08:派閥と独占
その日、灰の都では重苦しい会議が続いていた。
かつての“英雄”の再臨など、誰も知らない。ただ、刻一刻と迫る“第二次人魔大戦”の予兆に、国はざわついていた。
三つに割れた軍部――
戦場の最前線を率いる《前線派》、宮廷を牛耳る《保守派》、そして学術と魔導を掌握する《魔導院派》。
今、その均衡は崩れつつある。ミリア率いる前線派の影響力が拡大する一方で、魔導院派の長・アイルは、緩やかに対立の姿勢を強めていた。
そんな中、“戦傷を負った無名の傭兵”としてひっそりと記録された男が一人。
彼の名は、表向きには存在しない。
けれど、かつて“英雄アッシュ”と呼ばれたその男は――今、ミリアの屋敷で静かに暮らしていた。
***
「……本当に魔力ゼロ、ですか?」
検診に来た治癒魔導士が困惑の表情で何度も水晶を覗き込んでいた。
「魔素構成、完全に沈黙状態。魔核の活性反応も……うーん、まるで“死んだ後”みたいですね……」
「……そうか」
アッシュは静かに答える。
彼自身、何となく感づいていた。胸に刻まれた呪印――おそらく、それが“力”を封じているのだと。
だが、そんな事実を誰にも説明するつもりはなかった。
「はい、診断完了っと……。これは“魔力枯渇症”とでも書いておきましょうか。残念ながら、回復の見込みはほぼゼロです」
「ご苦労さん」
医師が退出すると、部屋の空気がふっと緩んだ。
その瞬間、横からぴょんとミリアが顔を出す。
「先生、動いちゃだめ!」
「いや、もう検査終わっただろう」
「療養中なんだから、ちょっとでも休んで。ほら、今日もお粥作ったよ。魔草粥だけど」
「う……ま、まずくはなさそうだな……」
「失礼な。私は将軍なのよ? 料理もできて当然!」
アッシュは思わず吹き出した。
「……なんだそれ。将軍業の定義がおかしいぞ」
「む、じゃあ――はい、あーん」
「待て。流石にそれは……」
「だーめ。先生、今は私の“患者”なんだから」
ミリアはにっこり笑った。
あの“断罪の剣士”とは思えないくらい、無防備な笑顔。
彼女の成長した肢体が、湯気の向こうでふわりと揺れる。
……気づけばアッシュは、直視できないほど顔を熱くしていた。
(……こんなに大きくなったのか)
十年前、剣も持てなかったあの少女が――
今は、誰よりも頼れる戦士で、誰よりも……柔らかく、美しくなっていた。
「……なにか言った?」
「いや、何も」
「ふふん。ま、いいや。今日の夜は一緒にお風呂入る?」
「おい」
「冗談だよ」
そう言ってミリアはクスクス笑いながら、隣に座る。
「でもね、先生」
「ん?」
「私、もう決めたの。“先生は一生、私が面倒を見る”って」
アッシュは言葉を失った。
「英雄だとか、力があるとか、そんなの関係ない。私は……先生が生きてくれてただけで、十分」
「……」
「照れてるの?でも、先生の前では……ずっと、甘えてるままでいい?」
「……ああ」
静かに、手を伸ばすと、ミリアの頭にそっと触れた。
その温もりは、十年前のままだった。
***
その夜。
ミリアは軍上層部の報告書から、アッシュの痕跡をすべて削除した。
名前。階級。魔力構成。過去の戦歴。
彼は“存在しない者”として、再び歴史から消えた。
だが――その改竄処理の中に、ひとり違和感を覚えた者がいた。
魔導院派筆頭、大魔法使いアイル。
彼女は昔ミリアと同じアッシュの弟子だった。
ミリアとはソリが合わず、喧嘩ばかりしていた。
「妙ね……この魔素記録、どうして空白が多すぎるのかしら」
アイルは静かに眼鏡を押し上げ、魔導紙をなぞる。
「ミリア。彼女が直々に指揮した戦場の記録が、こんなに雑って……ありえない。あの子は昔からこういう時...」
彼女の眉がひくりと動いた。
「隠してるのね、ミリア……。でも、私からは隠せないわよ」
***
翌朝。
アッシュは目を覚ますと、ミリアの寝顔がすぐ横にあった。
「……お前、布団持っていけって言っただろう」
「……うーん、やだ。先生の隣がいちばん落ち着く」
寝言のような声で、彼女はさらに寄ってきた。
アッシュは肩をすくめ、空を仰いだ。
(……お前は本当に、変わらないな)
でも、そんな彼女の隣で、少しだけ“生きる理由”が戻ってきたような気がした。
――その平穏の裏で、確実に何かが動き出しているとも知らずに。