第4部:崩壊の序曲・心理戦編
第16話:職員室の疑心暗鬼と見えない幽霊
放課後の職員室。そこは学校という組織の司令塔であり、教師たちの聖域でもある。だが、ここ数日、その聖域には重苦しい空気が澱みのように溜まっていた。
蛍光灯の白い光の下、教師たちはデスクワークに追われているが、誰もが眉間に深い皺を刻んでいる。会話は少なく、時折聞こえるのはキーボードを叩く音と、苛立ちを含んだ舌打ちだけだ。
「……おい、誰だ? 俺のデスク触った奴は」
沈黙を破ったのは、3年A組担任の佐久間だった。彼は引き出しを開けたまま、周囲の教師たちを鋭い目つきで睨みつけた。
「どうしました、佐久間先生」
隣の席の女性教師が怯えながら尋ねる。
「資料の順番が変わってるんだよ。進路指導の極秘ファイルだ。誰かが見た形跡がある」
佐久間の言葉に、職員室の空気がピリリと張り詰めた。
最近、こうした「些細な異変」が頻発していた。机の位置が数センチずれている、パソコンのログイン履歴におかしな時間がある、会議の資料が一部紛失している……。
実害はない。しかし、確実に「誰か」が侵入しているという気配だけが残されている。それは、まるで幽霊に悪戯されているような不気味さだった。
「気のせいじゃないですか? 最近、先生お疲れのようですし」
生活指導の権田が、コーヒーを啜りながら鼻で笑った。彼はまだ余裕を見せている。「ガキどもの悪戯か、清掃員の仕業だろう」と高を括っているのだ。
「権田先生、他人事みたいに言わないでくださいよ。先生の生徒指導日誌も、先週なくなりましたよね?」
「あ、あれは俺がなくしただけだ! どこかに置き忘れたんだ!」
権田が顔を赤くして反論する。だが、その目は泳いでいた。彼もまた、不安の種を抱えているのだ。
職員室の隅で、私は補習プリントを提出するフリをして、その様子を観察していた。
もちろん、これらの「異変」は全て、私が情報局の影山に指示して行わせた心理工作だ。
実害を与える必要はない。「自分たちのテリトリーが侵されている」という感覚を植え付けるだけで十分だ。人間は、見えない敵に対して最も恐怖を感じる生き物だからだ。
「……なあ、もしかしてだけど」
若手の男性教師が、声を潜めて言った。
「我々の中に、『裏切り者』がいるんじゃないですか?」
その一言が、決定的な亀裂を生んだ。
教師たちが顔を見合わせる。目と目が合うたびに、疑心暗鬼の火花が散る。
『あいつ、最近生徒と仲良すぎるよな』『そういえば、教頭とコソコソ話してたな』『あいつのクラスだけ、妙に静かじゃないか?』
今まで一枚岩だと思われていた教師集団の中に、相互不信という毒が回っていく。
「馬鹿なことを言うな!」
教頭が立ち上がり、怒鳴った。
「我々はチームだ! 生徒指導という崇高な目的のために団結しているんだぞ! 変な疑いを持つな!」
しかし、教頭自身の額には脂汗が滲み、その視線はキョロキョロと周囲を警戒していた。彼こそが、裏帳簿という最大の爆弾を抱えているからだ。誰かがそれを知っているのではないか? 誰がリークしようとしているのか? その恐怖で、彼の精神は摩耗しきっていた。
私は心の中でほくそ笑んだ。
完璧だ。
組織を崩壊させるのに、外部からの攻撃は必要ない。内部に「不信」というウイルスを撒けば、あとは勝手に自滅していく。
私はプリントを提出箱に入れ、静かに職員室を後にした。
背後では、まだ佐久間が誰かを怒鳴りつける声が響いていた。その怒号は、彼らの断末魔の叫びの始まりに過ぎない。
廊下に出ると、窓の外は既に暗くなっていた。
ガラスに映る私の顔は、中学生のあどけなさを残しつつも、その瞳だけは老獪な政治家の冷徹さを宿していた。
「さあ、もっと疑い合え。もっと恐れろ。お前たちの結束など、薄氷よりも脆いことを教えてやる」




