第2部:静かなる浸食・基盤構築編
第8話:仮面の優等生と裏切りの契約
「一ノ瀬さん、これ職員室に運んでおいて」
「一ノ瀬、次の朝礼のピアノ伴奏、頼むな」
「一ノ瀬さん、このアンケートの集計、やっといてくれる? 先生、忙しくてさ」
私は「はい、分かりました」と笑顔で答える。
口角を30度上げ、声のトーンをワントーン高くする。これが私の戦闘服だ。
学年トップの成績、吹奏楽部副部長、生徒会庶務。
先生たちにとって、私は「都合の良い優等生」だ。文句一つ言わず、雑用をこなし、学校の評価を上げてくれる便利な人形。
でも、心の中では毎日叫んでいる。
『死ねばいいのに』と。
特に、担任の英語教師・松島は最悪だ。
30代後半、独身、ヒステリック。彼女は自分のミスを平気で私のせいにする。「一ノ瀬さんが確認しなかったから」「気が利かないわね」と責任転嫁し、逆に私がコンクールで賞を取ると「私の指導のおかげ」と職員室で大声で吹聴する。
私は彼女のストレス発散のサンドバッグであり、トロフィーだ。
放課後の音楽室。
誰もいない部屋で、私はピアノの鍵盤を叩きつけるように弾いていた。ベートーヴェンの『月光』第3楽章。激しく、怒りをぶつけるような旋律。不協和音が混じってもお構いなしだ。これが私の心の叫びそのものだから。
「荒々しい演奏だね。ベートーヴェンが墓の下でヘッドバンギングしてそうだ」
不意に声がして、指が止まった。
入り口に、神条湊が立っていた。
彼は私のクラスメイトだが、最近、裏で色々な生徒と接触しているという噂を聞く。掴みどころのない、不気味な男子。
「……何? 盗み聞き?」
「いいや、君の魂の叫びに惹かれて来たんだ。君がそんな熱い演奏をするなんて知らなかった」
神条くんはゆっくりとピアノの傍らに歩み寄った。夕日が彼の背後から差し込み、表情を逆光で隠す。
「一ノ瀬玲奈さん。君は疲れている。いい子の仮面を被り続けることに」
「……あなたに関係ないわ。出て行って」
「関係大ありだよ。私は君の才能を高く評価している。だからこそ、その才能が教師たちの保身のために浪費されているのが我慢ならない。君はもっと、自由に、わがままに生きるべきだ」
彼は制服のポケットから一枚の紙を取り出し、譜面台に置いた。
それは、次期生徒会役員の組織図の「案」だった。
会長の欄には「神条湊」。そして、副会長の欄には、私の名前があった。
「私は次の選挙で生徒会長になる。そして、この学校のシステムを根底から変える。教師が王様で、生徒が奴隷という構造を破壊する。君のような生徒が、雑用係として消費されない学校を作る」
「……本気? そんなこと、できるわけない。先生たちが許すはずがないわ」
「許すも許さないもない。彼らには選択権を与えないつもりだ。だが、そのためには君の力が必要だ」
神条くんは、譜面台に手をつき、顔を近づけてきた。
「一ノ瀬さん。私と『裏切りの契約』を結ばないか」
「裏切り……?」
「そう。君には『二重スパイ』になってもらいたい」
彼の提案は、あまりにも大胆で、そして魅力的だった。
表向きはこれまで通り、教師に従順な優等生を演じ続ける。先生たちの信頼を勝ち取り、職員室での会話、今後の指導方針、テストの傾向、そして彼らの弱みとなる情報を収集し、全て神条に流す。
その代わり、彼が生徒会長になった暁には、私を全ての雑用から解放し、内申書を操作してでも希望する進路を確約させるという。
「君は、先生たちの懐に入り込んだナイフだ。私が合図を送るその瞬間まで、彼らに笑顔を振りまき続け、その喉元に刃を突きつけていてほしい」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
悪魔の囁きだと思った。でも、その悪魔は私の最も暗い欲望を肯定してくれている。
松島先生の笑顔の裏で、彼女の破滅へのカウントダウンを進める。
想像するだけで、背筋がゾクゾクするほどの背徳的な快感を覚えた。
「……松島先生を、ギャフンと言わせられる? あの女が、泣いて謝る姿を見せてくれる?」
「ギャフンどころか、教職を辞したくなるほど精神的に追い詰めて差し上げますよ。彼女が君にしたことの倍返しだ」
神条くんは紳士的に手を差し出した。
私は迷わず、その手を取った。
「契約成立ね。共犯者になってあげる」
私の握り返す手に、自然と力がこもる。
優等生の一ノ瀬玲奈は、今日この音楽室で死んだ。
ここにいるのは、革命家の参謀としての、復讐を誓った私だ。
「期待しているよ、副会長」
神条くんが不敵に笑う。
窓ガラスに映る私の顔は、今までで一番悪い、そして生き生きとした笑顔をしていた。




