第6話 暴走か、予定調和か
もうすぐ8月になる日の、よく晴れた朝だった。俺は山の中腹に建てられた小屋の近くから、遠くに見える街を見下ろしていた。
比較的涼しい気温だったが、俺は顔に汗が流れるのを感じた。
「能代くん……それはスタンガンか何か?」
背中に何かを押し当てられている。能代はあくまで、俺が妙な動きをすると思っているようだ。
「気になるなら振り向いてみろ。スイッチを入れてやる」
能代は押し当てる力を強めた。
「ここまでして、俺を日に当たらせてくれなくてもいいんだよ?」
「病気になられても困るからな」
「そういう命令を受けてるの? 何日に一回は外に出せとか」
ここに来るまで、ずっと地下にいた経験などはない。俺は太陽の方向に顔を向けた。最近、どうも遠い存在になってきた気がする。
「そうだ。これからも2日に一回は日に当たってもらう」
「じゃあ"それ"も命令だからやってるの?」
俺はわずかに、振り向いたと思われない程度に顔の向きを変え、言った。能代がどんな表情をしているか見たかったが、後ろを見ることなどはできず、能代は何も答えない。
何かを命じられているのは、能代だけではない。
「俺にも課題を提出する義務があるんだけど、時間だけが過ぎていくよ」
課題はまだ家にある。未葉は8月1日には回収できると言っていた。今は何もやることがない状態だ。
「それを俺に言ってどうするんだ」
能代は興味がなさそうに言った。しかし直後には「いや……?」と声を漏らし、数秒考え込むように静かになった。
「課題というのは学校の課題じゃなく、組織の調査のことか?」
能代は押し当てる力を強めた。「スパイ疑惑」という言葉を思い出す。例によって素性のわからないこの少年は、俺に冗談などは決して言わないだろう。その上彼は、俺から情報を引き出すこともできない。規則上できないのだ。だから俺と打ち解ける必要もないし、俺を信用させる必要もない。ルールの範囲内なら、何を言ってもいいことになる。つまり本気で、こんなこじつけみたいなことを言っている可能性もあるということだ。
「そんなわけないだろ」
学校の課題だよ、と俺は続けた。つい、ため息混じりの声になる。
「そうか……お前はそう言うだろうな」
背中を押される感覚がなくなり、俺は上半身がわずかに後ろに戻るような感じがした。何かをしまう音と、取り出す音がした。
「真市、これを見ろ」
「見ていいのか?」
振り返った俺は、能代の右手に握られている物を見て血の気が引いた。
「拳銃?」
銃口は、俺の胸に向いていた。
「どうした? 自分はスパイではない、本当に無実なのだから証拠は何もあがらない。そう確信しているのなら、平気でいられるはずだ。組織の名誉のために一つ言っておく。撃つ必要のない者を、組織は撃たない」
「いや、俺は……」
一歩後ずさったつもりが、足を引きずるようにして半歩程度下がっただけで、そこからは動けなかった。
「俺はそれを……撃たないことを確認できないし、それに……」
この際だ。黙っていても、下手に否定しても撃たれるかもしれない。俺は意を決して言った。
「未葉も栞理も、答えられないものは答えられない、言いたくないことは言いたくないと言ってた。そこには人の感情もあった。でも君は規則だ命令だと言って、自分で考えることをしていない。命令なら平気で嘘をつくし、人も撃つんだろ?」
自分でも意外な思いだ。俺がこんな物言いをしたことがあっただろうか? しかし能代の感情が動いたようには見えない。
「お前に何がわかる?」
「一つだけ。『俺は、このままだと撃たれる』ってこと!」
俺は一か八か、能代に背を向けて走り出した。
「止まれ!」
背後から銃声がした。思ったより大きな音だ。体には当たっていない。
「次は当てるぞ!」
能代の警告を背に、幅1メートルくらいの道を下りていく。ジグザグになっている山道は、15メートルほど先で反対側に下りることになる。間に合うのか? 間に合っても上から撃たれるんじゃ? 背筋が寒くなった。
