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07:英雄の死

静まり返った第三拘束房。


その扉が開いたとき、アッシュはすでに立ち上がっていた。


「……来たか」


入ってきたのは、黒衣のまま、戦地から直帰したミリアだった。まだ風に揺れるその髪には、灰が僅かに残っている。


アッシュが声をかけようとした瞬間、ミリアは足を止めると、問いかけた。


「私が剣を握った日。最初に言われた言葉、覚えてる?」


アッシュは眉ひとつ動かさず、答えた。


「“まずは鞘からつけろ”」


「次の日、鞘を忘れて?」


「“お前は斬る気がないのか、それとも鞘で戦うのか”」


「さらに次、剣を失くしたときは?」


「“なら次は、手をなくすな”って言ったな」


その瞬間、ミリアの瞳がわずかに潤んだ。


だが涙は落ちない。


代わりに――その表情が、ほんの少し、甘く崩れた。


「……先生」


一言。たったそれだけで、十年が巻き戻るようだった。


「やっぱり……本物なんだね」


アッシュは、ただ静かに頷いた。


ミリアは無言のまま近づくと、彼の胸に顔を押しつけた。


「会いたかった……ずっと」


その声はかすかに震えていた。


アッシュは驚いたように目を瞬いたが、何も言わなかった。ただ、その頭にそっと手を添えた。


しばらくの沈黙のあと、ミリアは一歩だけ下がり、表情を引き締めた。


「……でも」


声が変わった。将の声だった。


「世間には、先生は“十年前に戦死した”ままにします。」


「……そうか」


アッシュは異を唱えることなく、頷いた。


「先生が生きていることがバレたら、混乱が起きる。」


ミリアの目は、深い責任を宿していた。


「先生が帰ってきたことを、もし知られたら……皆は希望を求めて縋る。でも……」


「今の俺を見たら、絶望する」


「……そう」


彼女は正面から彼を見据えた。


「先生は、もうあの頃の英雄じゃない。弱くなった英雄ほど、人の希望を壊すものはない。だから、あなたは“もう死んだまま”でいて」


アッシュはしばらく黙っていた。


「……わかった。従うよ」


それが、彼にとって“苦くも優しい選択”であることを、ミリアは誰よりも分かっていた。


「……ありがとう、先生」


ミリアの声が、今度はほんの少しだけ甘くなった。


「だから……今日から先生は、私の家で暮らしてもらう」


「……は?」


「療養名目で引き取る。記録上は無名の傭兵。素性不明、戦傷あり、身寄りなし」


「……扱いが雑すぎないか?」


「先生に甘いのは私だけ。世界には見せないよ」


そう言ってミリアは微笑んだ。

それは、かつて見せた無防備な少女の笑顔と、何も変わっていなかった。


***


ミリアの家


久方ぶりに通された客間で、アッシュが腰を下ろすと、ミリアが手ずから茶を運んできた。


「先生、お茶。熱いから気をつけて」


「……ありがとう。こんなに立派なところに住んでいるのか」


一口飲みかけたところで、ミリアが隣に腰を下ろし、当たり前のように寄りかかってきた。


「……重いぞ、ミリア」


「ふふ。先生、昔は“もっと重くなれ”って言ってたじゃん」


「それは、体重じゃなくて剣の話だったはずなんだが……」


「え、違ったの?」


「違う」


「そっかー、じゃあ……今はちょっとだけ、甘えてもいい?」


「……少しだけな」


「うん」


ミリアは嬉しそうに目を閉じた。


アッシュの肩にもたれたまま、彼女はそっと呟く。


「……でも先生がそばにいるなら、もう誰に何と言われても平気」


「……それは、それで心配だがな」


「いいの。だって、私は“弟子”だから」


十年前、まだ手の届かなかった背中。

今、ようやく追いついたと思えたその温かさ。


しばらくの沈黙ののち、アッシュがぼそりと漏らした。


「……他の奴らは、元気にしてるか?」


ミリアの身体が、ぴくりと揺れた。


「アイル、ライン、そして……」


「……あーもう、せっかく私と甘い空気だったのに、なんでそういうこと言うの?」


ミリアはぷいと横を向いた。


「皆生きてるよ。そのうち、先生にも見せてあげる。……順番に、ね」


「……そうか。生きているか。」


アッシュは、どこか懐かしそうに笑った。


そしてその夜、ようやく――10年ぶりに

ミリアは鉄の仮面を脱ぎ捨てて、甘い夢を見ながら眠った。

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