第1話 地下要塞の少女
7月下旬のある日、俺は謎の男たちに追われて走っていた。住宅街を十数分逃げ回ったので、ここがどこか正確にはわからない。逃げ始めた地点は家から1キロほど離れた場所だ。時間が多少遅くなっただけの、いつもの帰り道のはずだった。狭い道を歩いていると、前に複数の男が立ちふさがった。次の瞬間には、横道から現れた男が俺の腕を掴んだ。恐怖を感じた俺はその腕を振り払って逃げた。それからずっと走っている。
「人違いじゃないんですか!? 僕は真市望です!」
と大声で呼びかけたが返事はない。無言のまま追ってくる。偽名ではない。俺はただの高校生だぞ?
時間が遅いこともあって、道には通行人は誰もいない。街灯も少なくなってきた。行き止まりが近いのでは? と不安になる。しかし交差点で左右を見ると、左側に大通りが見えたのでそこへ出て、また左に曲がった。
ここは? 以前行った電気屋と同じ通りだろうか。4車線か5車線の道だが車は通っていない。歩行者もおらず、見える店も全部閉まっている。
スマホは家にあるので助けも呼べないし、交番か開いている店を探すしかない。警察署は遠いし、逆方向だ。もう全く知らない場所なので、逃げながら探すしかないが……
100メートルほど先に信号機が見える。歩行者用信号もあった。正面が赤だったら右へ渡ろうか、と右を見たところ、遠くにだがコンビニの看板が見えた。ここから見える唯一開いている店だ。そこで通報してもらおう。
車が来ていないのを確認して、右に走った。男たちも追ってくる。コンビニの前に諦めてくれればいいけど……と思いながら渡り切り、正面の小道に入った。畑やビニールハウスの横を走り抜ける。前にガードレールと金網が見えた。嫌な予感がする。
「まずい」
低くなっている地面に線路が通っていた。橋は? と左右を見る。一つだけ、数十メートル先にあった。
そっちに向かう。車両止めなのか、鉄製の柵のようなもの地面から伸びていた。それをすり抜けて進もうとしたが、横の建物から黒い服の少女が飛び出してきた。
「そこからは私有地よ。引き返して」
少女は両腕を広げて言った。
「私有地!? 通してください。誰かに追い回されてるんです」
焦って後ろを振り返ったが、誰もいない。足音もしなかった。少女は黙っている。帽子を深く被っているのではっきりしないが、俺と同い年くらいだろうか。
「……あの橋まで行きたいだけなんです」
橋を指差したが、少女は目を少しそちらへ向けるだけだった。
「橋まで行って、そこからどうするの?」
「いや……遠くにコンビニが見えたから、そこまで行って通報してもらおうと思って」
「そう……通報ならうちでしてあげましょうか?」
誰も来てないみたいだけど、と少女は俺の後ろを見て言った。
「さっきまでは確かに5、6人居たんだ」
「とにかく、電話貸してあげるから通報しなさい。それが不法侵入の言い訳じゃないのなら、ね」
少女は帽子を浅く被りなおした。初めて目を見たが、声と同じで冷静なように思える。
不法侵入か。言われて気がついた。いや私有地だとは知らなかったのだが、ここは言われたとおりにしたほうがいいと思った。
「ありがとう。そうする」
「じゃあ着いてきて」
少女は出てきた建物の中に入っていった。ガレージか何かに見える。俺も続いた。奥の黒いドアの鍵を開け、地下に降りて行くらしい。
「地下室?」
「そう。携帯が壊れてるし、固定電話も地下にしかないの」
「へぇー……」
思ったより深い地下だ。地下室に続く薄暗い階段を十数段降りた。
結構広い部屋だった。こちらは明るさも十分で、窓がないことを除けば地上と変わらない印象だ。
「えーっと電話は……」
俺は部屋を見回した。一つある机の上にも、他の所にも電話機らしいものはない。
「まあ、そこに座って?」
少女はエアコンをつけると、椅子を指差した。俺がそれに従うと、
「ねえ、この建物、地下何階まであると思う?」
と聞いてきた。
「何階まで? 1階か2階じゃないの?」
「20階はあるわ」
何の冗談だと思ったが、そんな風にも見えない。同じ市内にそんな場所があるとは知らなかった。
「何なら見に行く? 地下15階くらいまでなら見せてあげるわ」
「いや、いいよ。それより電話はどこ?」
少女は目を伏せた。瞳の色は少し灰色がかっているようだ。
「私ね、あなたがなぜ追いかけられてたのか、なんとなくわかるの。それが私たちのせいかもしれないって言ったら、怒る?」
「えっ」
私たちのせい? この少女と、あの男たちは何か関係があるのか? 少し身の危険を感じて、悪寒が走った。
「一応言っておくけど、私は敵じゃないわ。そこは信じてほしいのだけど……説明するとね、多分彼らは、あなたが何らかの秘密を知っていると思い込んでるの。こういう所に関する秘密を」
少女はスマホを取り出した。さっき携帯は壊れていると言ったはずだが……
何かの操作をすると、壁が開き、向こう側に長い廊下が見えた。
「ここはただの地下室じゃなく、地下要塞なの。彼らのような組織と、私たちは戦っているわ。彼らも、似たような地下施設を持ってるはず」
急すぎて理解が追いつかなかった。地下要塞? あの男たちの組織? 向こうも地下要塞のようなものを持ってるだと?
