第5部:革命と再生編
第45話:理性の反撃と、沈黙する多数派の覚醒
理科室でのボヤ騒ぎは、学校中に不穏な空気を撒き散らしていた。
焦げ臭い匂いと、白い煙が廊下まで漏れ出している。
現場では、ボヤを起こした3年の不良生徒・井上が、消火活動をしてくれた理科担当の田中先生に対して、逆ギレして掴みかかっていた。
井上は、日頃から素行が悪く、今回のランキング制度を「自分たちが偉くなるための道具」と勘違いしている典型的な生徒だ。彼の周りには取り巻きの男子生徒が数人おり、誰も止めようとしないどころか、スマホを構えて動画を撮りながら野次を飛ばしている。
「おい田中ァ! テメェの管理が悪いから俺の制服が焦げたじゃねえか! 弁償しろよ!」
井上は田中の白衣の胸ぐらを掴み、強く揺さぶった。
田中先生は必死に耐えている。
「落ち着け、井上。火遊びをしていたのは君たちだろう。危険だからやめろと何度も注意したはずだ」
「うるせえ! 教師のくせに口答えすんのか? ああ? 俺のスマホ一つでお前のランキングなんか地の底まで落とせるんだぞ! 権田みたいになりてえのか!」
井上の口から出たのは、卑劣な脅迫だった。
「ランキング」。その言葉は今や、生徒にとって水戸黄門の印籠であり、教師にとっては死刑宣告に等しい。
田中先生の顔が強張る。彼は真面目で、生徒のことを第一に考える教師だ。ランキングでも上位にいる。だが、暴力と数の暴力の前では無力だった。
周囲の野次馬の生徒たち――いわゆる「普通の生徒」たちは、遠巻きにその様子を見ているだけだ。彼らの目には嫌悪感が浮かんでいるが、誰も声を上げない。不良グループに目をつけられるのが怖いからだ。サイレント・マジョリティの沈黙。それが、この学校の新たな病理だった。
井上が拳を振り上げた。
「分からせてやるよ! 生徒様には逆らえねえってことをな!」
拳が田中の顔面に迫る。
誰もが目を背けた、その瞬間。
ガシッ!
鈍い音と共に、井上の腕が空中で止まった。
太く、日焼けした腕が、井上の手首を万力のように掴んでいたのだ。
「……いい加減にしろ、お前ら」
低く、ドスの効いた声。腹の底から響くような重低音。
そこに立っていたのは、サッカー部主将の桐島だった。
彼の背後には、大野をはじめとするサッカー部員たちが、仁王立ちでズラリと並んでいる。彼らの体からは、運動部特有の熱気と、静かな怒りが立ち昇っていた。
「あ……? 桐島ァ? 何だよ、邪魔すんのか?」
井上が腕を振りほどこうともがくが、桐島の指は微動だにしない。サッカーで鍛えたフィジカルの差は歴然だ。
「放せよ! お前も神条の腰巾着になって、教師の犬に成り下がったのか?」
井上が挑発する。
「犬じゃねえよ」
桐島は冷たく言い放った。その瞳には、以前のような軽薄さはなく、リーダーとしての覚悟が宿っていた。
「でもな、テメェらのやってることはダセェんだよ。見てて吐き気がする」
「はあ? 何がダセェだ! 俺たちは権利を行使してるだけだろ! 神条だって『生徒が主役だ』って言ったじゃねえか!」
「主役? 笑わせんな。主役ってのはな、自分のケツは自分で拭ける奴のことだ。テメェらみたいに、火遊びして、消火してくれた先生に逆ギレするようなガキは、主役じゃねえ。ただの迷惑なエキストラだ」
桐島は井上の手首をひねり上げ、田中先生から引き剥がした。井上が「痛っ!」と声を上げてよろめく。
「神条が作ったランキングは、腐った教師を正すためのもんだろ。お前らが好き勝手するためのオモチャじゃねえんだよ。田中先生はちゃんと授業やってるし、今もお前らの火遊びを消してくれただろうが。それを殴る? クズかよ」
正論。
あまりにも真っ当なド正論が、理科室の淀んだ空気を切り裂いた。
普段はノリで生きている桐島だが、根は体育会系の真っ直ぐな男だ。彼にとって、筋の通らない暴力、特に恩を仇で返すような卑劣な行為は、生理的に許せないものだったのだ。
