第2部:静かなる浸食・基盤構築編
第6話:地下室の国家機密とデジタルの罠
放課後の校舎は、独特の静寂と喧騒が同居している。運動部の掛け声、吹奏楽部の楽器の音、そして廊下を走る生徒の足音。
だが、理科準備室の奥にある旧暗室――通称「情報局」のアジトだけは、電子機器の駆動音だけが支配する異質な空間だった。
僕、影山透は、冷や汗で湿った手でキーボードを叩き続けていた。
薄暗い部屋には、廃棄寸前だったモニターが3台並べられ、それぞれに複雑なコードや監視カメラの映像が映し出されている。
僕の背後では、この秘密結社の首領である神条湊が、持ち込んだ折り畳み椅子に優雅に腰掛け、水筒の紅茶を啜っていた。
「……ねえ、神条くん。本当にこれ、大丈夫なの? 僕たちがやってること、完全に犯罪の領域に片足突っ込んでるよ」
僕は振り返らずに訴えた。
画面に表示されているのは、職員室のWi-Fiルーターの管理画面へのログイン試行ログだ。総当たり攻撃ではなく、ソーシャルエンジニアリングで入手した教頭の誕生日の組み合わせを試している最中だった。
「犯罪ではありませんよ、局長。これは『公益通報のための調査活動』です」
神条くんは、まるで天気の話でもするかのような涼しい口調で答えた。
「この国の地方公務員法では、職務専念義務が定められています。もし彼らが職務中に私用端末で遊んでいたり、ましてや裏帳簿のような不正なデータをやり取りしていたりすれば、それは納税者に対する背信行為です。我々はそれを正そうとしているだけの、善良な市民ですよ」
「善良な市民は、人のパスワードをハッキングしたりしないって……」
「定義の問題ですね。さあ、解析状況はどうですか?」
僕は深いため息をつきながら、エンターキーを叩いた。
『Access Granted(アクセス承認)』。
緑色の文字が暗い部屋を照らす。
「……入れた。教頭の業務用PCの共有フォルダだ。セキュリティが甘すぎるよ、『kyoto1234』だなんて」
「素晴らしい。日本のサイバーセキュリティの脆弱性には涙が出ますが、今はそれに感謝しましょう。では、ターゲットは『会計』関連のフォルダです。『備品購入費』や『修繕費』、あるいは『雑費』という名前のフォルダを探してください」
神条くんが身を乗り出す。その瞳は、紅茶の湯気の向こうで、獲物を狙う猛禽類のように鋭く光っていた。
彼は、来たるべき生徒会長選挙に向けて、教師たちを一網打尽にするための「核兵器」を作ろうとしている。それも、一つや二つではない。教師全員が言い逃れできないほどの、決定的なスキャンダルを。
僕はマウスを動かし、フォルダの階層を潜っていく。
そして、あるエクセルファイルを見つけた。
『R4年度_部活動遠征費_調整用』。
正規の会計フォルダではなく、なぜか『古い資料』というフォルダの奥深くに隠されていたファイルだ。
中を開くと、ずらりと並んだ数字の中に、違和感のある項目があった。保護者から集めた遠征費の入金記録と、実際に旅行代理店に支払われた出金記録の間に、明らかな乖離がある。
「これだ……」
僕は思わず息を呑んだ。
「差額、約300万円。使途不明金として処理されてるけど、別シートの『予備費』という項目に移動してる。しかも、その移動先口座の名義が……」
「個人名義、あるいはダミーの団体名義でしょうね」
神条くんが画面を覗き込み、ニヤリと笑った。
「『北中スポーツ振興会』……聞いたこともない団体だ。十中八九、教頭と野球部顧問が結託して作ったトンネル組織でしょう。架空請求と横領。金額も刑事事件として立件できるレベルだ。十分すぎますね」
彼はポケットからUSBメモリを取り出し、僕に手渡した。
「データをコピーしてください。それと、関連するメールのやり取りも全て」
僕は震える手でUSBを差し込んだ。
データの転送を示すバーが伸びていく。
恐ろしい。
この中学生は、本当に学校組織そのものを壊滅させる気なのかもしれない。たかが生徒会長選挙のために、ここまでやるのか?
「怖がることはない、影山くん。このデータはまだ使いません」
「えっ? 使わないの? これがあれば、教頭を一発で飛ばせるのに」
「伝家の宝刀は、抜くぞ抜くぞと見せている時が一番強いんです。いきなり首を刎ねてしまっては、恐怖を与える時間がありませんからね」
神条くんは楽しそうに笑った。その笑顔には、慈悲など欠片もなかった。
「まずは、この事実を『匂わせる』怪文書を作成しましょう。教頭の机の引き出しの、一番奥に忍ばせるんです。『貴殿の錬金術には感服しました』という一文と、このエクセルシートのコピーを添えてね」
それは、相手を疑心暗鬼に陥らせ、精神的に追い詰めるための罠だ。
誰に見られたのか? どこまで知られているのか? いつ通報されるのか?
教頭は明日から、職員室の全員が敵に見え、夜も眠れなくなるだろう。精神的に疲弊した敵は、判断を誤る。そこを突くのが、神条湊という政治家のやり方なのだ。
コピー完了の音が鳴った。
僕はUSBを抜き、神条くんに手渡した。
彼の手は温かかった。しかし、その手の中に握られた小さなメモリは、何人の大人の人生を破滅させるか分からない冷たさを秘めていた。
「影山くん。君の技術は、国を守る盾になる。……いや、まずは僕たちを守る盾か」
彼の手が僕の肩に置かれた。
不思議と、その重みに安心感を覚えてしまう自分がいた。
僕はこの「共犯者」としての立場に、いつしかスリルと生きがいを感じ始めていたのだ。以前のように理不尽に耐えるだけのモブキャラではない。物語を裏から動かす黒幕の一人になれたような高揚感。
「了解。怪文書の作成と、侵入ログの消去、やっておくよ」
「頼みますよ、局長」
こうして、僕たちの「根回し」は、デジタルの闇の中から静かに、しかし確実に始まった。
教師たちはまだ気づいていない。自分たちの足元の床が、既にシロアリに食い尽くされ、踏み抜く寸前であることに。




