第5話 疑惑と嘘
「……つまり、その男を逃がした上に、真市に北方向のゲートの名前と、近くに情報部拠点がある事実を知られたわけだな」
説明を受けた能代は、信じがたい、というような目で栞理を見た。
「本当にごめん……」
栞理は頭を下げる。
「組織は、地下要塞は、これからどうなるという話だ」
この場で言うことがあるかと能代は尋ねた。
「その……あたしにとっては、男の逃走経路を封鎖できないのは想定外だった。
……望から離れたのは全部あたしの過失だ」
「他には?」
「あたしが追いかけることもできたけど……他に仲間がいたら、望の身が危ないと思って戻った」
「真市を地下に戻してから、追う選択肢もあったはずだが?」
「それは……」
「ドアを閉めてしまえば、指紋認証でしか開けられないはずだ。逃げられる心配もない」
「間に合わないと思ったんだ」
「不審者が来なくても、お前が離れている間に真市が逃げたら、とは考えなかったのか?」
「あたしと逆方向に逃げても直線だし、すぐ気づく。捕まえられる」
それに……と栞理は少し迷ったように続けた。
「望は逃げないって信じていた」
「信じる?」
能代は目を丸くした。
「冗談じゃない。何のために監視をしていると思ってる」
「そういうことじゃなくてさ。いや、それもあるんだけど……逃げるメリットがないとあたしは思う。それこそ敵組織のスパイでもない限りは」
栞理の言葉を聞いて俺は、ほとんど反射的に言った。
「すぐ忘れるよ」
2人の反応は違っていた。栞理は意外そうな顔をし、能代は疑いのこもった目を向けてきた。
「地上で聞いたことは、すぐ忘れる」
「そういう問題じゃない」
能代がため息混じりに言った。
「君は何も言わなくていい。今は担坂の話をしている。担坂の責任の話を」
彼は続けた。
「ただ……これ以上真市に情報を聞かれるわけにもいかないな。俺が直接関わるのはここまでだ。担坂、査問は覚悟しておけよ」
「ああ……」
と栞理は力なく応じた。査問? 俺はまた口を挟みそうになったが、能代は俺の背中を押してこの場を離れ始める。
「何かしらの処分が下ると思え。これからどこに出頭すべきか、わかってるな?」
「わかってるよ」
栞理はしばらくの間、その場で俺たちを見ていたようだったが、15メートルほど歩いて振り返ると、もう彼女の姿はなかった。
「部屋に戻ってもらう」
能代は俺が振り返っている間に、俺を追い越して前を歩いていた。
「それはいいけど……」
栞理はこれからどうなる? と聞こうとした。しかし能代が俺に少しでも情報を話すとは思えない。
「……なんでもない」
「戻るのが嫌なら、少し協力してくれるか?」
「協力?」
「組織は君の基本情報は得ている。しかしそれらはどうでもいい情報だ」
「どうでもいい?」
俺は昨日、情報を正確に話そうと努めた。それを否定された気がして、内心、少し感情的になった。声にもそれが表れたかもしれない。
「君自身のことはそこまで重要じゃない。君が追われていた時に、何があったのかや、本当に原因がわからないのか、などが大事なはずだ」
「敵組織は、俺が何らかの秘密を知っていると思い込んだ。それで俺を狙った……というのが未葉の仮説だったけど」
「その仮説を聞いたのはいつだ?」
原因がわからない、との言葉を俺は否定しようとしたが、能代はすかさず切り返した。
「最初に会った時……昨日の0時前後のはず」
「その時点では、君から情報を得ていなかった。根拠に乏しい仮説だ。そして昨日、組織は君の記録を取ったが、未だに原因はわかっていない。未葉が詳しく聞かなかったからだ」
だから俺が調べたい、と能代は話す。そういえば栞理が言っていたな……能代は未葉にライバル意識を持っていると。しかし能代は今、未葉を名前で呼んだ。栞理の言によれば、能代は違う派閥に属するという理由で、栞理のことを名字で呼んでいるらしい。では未葉を名前で呼んだのは同じ派閥だということか? そうとも考えられる。
「協力してくれないのか?」
「派閥争いのためじゃないなら、協力するよ」
「なんだって?」
能代は怪訝そうに言った。口が滑ったかもしれない。俺は言葉の意図を説明した。
「いや、能代くんが未葉にライバル意識を持ってるって聞いたから、派閥争いか何かかなと思って」
