第5部:革命と再生編
第49話:砕かれた氷の女王と、政治という名の怪物
私、高村玲子は、自分のキャリアにおいて一度たりとも「敗北」を認めたことがなかった。
東大教育学部を首席で卒業し、文部科学省に入省。その後、現場を知るために地方の教育委員会へ出向し、数々の荒廃した学校を再建してきた。「氷の女」「鉄の女」と陰口を叩かれようとも、結果だけが私の正義だった。
だが、あの中学生――神条湊との戦いで、私は初めて土をつけられた。
あの屈辱的な夜。
神条が生配信した動画によって、私が過去に関わった事案の「隠蔽疑惑」が暴かれ、世論は一気に彼への支持に傾いた。私のスマホは鳴り止まず、SNSには誹謗中傷が溢れかえった。『子供を守るフリをした出世の亡者』『教育委員会の癌』。
私は、PTA総会の会場の隅で、歓声を上げる保護者たちを見つめながら、拳を握りしめていた。爪が食い込む痛みだけが、私がまだ現実に立っていることを教えてくれた。
翌日、私は教育長室に呼び出された。
重厚なマホガニーの机の向こうで、教育長が渋い顔をしている。その隣には、見知らぬ老紳士が座っていた。
白髪の上品な髪型、仕立ての良いスーツ。柔和な笑顔を浮かべているが、目は全く笑っていない。
大河内重徳。
地元選出の衆議院議員であり、文教族のドンと呼ばれる大物政治家だ。教育行政に隠然たる影響力を持ち、私の人事権すら間接的に握っている男。
「高村くん。今回の件、非常に残念だね」
大河内が口を開いた。声は穏やかだが、そこには絶対的な威圧感がある。
「君のような優秀な人材が、たかが中学生一人に手玉に取られるとは。教育委員会のメンツは丸潰れだよ」
「申し訳ありません。ですが、あの生徒は異常です。法的知識、メディア操作、組織掌握術……背後にプロがいる可能性があります。引き続き調査を……」
私が弁明しようとすると、大河内は手を挙げて遮った。
「言い訳はいい。結果が全てだ。世論が沸騰している今、君を表舞台に置いておくわけにはいかない。しばらくの間、休んでもらおうか」
「休む……とは?」
「離島の教育センターで、資料整理のポストが空いているそうだ。ほとぼりが冷めるまで、そこで頭を冷やしなさい」
左遷。
それも、事実上の島流しだ。私のキャリアはここで終わる。
私は唇を噛んだ。悔しい。あの中学生に負けたことよりも、こうして政治家の都合で切り捨てられることが。
「……分かりました。辞令が出るまで、引き継ぎを行います」
私は頭を下げ、部屋を出ようとした。
その時、大河内が教育長に囁く声が聞こえた。
「神条という少年、面白いね。使えるかもしれない。私が直接話をつけて、飼い慣らしてやろう。彼の作ったランキング制度、あれは教員管理のツールとして実に有効だ。私の実績として国会で提案すれば……」
私は足を止めた。
背筋に冷たいものが走る。
大河内は、神条を潰すつもりではない。取り込むつもりだ。ランキング制度を「生徒の権利」から「管理の道具」へと変質させ、自分の政治的実績にする気だ。
そして神条自身も、将来の手駒として利用する。
あの少年が、そんな薄汚い大人の道具にされる?
あんなに生意気で、傲慢で、でも誰よりも純粋に学校を変えようとしていたあの少年が?
私は執務室に戻り、自分のデスクに座った。
窓の外には、北中学校の校舎が小さく見える。
悔しかった。
神条に負けたことも悔しいが、それ以上に、教育という聖域が政治の道具にされることが許せなかった。私は「氷の女」と呼ばれたが、その芯には、教育への理想があったはずだ。腐敗した学校を正し、子供たちの未来を守るという理想が。
プルルル……。
内線電話が鳴った。無視しようとしたが、留守電のランプが点滅する。
私は受話器を取った。
「はい、学校指導課です」
『お久しぶりです、高村さん。……いや、もうすぐ元・指導主事とお呼びすべきでしょうか』
その声。
忘れるはずがない。
神条湊だ。
「……何の用? 敗者に鞭打ちに来たの?」
『いいえ。敗者同士、傷を舐め合いに来たんですよ』
彼は笑っていなかった。声は真剣そのものだった。
『貴女、切られますよ。大河内議員に』
「……盗聴でもしてるの?」
『ご想像にお任せします。でも、私の情報は正確でしょう? 貴女は離島へ飛ばされ、教育委員会は大河内の私物になる。そして、私の作ったランキング制度は、教師を奴隷化するための国家システムとして悪用される』
図星だった。
彼は全てを見通している。中学生のくせに、永田町の古狸のような嗅覚を持っている。
『悔しくありませんか? 自分の正義を、政治家に踏みにじられて』
神条の言葉が、私の心の柔らかい部分を突き刺す。
『私は悔しいですよ。だから戦います。たとえ相手が国会議員でも』
「……バカね。勝てるわけないわ。相手は国家権力そのものよ」
『一人では無理です。でも、共犯者がいれば話は別だ』
彼は一呼吸置き、告げた。
『会いませんか。敵の敵は、味方になれるかもしれません』
私は受話器を握りしめた。
これは悪魔の誘いだ。公務員が、監視対象である生徒と結託し、政治家に牙を剥くなど、懲戒免職どころの話ではない。人生を棒に振る行為だ。
でも。
このまま無様に島流しにされるよりは、マシかもしれない。
私のプライドが、そう叫んでいた。
「……場所と時間は?」
私の口から、信じられない言葉が出ていた。
『明日の放課後、駅前のホテルのラウンジで。……白いスーツ以外で来てくださいね。目立ちますから』
電話が切れた。
私は受話器を置き、大きく息を吐いた。
震えが止まらない。恐怖ではない。これは興奮だ。
私は鏡を見た。そこに映っていたのは、久しぶりに見る「戦う女」の顔だった。
「やってやろうじゃないの。坊や」
私は引き出しから辞表を取り出し、カバンに放り込んだ。
氷の女王は砕かれた。だが、その破片は鋭利な刃となって、今度は本当の敵を切り裂くために輝き始めたのだ。




