06:灰と呪い
拘束房の中。
アッシュの胸に刻まれた紋様が、黒く、赤く、静かに燃えていた。
それは、肉体という器を越えて、“魂”の根へと入り込もうとする何かの脈動。
「……っ、く……」
奥歯を噛み、息を詰める。
耐えがたい熱が、喉の奥からこみ上げてくる。焼け付くような疼きに、膝がわずかに揺れた。
幻影視鏡の映像が、淡く滲んで崩れ――世界が、塗り替えられる。
***
灰。灰。灰。
死した地平に、風はない。ただ沈黙と、終焉の匂いが広がっていた。
その中心に――いた。
「……また、来たか。英雄よ」
巨影が、灰を踏み鳴らして近づいてくる。
漆黒の鱗。深紅の双眸。燃えるような角と、巨大な翼。
かつてアッシュが討ったはずの邪竜、《ヴェル=ゼイル》。
「……夢か。あるいは、呪いの残滓か」
「そう決めつけてくれても構わん。だが忘れるな」
その声は重く、だがどこか静かだった。
「俺はお前の中にいる。ずっとな」
「……それがなんだ。消し去ってやる」
アッシュは睨みつけ、拳を握る。
「望むところだ。だが、“お前にそれができるのか?”」
ヴェル=ゼイルの声が、一拍おいて刺さった。
「十年。世界は変わった。お前のいない間に、全てが進んだ。剣も魔力も、“英雄の名”さえ、もはや過去だ」
アッシュの眉が僅かに動く。
「……その通りだ。だからどうした」
「だからこそ、お前は、今ここに俺を見ている。自分の中にあるものと向き合うためにな」
「違う。これはただの干渉だ。貴様は俺の中に紛れ込んだ、残響にすぎない」
「ふむ……ならば問うがいい。“今のお前に何ができる?”」
それは、さっきミリアに言われたばかりの言葉だった。
心の最奥に突き刺さった問い。癒えていない傷口。
だが――アッシュは、静かに息を吐いた。
「今の俺にできるのは、立ち上がることだけだ。何も持たずとも、抗い続けることだけは、できる」
邪竜が、一瞬だけ黙る。
そして――笑った。
「……ならば見せてもらおう。お前の“否定”が、どこまで続くのかをな」
次の瞬間、灰の海が崩れた。
空間が割れ、世界が断ち切られ――
***
アッシュは拘束房の床に膝をつき、荒い息を吐いた。
胸の痛みはまだ残っている。けれどその眼差しは、先ほどよりも深く、鋭くなっていた。
「……まだ、終わってない」
幻影視鏡には何も映っていなかった。だが、彼はゆっくりと顔を上げる。
「ミリア……」
かすれた声で名を呼んだ。
誰よりも、彼女にだけは、今の自分を“否定”してほしくなかった。
否――認めてもらう必要など、ない。
ただ、あの眼差しにもう一度、立ち向かうために。
(……生きて、ここにいる。それだけで、今は十分だ)
アッシュはゆっくりと立ち上がった。
己の中に巣食う“声”を、ただ黙殺したまま。
***
そのころ――
聖灰地帯の空。
すべてが終わった。否、“終わらせた”。
眷属の残骸は、もはや灰の一粒さえ残さず、消え去っていた。
――完全消滅。封印ではない。再生の可能性など、ひと欠片も残していない。
ミリアの剣は、ついに“殺しきった”のだ。
戦場に残るのは、風と、焼けた地表と、静寂だけ。
その静けさの中で、彼女はひとり、崩れた監視塔の影に腰を下ろしていた。
剣を脇に置き、空を見上げる。
何もない。けれど、何かが始まっている。
「……先生、私は……」
ぽつりと零れたその言葉は、誰にも届かない。
けれど、それは祈りにも似ていた。
(あの人が、本当に本物なら)
(いつか、もう一度――)
その時、風が吹いた。
灰が舞った。
そして幻影視鏡の奥で、静かに――アッシュの呟きが、風と重なる。
「ミリア……」
ふたりの名が、ふたりだけの記憶の中で、ようやく交差し始めた。