに突っ込む。玄関に向かおうとして――左手の指輪が、目に入った。
翔太さんの婚約指輪。
三秒、迷った。
五秒、迷った。
そして。
私は指輪を外して、テーブルの上に置いた。
「……ごめんなさい」
誰にともなく呟いて、玄関を飛び出した。
◇
深夜の電車は、がらんとしていた。
終電にぎりぎり間に合って、私は座席に崩れ落ちた。息が上がっている。心臓がうるさい。でも、止まれなかった。
蒼真の実家は、隣の県にある。私の実家の、すぐ隣の家。
住所は、今でも覚えている。二十年以上、毎日のように通った道だから。
電車が揺れるたびに、さっき聞いた音声が頭の中でリピートされる。
『お前のことが好きだよ』
『俺の病気のことは、知らないままでいてくれ』
『三年後、もし俺がまだ生きてたら――』
蒼真。
生きていて。お願いだから、生きていて。
窓の外を、夜景が流れていく。街灯の光がぼやけて見えるのは、まだ涙が止まらないからだ。
スマホが震えた。
LINEの通知。美羽からだ。
『ねえ、どうしたの? 翔太さんから連絡来たんだけど。莉子が指輪置いていなくなったって』
既読をつけてしまった。返信しないわけにはいかない。
『ごめん。説明は後で。今、電車の中』
『は? こんな時間に? どこ行くの?』
『……蒼真のところ』
送信してから、後悔した。美羽に余計な心配をかける。
案の定、すぐに返信が来た。
『え、ちょっと待って。あの蒼真? 三年前に消えた元カレの?』
『うん』
『なんで今さら』
『留守電、聞いたの。ちゃんと聞いたら、全然違うこと言ってた』
『……どういうこと?』
長くなるから、要点だけ打った。
『蒼真、病気だったみたい。私を縛りたくなくて、離れたんだって。三年後に生きてたら、って言ってた。今日で三年』
既読がついて、数秒の沈黙。
そして。
『行ってこい馬鹿』
たった一言。でもその一言に、美羽の全部が詰まっていた。
『ありがとう』
『翔太さんのことは私がなんとかしとく。あんたは自分のことだけ考えな』
『……本当にありがとう』
『走れ莉子。三年分、取り戻してこい』
スマホを握りしめて、私は泣いた。
美羽。本当に、いい友達を持った。
電車が駅に着くたびに、心臓が跳ねる。あと三駅。あと二駅。あと一駅。
深夜二時。終点に着いた。
ホームに降りると、三月の夜風が頬を刺した。寒い。でも、止まれない。
駅から蒼真の実家まで、歩いて二十分。走れば十分ちょっと。
私は走った。
息が切れても、足が痛くても、走り続けた。何度も転びそうになって、何度も膝が震えて、それでも止まらなかった。
三年間、私は立ち止まっていた。
消えかけの声に縋って、前にも後ろにも進めなかった。
でも今は違う。今、私は走っている。蒼真のところへ、自分の足で。
住宅街の角を曲がる。見慣れた道。子供の頃、何度も通った道。
蒼真の家が、見えてきた。
二階建ての白い一軒家。庭には昔と同じ梅の木。三年前と、何も変わっていない。
玄関の前で、足が止まった。
……呼び鈴を、押していいんだろうか。
深夜だ。非常識にもほどがある。志乃おばさんにも蒼真にも、迷惑をかける。
でも。
待てない。一秒でも早く、彼に会いたい。彼が生きているか、この目で確かめたい。
震える指を伸ばして、呼び鈴に触れようとした、その瞬間。
ガチャリ、と玄関のドアが開いた。
「――あら」
穏やかな声。白髪の混じった髪。見覚えのある、優しい笑顔。
「志乃、おばさん……」
「莉子ちゃん」
蒼真の母親は、驚いた顔をしていなかった。むしろ、待っていたかのような。そんな顔で、私を見ていた。
「こんな時間に、ごめんなさい。私……」
「いいのよ」
志乃おばさんは、静かに微笑んだ。
「あの子、ずっと待ってたの」
その言葉に、涙が溢れた。
待ってた。蒼真が、私を待ってた。
「二階よ。上がって」
「……はい」
玄関を上がって、階段を駆け上がる。二階の廊下、一番奥の部屋。蒼真の部屋。
深呼吸して、ドアをノックした。
返事はない。
もう一度、ノック。
「……蒼真」
名前を呼んだ。三年ぶりに、彼に向かって名前を呼んだ。
数秒の沈黙。
そして、ドアが、ゆっくりと開いた。
◇
ドアの向こうに、彼がいた。
痩せていた。記憶の中の蒼真より、ずっと。骨ばった輪郭、青白い肌、少し長くなった黒髪。
でも、確かに蒼真だった。
切れ長の目が、私を見つめている。三年前と同じ、深い黒の瞳。
「……莉子?」
掠れた声で、彼が私の名前を呼んだ。
驚いている。信じられないものを見るみたいに、目を見開いている。でもその瞳は、泣きそうに揺れていた。