「派閥争い? そんなものこの組織には存在しない。ライバル意識のことを言ったのは誰だ? ……担坂だな?」
「ごめん、派閥争いは俺の勝手な想像だった」
嘘はついていない。能代と未葉の間に派閥争いがあるというのは、俺の想像だ。でも栞理とは違う派閥らしいが……
「誰が言ったと聞いてるんだ。担坂で間違いないのか?」
「ライバル意識のことは、栞理から聞いた」
「担坂め……余計なことばかり……」
俺が何も言わないでいると、しばらく無言の時間が続いた。
「俺と未葉は同じ派閥だ。それに、派閥が違ったとしても、それだけでライバル心を持ったりはしない。これは内面の問題だぞ、真市」
「ははは……」
俺は思わず苦笑した。多分能代は、俺が未葉に話したことの記録を読んでいる。俺自身のことは重要じゃないと言いながらも、俺が何を大事にしているかを記憶していた。
「わかってる。内面には踏み込まないよ」
「協力するかしないかは君の自由だ」
「協力する。追われていた原因が分かれば、日常にも戻りやすくなりそうだしね」
疑いが深まるのも嫌だから、という気持ちでもあった。
「ありがとう、じゃあ適当な部屋に……」
そう言うと能代は、ポケットから鍵を取り出して近くのドアを開けた。
「机がないな、椅子もない」
誰が持ち出した? と彼は言った。廊下に机を持ってくる、という未葉の言葉が思い出される。
続いて能代は隣の部屋を確認した。ここにも、机や椅子は置かれていない。
「なんだ? どうなってる?」
後ろ姿からでも、能代が困惑しているのがわかる。どうやらこの状況は異常らしい。なんとなくだが、未葉が関わっているような気がした。
「俺の部屋なら、机も椅子もあるけど」
この提案を能代は受け入れた。
「君がそれでいいなら、部屋で話してもらおう」
部屋に戻ると能代は、机の向きを変えた。普通に座れば壁に向かう形になるところを、ベッドに座った俺と向かい合うように置き直したのだった。
「あらためて、協力に感謝する。これは未葉が取った記録同様、公式の記録となる。正確に答えてくれ」
未葉の質問とは違う種類の問いが飛んできた。
「追われていた時、一昨日だな。逃げ始めたのはどのあたりで、何分くらい逃げていた?」
「逃げ始めたのは……」
俺はあの男たちが前に立ちふさがった場所を思い出す。しかしどのあたり、と聞かれても住所まではわからないし、近くに目印になる物もなかった気がする。
「家から西に1キロくらい離れた場所で……どの辺か、詳しくはわからないな……近くにラーメン屋があったけど、店の名前は見てない」
「近くというのは? 逃げながら、その店を通り過ぎたのか?」
「いや、通り過ぎてから2,3分歩いて、そこで追われ始めた」
「帰宅途中だったな。そうすると、店は逃げ始めた地点の西にあったことになるか?」
「多分……」
道は直線ではなかったが、方角でいうと西で間違いない。
「それから何分くらい逃げて、未葉と会ったところに着いた?」
「何分だろう……20分くらい、いや25分くらいかな。まっすぐ走ったわけじゃないし、時間から距離は測りにくいと思うよ」
「どんな道だった? 生活道路か?」
「だと思う」
能代は手帳にメモを取っていたが、書く手を止めると、数秒間何かを考えたようだった。
「その路地へは、どこから入った?」
「えーっとね……」
今度は大体の住所を答えられそうだ、と思ったその時、廊下から走る足音が聞こえてきた。鍵が開くと、入ってきたのは未葉だった。
「対旗、何をしているの?」
「見ての通り、一昨日の夜の記録を取っている」
未葉は机の近くまで来て言った。
「やめなさい、越権行為よ」
「そんなはずはない。真市の発言は記録に残ると、本人にも伝えてある」
「公式の記録を取れ、という命令を受けているの?」
「……受けていない。受けていないが」
能代はすぐに反論した。
「権限や命令の話をするなら、お前はどうなんだ。俺は未葉の指図は受けない」
「そうね。じゃあ地下要塞部隊長あたりに話をつけてくるわ」
「冗談だろう?」
未葉はいつもの感情が読めない顔だ。彼女は
「命令は文書で出してもらうわ。それまでは話の続きはしちゃだめよ? 真市くんもいいわね?」
と言ってなぜかボイスレコーダーを置いて行った。