「う、うるせえ! 俺たちには評価する権利が……」
井上がなおも食い下がる。
「権利? 権利ってのはな、義務を果たした奴だけが言える言葉だ!」
桐島が一喝した。ビリビリと空気が震える。
「掃除もサボって、授業も聞かねえ、ルールも守らねえ奴の評価なんて、誰も信用しねえよ。お前らが低評価つけたところで、俺たちは『バカがなんか言ってるな』としか思わねえ。自分の価値下げてんのはお前らだぞ」
桐島が鋭く睨みつけると、井上たちは気圧されて後ずさりした。彼らの薄っぺらい優越感は、本物の実力者の前では霧散してしまったのだ。
その時。
廊下に集まっていた野次馬の生徒たちの中から、パラパラと乾いた音が響いた。
拍手だ。
最初は一人、二人。それは1年生の女子生徒だったかもしれない。
しかし、その音はすぐに伝播した。
「そうだ!」「桐島の言う通りだ!」「いい加減にしろよ!」
今まで沈黙していた生徒たちが、次々と声を上げ始めたのだ。彼らはずっと我慢していた。一部の生徒の暴走によって、自分たちの「革命」が汚されることを。
拍手は大きくなり、理科室全体を包み込む喝采となった。
井上たちは顔を赤くし、いたたまれなくなって小さくなっている。彼らは気づいたのだ。自分たちが「多数派」ではなく、学校中の「嫌われ者」になっていたことに。
生徒たち自身による自浄作用。
これこそが、私が待ち望んでいた瞬間だった。
私は人混みを掻き分けて前に出た。生徒たちがモーゼの十戒のように道を開ける。
私はゆっくりと井上の前に立った。
「桐島くんの言う通りです」
私が口を開くと、喝采は瞬時に静まり返り、厳粛な空気が流れた。
「井上くん。君たちは自由を履き違えている。自由とは、何をしてもいいということではない。他者の自由を侵害しない限りにおいてのみ、許される権利です」
「……っ」
井上は私を睨んだが、何も言い返せなかった。
「今回のボヤ騒ぎ、および教師への暴行未遂。これらは重大な校則違反であり、生徒会規約への反逆です。よって、生徒会権限を行使します」
私は冷徹に宣告した。
「君たちグループ全員の『教員評価権』および『ランキング閲覧権』を、無期限で停止します。さらに、放課後のボランティア清掃活動を1ヶ月間命じます。それが終わるまで、君たちはこの学校の意思決定に参加する資格はありません」
「なっ……!? 権利停止だと!? そんなのアリかよ!」
「アリです。私がルールですから。……不服なら、次の選挙で私を落とせばいい。もっとも、君たちに票を入れる生徒がいればの話ですが」
私は周囲の生徒たちを見渡した。冷ややかな視線が井上たちに注がれている。
井上は悔しそうに舌打ちをし、「クソッ!」と吐き捨てて理科室から逃げ出した。取り巻きたちも慌てて後を追う。
残された理科室には、清々しい空気が流れていた。
これでいい。
恐怖で縛るのではなく、生徒同士の規範意識と、相互監視によって秩序を作る。
田中先生が、煤だらけの顔で、私と桐島に深く頭を下げた。
「……ありがとう。助かったよ、二人とも。……いや、生徒会長、そして桐島くん」
その目には、以前のような生徒への警戒心ではなく、一人の人間としての敬意と信頼の色が宿っていた。
少しずつだが、学校は変わり始めている。破壊のフェーズが終わり、再生への芽が吹き始めたのだ。
だが、安堵したのも束の間だった。
廊下の向こうから、教頭が血相を変えて走ってきた。ネクタイが曲がり、顔色は土気色だ。
「か、神条会長! 大変だ! たった今、連絡が入った!」
「どうしました? 落ち着いてください」
「教育委員会だ……! 市教委から、緊急の『査察団』が来る! しかも、あの『氷の女』と呼ばれる高村玲子が率いてくるそうだ!」
新たな敵の出現。
内なるカオスが収束し、自浄作用が働き始めた矢先、外からの強力な国家権力の介入が始まろうとしていた。
私は窓の外を見た。黒塗りの公用車が、校門を通過するのが見えた。
戦いは、まだ終わらない。




