第3部:静かなる浸食・包囲網拡大編
第15話:最後のピース、保健室の聖域
包囲網はほぼ完成した。
情報、武力、カネ、生徒の連帯、そしてメディア。これだけのカードが揃えば、革命はもはや時間の問題だ。
だが、私にはまだ一つだけ、どうしても埋めておかなければならない懸念があった。
それは、傷ついた生徒たちの避難所だ。
革命が起きれば、学校は一時的に混乱状態に陥る。教師の権威が失墜し、生徒たちが暴走するかもしれない。あるいは、教師たちの最後の悪あがきによって、精神的に傷つく生徒が出るかもしれない。
その時、彼らを無条件に受け入れ、守り、ケアできる大人が学校内に一人でも必要だ。政治家として、破壊の後のケアまで考えておくのが義務だ。
私は放課後、保健室に向かった。
そこにいるのは、養護教諭の片桐美咲先生だ。30代前半。彼女は教師たちの中で唯一、派閥に属さず、中立を保っている。いや、正確には「教師たちの強権的なやり方に批判的だが、発言力がないため沈黙を強いられている」人物だ。彼女は常に生徒の側に立とうとしてきたが、その度に権田や松島に潰されてきた。
保健室のドアをノックし、中に入る。消毒液の匂いと、アロマの香りが混じった落ち着く空間。
片桐先生は机で日誌を書いていたが、私を見ると優しく微笑んだ。
「あら、神条くん。どうしたの? どこか具合が悪いの?」
「失礼します。……少し、頭が痛くて。考えすぎかもしれません」
私は仮病を使ってパイプベッドに横になった。白い天井を見上げると、少しだけ心が安らぐ。
片桐先生が近づいてきて、私の額に手を当てた。ひんやりとして心地よい手だ。
「熱はないみたいね。……最近、忙しそうね。色々な噂を聞くわよ」
彼女は私の目を見て、全てを見透かしたように静かに言った。
「先生は、気づいていますか? この学校が病んでいることに」
私は視線を天井に向けたまま問いかけた。
「……ええ。毎日ここに来る生徒たちの傷を見れば、嫌でも分かるわ。原因不明の腹痛、過呼吸、リストカットの痕……みんな、教室にいられなくてここに逃げ込んでくる。心の傷も、体の傷も、全部ここで受け止めているつもりだけど……私の力不足ね」
彼女の声は震えていた。無力感と、生徒を救いきれない悔しさが滲み出ている。
「私は、その病巣を切除しようと思います。外科手術のような、荒療治になりますが」
私は体を起こし、ベッドの縁に座って彼女に向き合った。中学生の顔ではなく、一人の決意した人間の顔で。
「来月、学校は大きく変わります。教師たちの支配が終わるかもしれません。でも、その変化についていけず、不安になる生徒もいるでしょう。先生。その時、貴女には生徒たちの『最後の砦』になってほしいのです」
「砦……?」
「はい。教師側の味方をする必要はありません。かといって、私の革命に加担する必要もない。ただ、混乱の中で傷ついた子供たちが逃げ込んできた時、全力で守ってください。貴女だけは、変わらない優しさで彼らを迎えてあげてほしいのです」
片桐先生はしばらく私を見つめていた。その瞳の中で、迷いと決意が揺れ動いている。
やがて、彼女は小さく、しかし力強く頷いた。
「……神条くん。貴方が何をしようとしているのか、詳しくは聞かないわ。でも、貴方の目が、昔の生徒会長……権田先生に潰されたあの子と同じ目をしていることは分かる。覚悟を決めた目ね」
「潰されはしませんよ。私はしぶといですから」
「分かったわ。私は養護教諭として、私の職務を全うします。誰が相手でも、生徒の心身の健康を守るのが私の仕事だから。……貴方が傷ついた時も、ここに来なさい。ベッドの一つくらい、いつでも空けておくわ」
彼女は私の頭に手を置き、子供をあやすように撫でた。
その温かさに、私は一瞬だけ、総理大臣としての鉄の仮面が剥がれそうになった。
そうだ、私は今、子供なのだ。
だからこそ、大人たちが汚したこの世界を、子供の手で掃除する権利がある。そして、その後に残るべきなのは、彼女のような本当の意味での「教育者」だ。
「ありがとうございます。貴女がいてくれれば、私は安心して背中を預けて戦えます」
保健室を出ると、廊下の窓から真っ赤な夕日が差し込んでいた。
長い影が伸びる。
3年生、部活顧問、PTA、メディア、そして保健室。
全ての根回しは完了した。オセロの四隅は取った。あとは真ん中を一気にひっくり返すだけだ。
次はいよいよ第4部。選挙直前、教師たちを精神的に追い詰め、疑心暗鬼に陥らせ、自滅へと誘う最終工作が始まる。
「チェックメイトの一手前」まで、盤面は整った。私はネクタイを締め直し、決戦の地へ向かう足取りを速めた。




