アインシュタインは人気者
1921年4月3日。マンハッタンの最南端、バッテリーにある港で新聞記者のダニエルは間もなく汽船に乗って到着するはずのアルベルト・アインシュタインを、やや斜に構えた態度で待ち構えていた。
彼のアインシュタインに対する印象はあまり芳しくなかった。それは彼が優秀な人間で、しかもユダヤ人であった事が影響しているのかもしれなかった。彼はユダヤ人に対して差別意識を持っていたのだ。もっとも、主義思想といったほどではない。なんとなく気に入らないといった程度だ。
「ユダヤ人風情が、ちょっと難しい理論を提唱したくらいで威張りやがって」
そう独り言を呟く。
新聞社の命令だとはいえ、そのアインシュタインの取材の為に、自分がわざわざこんな所にまで来なくてはならないのも癪に障った。近くには別の新聞社のテリーの姿も見える。いつもなら互いに競い合うライバル関係だが、今日に限っては気が合いそうだった。彼もやる気なさそうにしている。
“それにしても”と、彼は通りに目を向ける。
“今日はカーニバルか何かでもやるのだろうか?”
何故か近くの通りには、物凄い数の人が集まっていたのだ。少なくとも数千人、ひょっとしたら1万人以上は集まっているかもしれない。
大きなイベントが開かれるのかどうかを彼は知らなかった。もっとも、地元ではないから詳しくはないし今日の自分の仕事には関係がない。奇妙には思ったが無視をして、彼はようやく姿を見せた汽船に向けてカメラを構えた。できればアインシュタインが船を降りて来るところをカメラに収めたい。汽船が停まる。さあ、どいつがアインシュタインだ?
ところが、そうしてカメラを向けたタイミングで大きな歓声が聞こえたのだ。それは間違いなく汽船に乗っている乗客を歓迎する声だった。もちろん、集まっていた1万人以上もいるかもしれない人々が声を上げたのだ。興奮状態にある彼らは、下手すれば暴徒化しそうですらあった。明らかに普通ではない。
「もしかして…… いや、もしかしなくても、この人々はアインシュタインを歓迎する為に集まって来たのか?」
そう独り言を呟くと、ダニエルは俄かに不安を覚えた。自分が不勉強で知らなかっただけで、アルベルト・アインシュタインは偉大な科学者なのかもしれない。
焦燥感に近いものを覚え、批判的な記事を書くつもりだった彼の脳裏にある原稿のイメージは、急速にアインシュタインを称賛するものへと変わっていった。
“人々からここまで人気のある科学者ならば、それ相応の扱いをしなくてはならない”
もちろん、そう意識をするとアインシュタインへの取材内容は大きく変わった。好意的な態度で接すると、それに応えるように、この偉大な科学者は人当たりの柔らかなチャーミングな返答をする。高邁なインテリ階級という印象は微塵もなく、自然、新聞記事の内容も彼の人柄と業績を称賛するものになっていく……
「なるほど。それで、この記事か……」
記事の内容をチェックすると、編集長のガーナーはやや憮然とした様子でダニエルを見つめた。
「はい。あれほど人気のある科学者ならば、それも当然かと」
彼は自分が正しい判断をしたと確信を持っていた。微塵も疑っていない。が、どうもガーナーはあまり納得をしていないようなのだった。
「人気のある科学者?」
「はい。実際、僕はそれを目にしたんです。それは間違いありません! だって、彼の為に、あれだけの数の人々が集まっていたのですよ?」
ガーナーは大きく頭を振る。
「いいや、アインシュタインはそれほど人気のある科学者ではないよ」
その言葉にダニエルは戸惑う。
「いや、だって、あれだけの数の人が集まっていたのだから……」
「バッテリーに集まっていた人々は、アインシュタインを見に来たのじゃない。ヴァイツマンを見に来たんだ」
「ヴァイツマン?」
「シオニズム運動の英雄だよ。ま、ヴァイツマンだけを見に来た訳じゃないのだろうがな」
そう言い終えると、ガーナーは頭を軽く掻いてから、こう続けた。
「お前、ユダヤ人が嫌いだろう? だから知らなかったんだな。集まっていた連中はほとんどがユダヤ人だよ。ユダヤ人国家の建設を夢見るな」
それを聞いて、ダニエルは目を丸くした。
「でも、それじゃ……」
自分はまったく人気のない科学者を称賛しまくった記事を書いてしまった事になる。
「ああ、そうだ。でも、もう仕方がない。時間もないしな。それに政治的には、アインシュタイン一人を科学者として持ち上げるくらいの方が良いかもしれん。科学者としての業績が素晴らしいのは本当だしな。
ま、心配するな。どうやら、あっちの新聞社のテリーも同じミスをやらかしたらしい。問題にはならんさ」
ガーナーはそのままその記事を掲載する事を決めてしまった。彼の予想通り、記事は問題にはならなかった。が、全てが彼の予想通りという訳ではなかった。複数の新聞社が大きく好意的に偉大な科学者としてアインシュタインを取り上げた事で、なんと、アインシュタインは本当に人気のある科学者になってしまったのだ。しかも、人気が人気を呼び、その人気は大爆発を起こし、やがては20世紀の顔の一人と言われる程にまでなってしまったのである。
つまり、彼が高名な科学者として知られるようになったのは、“勘違い”によるものだったのだ。
もちろん、新聞による宣伝効果があったとはいえ、アインシュタインが高い業績を残しており、彼自身にユニークな魅力がなかったのなら、これほどまでに成功はしなかっただろう(なにしろ「I.Q.(邦題は“星に想いを”)」というタイトルの、アインシュタインを主要人物とする映画まで制作されているほどだ)。
だが、それでも、世間での彼の評価に大きな幸運が影響していた事は事実だ。
……このような幸運に恵まれなかったが為に、埋もれてしまった優秀な作品や人物が、世間には多くあるのだろう。
本当にアインシュタインが有名になったきっかけは、このような勘違いだったそうです