「証拠を残す気だ。でもなあ、そんな必要はないんだよ」
「ルールに厳格そうだもんね」
俺は能代が「バレなければいい」というような考えの持ち主だとは思わない。しかし彼の発言の意図は別のところにあったのかもしれない。
「ルールか。もちろん俺は規則を守るが、あいつは俺がもっと大きな規則違反をすると疑ってるようだ」
「何のこと?」
「いや、いいんだ」
それから能代は、何も話そうとはしなかった。俺は規則違反、という言葉から、過去のことを思い出した。
いつだっただろう、中学時代に俺は、校則などのルールを破ってしまうことを過剰に恐れていた。その原因となった出来事がいつ起きたのか、記憶を探る。
2年生の時だったか、夏頃だと思う。校則かは忘れたが、同級生がルールを複数、破った。俺はそれを噂で聞いただけで、具体的に何をしたのかは今でも知らない。ただいずれも軽いルール違反に過ぎないと聞いていた。
皆冗談混じりでその話をしていたが、件の同級生は転校してしまった。ことの真相は未だに不明だ。謎の多い出来事だった。
この一件以来、俺はルールを必ず守ろうと決めた。ポジティブな動機からではないが、校則一つ破らなかったはずだ。今では恐怖心は和らいでいる。
能代はデジタル時計に何度か目をやりながら、未葉が戻るのを待っていた。俺は時計を見ていないので確かではないが、10分ほどで彼女は戻って来た。
「命令が出たわ」
未葉が指令書を体の前に掲げた。指令を受けた能代は、聞いても信じられない、といった顔でそれを斜め読みしている。
「まさか本当に部隊長に……」
「これではっきりしたわね。彼から情報を聞き出すのはあなたの役目じゃない」
半分放心しているようだった能代は、「よくわかった」と言うと席を立った。
「担坂のことは聞いているのか?」
「聞いたわ。今後の対応を考えているところよ」
「対応?」
能代は手帳をポケットにしまった。
「何の対応だ。お前がどう動こうと、担坂の処分に影響はないだろう」
「そうじゃなくて、地下要塞の今後に関して、対応を考えているの」
「他人事みたいに言ってるが、お前の後輩の責任なんだぞ」
「だから私が、今後予想される被害を軽くしようと……いえ他人事みたいなのはあなたの方よ」
「俺の方?」
「確かに栞理は私の後輩だけど、対旗だって、派閥は違っても所属は同じ地下要塞部隊でしょう? それに、彼女はあなたの後輩でもある。入った時期的には、ね」
ここで俺は、能代の今までの発言と未葉の言ったことに矛盾があると気づいた。
「ちょっと待って」
2人を遮って尋ねる。
「能代くんは未葉と同じ派閥だって言ってたよね? 栞理が別の派閥なら、未葉の責任が重いみたいな言い方は……いや、同じ地下要塞部隊ということなら、むしろ……」
2人の目を見た。能代の責任の方が重い気がするなどとは、直接は言えない。
「私と対旗は同じ派閥じゃないわ。そんなことを言っていたの?」
「言ってた……間違いなく」
「そうなの?」
未葉は追及する。
「言ったのは事実だ」
しかしそれは、と能代は自身のしたことは間違っていないと主張する。
「真市に信用してもらうためだ。大事な情報が記録されていなかったから、俺が聞き出す必要があると思ったんだ」
「嘘をつく必要はなかったわね」
「規則上問題はない。むしろ有益な行為だったと思っている」
「有益?」
未葉は驚いたように聞き返した。
「そうだ。俺個人の考えを話しておく。真市」
能代は俺をまっすぐに見た。
「地下要塞部隊がお前を監視することは伝えたな。俺はその理由についてこう解釈した。お前は敵対組織のスパイか、少なくとも関係者であるとの疑いを持たれている。ここに来た経緯にも、発言の記録にも、不可解な点が多すぎる」
「俺はそんなんじゃない」
すぐに弁解しようとしたが、能代は
「俺の個人的な考えだ。少なくとも俺は、お前を疑っている」
と言って相手にしなかった。
「さっき未葉は、俺が担坂の失敗を他人事みたいに考えていると言ったな。それは違う。俺にも当然、責任はあるし、これからどうすべきかもわかっている」
彼は司令部に行くと言って部屋を去った。能代も責任を問われるのか? という考えも頭をよぎったが、多分そうではなく、栞理の欠けた地下要塞部隊をどう運用するか、などを話し合うのだろう。人手不足らしい、と何度も想像したことを思い出した。