「蒼真」
声が震えた。涙が溢れた。止まらなかった。
「三年……経ったよ」
「……」
「だから」
息を吸う。彼の目を、真っ直ぐに見つめる。
「続きを、聞かせて」
沈黙が落ちた。
蒼真は何も言わない。ただ、じっと私を見ている。その表情が、少しずつ崩れていく。張り詰めていた糸が、ぷつんと切れるみたいに。
「……なんで」
彼の声が、震えていた。
「なんで、来たんだ。お前には、婚約者がいるって……母さんから聞いた。幸せになったんじゃ、なかったのか」
「幸せじゃなかった」
即答した。嘘をつく気力なんて、もう残っていなかった。
「三年間、毎晩あの留守電聞いてた。何度も何度も、あなたの声を聞いてた。消えかけて、もう聞き取れなくなっても、やめられなかった」
「莉子……」
「婚約者がいても、他の人と付き合っても、私はずっとあなたのことを考えてた。あなたが最後に何を言ったのか、ずっと知りたかった」
涙が頬を伝って、顎から落ちる。
「今日、やっとわかった。修復アプリで、聞いたの」
蒼真の顔色が、変わった。
「……聞いたのか」
「うん。全部」
『お前のことが好きだよ』
『俺の病気のことは、知らないままでいてくれ』
『お前の人生を、縛りたくないんだ』
「なんで言ってくれなかったの」
声が裏返った。怒りなのか悲しみなのか、自分でもわからない感情が込み上げてくる。
「一緒に泣きたかった。一緒に怖がりたかった。病気だって、死ぬかもしれないって、全部一緒に背負いたかった」
「……俺は」
「あなたの人生は、あなただけのものじゃないよ。私にとっても、大切な人生だった。それを、勝手に決めないでよ」
最後は、叫ぶみたいになっていた。
蒼真は黙って、私の言葉を聞いていた。そして――
「……ごめん」
絞り出すように、言った。
「ごめん、莉子。俺は、お前を傷つけたかったわけじゃ」
「わかってる」
私は彼の言葉を遮った。
「わかってるよ。あなたが私を想ってくれてたこと。だから余計に、悔しいの」
「…………」
「三年も、無駄にした」
声が詰まった。
「三年も、離れてた。一緒にいられたはずの時間を、全部無駄にした」
蒼真が、一歩前に出た。
痩せた手が伸びてきて、私の頬に触れた。涙を、拭うように。
「……三年、待っててくれたのか」
「待ってたよ。ずっと」
「他の男と婚約しながら?」
「……うん」
ちょっとだけ、皮肉な笑みが浮かんだ。昔の蒼真の笑い方だ。不器用で、でも優しい笑い方。
「最低な女だな」
「うるさい。あなたのせいでしょ」
「……そうだな。俺のせいだ」
彼の手が、私の頬から髪へ移動する。三年前と同じように、優しく撫でる。
「病気は、どうなったの」
「……五分五分だった。手術して、治療して、なんとか生き延びた」
「今は?」
「まだ経過観察中。でも、医者は楽観的だ」
生きてる。蒼真は、生きてる。
安堵で、膝から力が抜けた。崩れ落ちそうになった私を、蒼真が支えた。
「……莉子」
「ん」
「あの留守電の、続き」
「うん」
彼は一度、深く息を吸った。そして、真っ直ぐに私の目を見て言った。
「三年後、もし俺がまだ生きてたら。そのときは、もう一度お前に会いに行く。それで――」
言葉が、一度途切れる。
「もう一度、好きだって言わせてくれ」
三年間、聞きたかった言葉。
三年間、待っていた言葉。
「……遅いよ、馬鹿」
私は泣きながら、笑った。
「もう、言ってるじゃん」
蒼真の腕が、私を抱きしめた。痩せた体。骨ばった肩。でも、確かに温かかった。生きている人の、温もりだった。
「好きだ、莉子」
耳元で、彼が囁いた。
「三年間、ずっと好きだった。忘れてくれって言ったくせに、忘れてほしくなかった。最低な男だ」
「知ってる」
「……お前、もしかしてちょっと怒ってる?」
「ちょっとじゃない。めちゃくちゃ怒ってる」
「だよな」
「三年分、怒ってる。三年分、文句言うからね」
「……いくらでも聞く」
蒼真の声が、笑っていた。泣きながら、笑っていた。
窓の外が、少しずつ明るくなってきた。夜が明ける。止まっていた時間が、ようやく動き出す。
「ねえ、蒼真」
「ん」
「私、婚約破棄してきた」
「……知ってる。母さんから聞いた」
「責任、取ってね」
蒼真が、小さく笑った。
「……ああ。一生かけて、取る」
消えかけの留守電が繋いだ、三年分の想い。
それが今、ようやく届いた。
私は蒼真の胸に顔を埋めて、もう一度だけ泣いた。今度は、嬉しくて。
明け方の光が、二人を照らしていた。