俺は下の道までの高さが数十センチくらいになると、飛び降りて身をかがめた。そのタイミングで銃声がした。立てば撃たれる。這って逃げようかと思ったが俺は、足元の砂に目をつけた。両手に握ってみると、砂利のような感じもした。能代の足音が近づいて来るのを聞くと、俺は砂をその顔に向けて投げつけた。
「あぁっ!」というような声が聞こえた頃には、俺はまた走り出していた。
数十秒か数分か、我を忘れて走った。何度か転びそうになり、その度に追いつかれる恐怖で体に悪寒が走る。山の麓に近づいてきたのがわかると、少し気が楽になるのと同時に、自分が相当息切れしていることに気づいた。
平坦な土地に出た。もう山を降り切っただろう。振り返ったがまだ能代は追いついて来ていない。セミの鳴き声のせいかもしれないが、足音も聞こえてはこない。
呼吸は整わないが、このまま駆け足で逃げよう。砂利道の先に塗装された道路がある。そこから遠くに見えた街まで行けるはずだ。
実はポケットの中に財布がある。監視役が能代ということもあって、万一に備えて持ってきていたのだ。
駅まで行ければ、電車に乗って帰れるだろう。未葉には悪いが、自分の身に危険が迫っていると分かれば協力などできない。未葉も責任を問われるのでは、という心配も頭をよぎった。しかしその責任は軽率に拳銃なんかを向けた能代にあるはずだ。
仕方がなかった。俺は道路に向かって走る。最後の確認をと後ろを見たが、能代は追いついてはこなかった。
能代と言わず、誰の姿もない。セミやカラスの鳴き声の他には、何も聞こえてはこない。
走った上に風もないせいで体は熱かったが、胸のあたりに冷たい感覚が湧き出してきた。一か八かという思いで逃げ出したが、こんなに簡単に逃げられるのか?
頭が不安に支配されていく。俺は術中にはまったんじゃないか?
安定してきた呼吸が、また乱れだした。走るペースにも、自然と狂いが出る。
能代が言っていた。俺に自分がスパイじゃないという確信があれば逃げないはずだと。それを試すために銃を向けたんじゃないか? 能代がではない。組織が、だ。
そして俺は逃げた。理由はどうあれ、結果として逃げている。少なくとも公道に出れば、逃げた事実は完成する。
戻るか……?
俺は自分が馬鹿なことを考えているかもしれない、と思いつつも、より安全な選択肢はどちらなのか、考えずにはいられなかった。このまま逃げるか、戻って身の潔白を主張するか。危害を加えられないなら、そっちのほうがいい気もする。組織から逃げられたとしても、あの謎の男たちから逃げ切れるわけではない。しかも隠れ場所を失うどころか、敵を増やす結果になるだろう。
やっぱり警察に行こうか、どこまで話すか迷うけど。
思考の定まらない俺は、気づけば足を止めていた。このまま決められずに突っ立っているのが一番まずい。それはわかっている。
「そんなとこで何をやってる?」
道路側から声がした。聞き覚えのある声だ。
「だ、誰」
声のした方を見ると、今までどこにいたのか、ひと目で組織の人間とわかる姿が目に入った。
組織の人間なのは服装でわかった。ショートヘアの、背の高い少女。
「栞理……!?」
服装もそうだが、声の主は知り合いだった。俺は二の句が継げないでいた。
まずい。ここで組織の、それも地下要塞部隊の隊員と会うなんて。しかも俺は引き返すことを考えたものの、その決断を下す時間がなかった。もちろん、時間があっても、引き返すことを選んだとは限らない。それも事実だ。しかしそういう決断をしていたら。あと10秒、いや5秒早く引き返す素振りを見せていたら。
こんな思考が瞬時に駆け巡った。俺は正直に話すことも、言い訳することも咄嗟にはできず、
「査問はどうなったの?」
と、頭のどこかにあった疑問を口にした。




