05:眷属の襲来
「……非常魔道通信、再送信します!《断罪の剣士殿、北境に異常魔力反応。規模、未知数。すでに一個師団との連絡が途絶――》」
尋問室の空気が、一瞬で張り詰めた。
ミリアは、涙の痕を拭うこともなく、椅子を蹴るように立ち上がった。その横顔には、すでに仮面のごとき無表情が戻っている。
「場所は?」
《北第七監視哨。座標、聖灰地帯の中心部……“あの地”です》
通信珠から返された声に、ミリアの背が一瞬震えた。
“聖灰地帯”――十年前、あの戦いが終わった地。アッシュを失い、世界が崩れかけた場所。
彼女は、無言でアッシュを一瞥する。彼もまた、どこか胸を刺すような視線を天井に向けていた。
「……ミリア。俺も行く」
「黙って」
その声音は、かつての彼女が決して使わなかったような、冷たく鋭いものだった。
「あなたの身元確認はまだ終わっていない。戦力登録も、階級も、魔力構成すら未測定。そんな状態で前線に立つ? ふざけないで」
「だが、あそこには――」
「今のあなたに、何ができるの?」
その言葉は、まるで刃のようだった。けれどその奥に潜む“震え”に、アッシュは気づいていた。
彼女は怒っているわけではない。恐れているのだ。再び失うことを。
ミリアは魔道通信珠を取り出し、命じた。
「こちら断罪の剣士。転移陣を準備せよ。私は直ちに北境へ向かう」
《御意。第六転位室、ただいま準備中》
「……この男は、第三拘束房に移送。封呪符で五重結界を展開。誰も近づけるな」
《了解》
扉へと向かうミリア。だが手前で、一歩だけ足を止めた。
「……あなたが本当に“先生”なら」
その背中越しに、言葉が落ちた。
「今は……“見ていて”」
そのまま、彼女は闇の中へと消えていった。
***
アッシュは、第三拘束房に移されていた。
石造りの薄暗い室内。その一角には、水晶玉のような魔道具――「幻影視鏡」が据えられている。
魔力の流れと共鳴し、視鏡は空に浮かぶ彼女の姿を映し出していた。
「……まだ、こういうものが残っていたか」
アッシュは静かに呟く。幻影視鏡は、かつて王国魔導院に属していた頃、彼自身が設計に関わった古の観測装置だ。
視鏡の奥に、霧がかった空と、朽ちた塔の影――そして、その上空に佇むミリアの姿が映る。
「……見ておけってか」
隣の兵士が呟いた。
「断罪の剣士殿は、最後まであんたが“偽者”だとは言い切らなかった。……あの方にとっては、それだけ重い名前なんだ」
アッシュは答えず、ただ視鏡を見つめた。
***
北第七監視哨――灰の降る大地。
腐敗した魔力の海に立つ、異形の影。人の形をしていながら、常に輪郭が崩れ、光と闇を歪ませるそれは、世界の理に逆らう“存在そのものの否定”だった。
「……やはり、“使徒の眷属”か」
ミリアは、静かに剣を抜いた。
断罪の大剣が、刃から紅の魔力を迸らせる。
眷属は、無音のまま両腕を広げ、空間に歪みを走らせる。次元がねじれ、地平が溶ける。大地に突き立った兵士たちの槍が、音もなく崩壊していく。
「……跳躍術式、展開。距離三〇〇、位相二〇」
ミリアの姿が、ふっとかき消える。
瞬間、空間の背後に閃光。剣が、無音で振るわれた。
「――“断罪・灰斬”」
眷属の肩から胸にかけて、深々と一閃が走る。
肉体が裂け、魔力が暴走し、周囲に灰の嵐が巻き起こった。
だが、それでも眷属は止まらない。断面から黒い糸が溢れ出し、再生を開始する。
「……再生型、か」
ミリアは表情一つ変えず、足元の大地に手をかざした。
「封魔結印――《灰鎖陣》!」
彼女の魔力が、灰に覆われた地を這うように伝わっていく。
そこから無数の鎖が伸び、眷属の身体を縫い止めた。
「ここは――“彼の眠る地”だ。貴様のようなものに踏ませるわけにはいかない」
眷属が呻き声ともつかぬ“波動”を発した瞬間、空間が再び崩壊を始めた。
だがミリアは、一歩も退かず、封鎖陣を維持したまま剣を構える。
灰の海に立つ彼女は、まるでその地を守護する“聖女”のようだった。
***
幻影視鏡の中――
アッシュは、その姿を静かに見つめていた。
「……本当に、強くなったな」
彼の声は、どこか懐かしげだった。
かつての彼女は、剣を振るうたびに泣きそうな顔をしていた。けれど今は――
大地の断罪者として、迷いなく剣を振るい、誰よりも前線に立っている。
「……守られてるのは、俺の方だな」
彼は、ふっと笑った。
「先生」と呼ばれ続けた自分は、もはやこの世界で“守られる側”になっていたのかもしれない。
そのとき。
彼の胸元に、熱が走った。
「……っ!」
兵が思わず一歩退く。
アッシュの胸元から、黒い“紋”が浮かび上がっていた。
いいようのない熱が体の根元から己を焼き尽くすようだった。
そしてアッシュはその苦しみに覚えがある。
それは、かつて討ったはずの“邪竜”の気配だった。