第1章:未開の地にて
第2話:情報調査室長の誕生
放課後の特別教室棟は、本校舎とは異なる独特の静けさに包まれていた。
西日が長く廊下に伸び、埃が光の粒となって舞っている。
私は、パソコン室から出てきた影山に声をかけた。
「影山くん。少し、時間はありますか」
影山は驚いたように肩を震わせ、警戒心を剥き出しにして私を見た。
分厚い眼鏡の奥にある瞳は、他者への不信感で濁っている。
「……何? 僕に何か用?」
「君の技術を見込んで、折り入って頼みがあるのです」
私は単刀直入に切り出した。
彼のようなタイプに、無駄なお世辞や遠回しな表現は逆効果だ。知的好奇心を刺激し、対等なパートナーとして扱うことが最も効果的な交渉術となる。
「技術? パソコンのこと? ……もしゲームのレベル上げとかだったら断るよ。僕は便利屋じゃない」
「違います。私が求めているのは、君の情報収集能力です」
私はポケットから一枚のSDカードを取り出し、彼に差し出した。
「この中に、音声データの解析ソフトが入っていますか?」
「……フリーソフトならネットにあるけど。何をする気?」
「教師たちの会話です。職員室、喫煙所、更衣室付近。彼らが『公務』という仮面を外し、本音を晒け出す瞬間の記録を集めたい」
影山は目を見開いた。
呆れと、恐怖と、そして微かな興奮が入り混じった表情。
「盗聴……ってこと? 犯罪だよ、それ」
「いいえ、彼らは公務員です。校内における彼らの発言は、公的な性質を帯びます。これは『内部告発のための証拠保全』です。正当防衛と言い換えてもいい」
私は詭弁を弄した。法的な解釈などどうにでもなる。重要なのは、彼に「大義名分」を与えることだ。
共犯者になることへの心理的ハードルを下げる。
「君も気づいているはずだ。この学校の教師たちが、どれほど理不尽で、非論理的か。君のような理知的な人間が、感情論だけで動く野蛮な大人たちに評価される。……悔しくはありませんか?」
影山が唇を噛んだ。
図星だ。彼は以前、理科の教師に正論をぶつけ、逆に「生意気だ」と内申点を下げられた経験がある。その情報は、既に田中くんから入手済みだった。
「……神条くん、だっけ。君、何者なの? 昨日の数学の時といい、雰囲気が中学生じゃない」
「ただの、現状を憂う一市民ですよ。――どうです? 私と手を組みませんか。君には、情報局長としてのポストを用意します」
ポスト。その言葉に、影山は微かに笑った。
「局長って……中二病くさいな」
「形は重要です。組織には序列と役割が必要ですから」
「……分かった。面白そうだから、一口乗るよ。ただし、バレてヤバそうになったら僕は逃げるからね」
「構いません。リスク管理は私の仕事です」
交渉成立だ。
私は彼と固い握手を交わした。その手は細く頼りなかったが、これから私が鍛え上げていけばいい。
その時、廊下の向こうからヒステリックな声が響いてきた。
英語担当の松島だ。
彼女は、一人の女子生徒を壁際に追い詰め、甲高い声で怒鳴り散らしていた。
「だから! 提出物が遅れたのはあなたの怠慢でしょ! お母さんが病気とか、そんな言い訳通用すると思ってるの!?」
女子生徒は泣きじゃくっている。
松島は、自分のストレスを弱い生徒にぶつけることで解消する、最も質の悪いタイプの教師だ。
私は影山を見た。
彼は怯えたように身を縮めている。
「……行こう、神条くん。見つかると僕たちまで怒られる」
「いいえ、影山局長。これこそが初仕事(初陣)です」
私はスマホを取り出し、録音アプリを起動して彼に手渡した。
「これを持ち、さりげなく近づいて記録してください。画像もあれば尚良い」
「えっ、無理だよ! 松島に見つかったら……」
「大丈夫。私が囮になります。君はその隙に、死角から証拠を押さえるのです」
私は影山の背中を押し、自らは堂々と松島の方へと歩き出した。
「失礼します、松島先生」
私の声に、松島がギロリとこちらを睨んだ。厚化粧がヒビ割れそうなほどの形相だ。
「何よアンタ! 今、指導中なんだけど!」
「指導、ですか。廊下中に響き渡る大声での叱責が、教育的指導の範疇にあるのか疑問に思いまして」
「はあ!? あんた何様のつもり!?」
松島のターゲットが私に移った。
その隙に、影山が反対側の柱の影に回り込むのが見えた。彼は震える手でスマホを構えている。
そうだ、それでいい。
「1年A組の神条です。先生、その生徒は家庭の事情を説明したようですが、それを『言い訳』と断じる根拠は何ですか? 教育委員会は、家庭環境への配慮を求めていたはずですが」
「口答えするな! 生徒の分際で!」
松島がヒステリックに叫び、持っていた出席簿で私の肩を叩いた。
バシッ、という鈍い音。
(……いただきだ)
私は内心でガッツポーズをした。
体罰の瞬間。そして、それを裏付ける暴言。
影山のスマホが、その決定的瞬間を捉えていることを確信していた。
私はわざとらしく肩を押さえ、大げさに痛がってみせた。
政治家にとって、演技力もまた重要な資質である。