「未葉は俺を勧誘したけど……」
俺は今まで考えていた問題に、結論が出たと感じて言った。
「俺はやっぱり、組織には入れないな。二つの意味で……」
査問とか、処分がどうとか、怖い話も聞いたし、「派閥争いがない」という能代の言葉も本当かわからなくなった。何より能代は俺を疑っている。そして地下要塞部隊の上層部も同じなのかもしれない。
「真市くん、私はあなたがスパイではないって信じてるわ」
未葉はこう言ってくれた。もちろん、彼女も俺を疑っているという可能性もある。しかしこの状況で、俺が未葉の言葉を嘘だと考えてなんになるだろう。そうだ。俺はここに来てから、一度も嘘をついていない。今後も事実だけを語れば、疑惑もいずれ晴れるだろう。そのためにも、信じると言ってくれた人のことは、俺も信じるべきだ。
「ありがとう。組織には入れないけど、俺が日常に戻るために必要なことなら、可能な限り協力するよ」
「あら、そうなの?」
どういうわけか、未葉の表情が曇った気がする。組織の人員を増やせなかった、という思いなのか、それとも俺を部外者のままで協力させるわけにはいかないのか……
「だめなら、黙って待ってるけど……」
「いえ、いいの。助かるわ。これであなたの問題も、予定より早く片付きそうね」
問題ないらしい。こうして俺は、組織に協力することになった。具体的に何をするのかはわからないが、特に不安はない。
早く日常に戻りたいのが一番の動機だ。次に、俺が追われていた理由を知りたい。組織に協力すれば、それを解明しやすくなるのではないか、という期待もあった。
今朝の出来事も関係している。栞理が査問されたり、処分を受けるかもしれないことに、俺も責任を感じている。もしあの男が敵組織の人間だったら? 俺には、真市望ではない、と答える選択肢もあった。そもそも俺がここにいることは、誰にも知られてはならないのでは?
……ただ俺は、真市望です、とも答えていない。相手が名乗らなかったから、こちらも名前を言わなかっただけ、ともいえるのだが。
まだ考えはまとまっていないが、考えるだけ無駄かもしれない。俺がするべきことは、未葉に言ったとおり、日常を取り戻すために活動することだ。理由は関係ない。
「地下要塞を出る必要があっても、協力してくれるの?」
未葉は俺が、どれだけのリスクを冒す覚悟があるのか、確認してきたのだろう。この状況で要塞から出ることを考えると、少し怖くもなった。それでも未葉が俺を助けてくれた時、彼女は1人で地上に出てきた。このことを思い出せば、怖いなどと言ってはいられない。
「もちろん、必要ならそうする」
「心配しないで。別の拠点に行ってもらうこともある、というだけよ」
どこかはわからないが、俺自身のためなのだ。どこへでも行こう、とためらいなく決めた。
「わかった。それで早く帰れるなら、喜んで協力する。あと、もう一つ……」
俺はこのことを言うべきか迷ったが、能代の発言も含めて伝えることにした。
「一昨日俺が、なんで追い回されていたのか、そこが気になる。さっき能代が記録を取ったのも、それを調べたいからだって言ってた。
……俺も多少のリスクは覚悟するから、原因究明のために動けないかな」
「……少しは協力してもらうと思うけれど……あなたの身柄が敵の手に渡れば、全て終わりなのよ」
未葉は俺の急な要望に驚いているようだった。しかし何も、好奇心からこんなお願いをしたのではない。
「原因がわかれば、今の問題も早く解決するかと思って。栞理も当分は離脱しそうだし、予定が狂ってたりはしないの?」
「それは大丈夫よ。別の人間が来るもの。あと栞理なら数日で戻れると予想するわ」
「でも査問されるし、処分も下りそうだって能代が……」
「栞理は数日で戻るわ。根拠は言えないけれど」
未葉が何かするのか? と聞きたくなったが、さすがに聞けない。聞くなら戻ってからにしよう。
数日で戻るとなれば、その時点では処分を受けていないと考えるべきか? そうであってほしい。俺は未葉の言葉を信じることにした。
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