「今日、偶然ここの入り口近くまで来たことは運が良かったわね。でもそれで彼らはあなたを私たちの仲間だと思ったかもしれないわ。もっとも、前から思っていたかもしれないけれど」
「だからこの辺で追いかけるのをやめたのか?」
「多分、そうでしょうね」
ああそれと、と少女は続けた。
「そういうわけだから、警察に言っても信じてもらえないわ。あなたをここで匿うのがベストだと私は思うのだけど、別の意見があるかしら?」
「いや、うーん……」
色んな考えが交差したが、まず考えついたことを言った。
「家族が心配する。出張中だけど……いつまでも帰らないわけにはいかないよ」
「出張? どこに行ってるの?」
少女の声は意外そうに聞こえた。本当のことを言えばもっと驚かれるだろうか。
「それが国内じゃなくて……でも遅くとも8月20日には帰ってくるよ。それまでにどうにかしないと」
「ええ、わかったわ。その辺は調整する」
少女は廊下の方に向かった。ひと月近い出張には特に驚かないようだ。
「じゃあ今日からここに寝泊まりしてもらうわよ? 着替えとか、必要なものは用意するから。地下2階に行くわよ」
廊下は暗かったが、スマホで照明を強くしたらしい。明るくなったことで長さがわかった。30メートルはある。
「全部スマホとかで操作してるの? やっぱり要塞っていうくらいだから、ここで戦うことも想定してるとか?」
「基本は、そう。戦う想定に関しては答えられないわね。それとも」
「ん?」
少女は立ち止まると、こっちを見て言った。
「私たちの仲間になってくれるなら、教えてもいいわ」
冗談とは思えない目をしている。急な勧誘だった。もちろん断る。
「遠慮しとく……早く帰りたいしね」
「そう……」
少女はまた歩き出した。
「家ってどこなの?」
俺は少し迷ったが、家の住所を答えた。
「ああ、そこね? 大体知ってるわ」
「俺のこと調べてたとか?」
「ええ。多少は調べたわよ。家までは知らなかったけれどね」
どこまで知ってるのかが気になった。だがもっと気になるのは、あの男たちについてだ。なぜ俺のことを追いかけてきたかや、少女の仮説どおりならなぜ俺が秘密を知っていると思い込んだのか。
「俺を追いかけてきた奴ら、君たちの敵対組織らしいけど、俺を追いかけてきた理由はわかってたりするのか?」
「……そこも調べるよう上には頼んでおくわ」
上、か。この少女は組織内でどういう立場なんだろう? 組織の規模も知りたい。
「理由まではわかってないんだ。上ってのは誰のこと?」
「それも仲間になってくれないと教えられないわ。
……ねぇ、やっぱりその気はないの?」
今度は立ち止まらなかったが、また誘われた。どうやら人手不足らしいと勝手に想像して、ここにいて安全なのかどうか、不安になった。
「ないよ。俺、巻き込まれただけじゃないか」
人手不足だとしても、この組織に入る気はない。
「そう……そうよね。ごめんなさい」
少女は少しうつむいた。
「いや、謝ることでもないけど……」
しかし巻き込まれたのは事実だ。なぜこうなったのかすら、今はわかってないらしいが。
少女は鉄扉を開けて、階段を降り始めた。地下室までの階段とは違い、少し広くて明るかった。ここが巨大地下施設らしいことを実感した気がする。
地下2階に降りると、また長い廊下が左右に伸びていた。
「あなたの部屋は、そうね……」
左右を見渡すと、少女は右側に進んだ。5メートルくらいの間隔でドアが並んでいる。
数十メートル歩いた。ずっと同じ風景なのが少し不気味で、そういえば装飾品の類も全くないことに気づいた。壁には塗装がしてあったが、床はむき出しのコンクリートだ。
正面に壁はまだ見えない。右側にも廊下がある場所に来ると、少女は足を止めた。
「こっちの、一番奥の部屋でいい?」
少女が右側を指差す。15メートルくらい先に壁がある。一番奥の部屋は壁のすぐ手前らしく、左側にドアが見えた。
「いいよ。歯を磨きたいんだけど、洗面台とかは部屋にある?」
「ええ。窓がないことを除けばホテルの一室と変わらないわ」
右側に進む。少女が部屋の鍵を開けた。部屋の鍵はアナログ式だった。今思えばほかの部屋もそうで、カードキーで開けるような部屋はなく、鍵穴が付いていた気がする。
「はい」
鍵を渡された。意外と複雑な作りで、家の鍵みたいだった。
「なくさないでね。スペア、あまりないから」
「なくさないよ……」
部屋は少女の言ったとおり、ホテルと似ていた。床も廊下と違って、絨毯が敷いてある。壁紙も貼られていた。
奥にベッドと机が置いてあった。テレビがないところがホテルと違う点だろう。
「さて……」
少女は一段落した、という感じで口を開いた。
「今まで聞けてなかったけど、あなた、名前はなんていうの?」
少し意外だった。俺のことを調べたと言っていたが、名前を知らなかったらしい。
「真市望。こう書くんだ」
俺は机の上にあった紙とボールペンで名前を書いた。
「私はこういう者よ。組織内で使ってる身分証があるの」
それは見せられるのか、と思いながら見たが、本名かどうかわからない名前が書かれていた。
一号未葉
一号?
「一号って、名字?」
「そう。未葉って呼んでいいわよ」
「わかった。……失礼だけど、それ、本名?」
少女、未葉はこんな反応に慣れているのか、俺の問いにも感情が動いた様子はなかった。
「本名よ。組織外でもこの名前で生活してるわ」
本当なら少しは不安にもなる。この組織、情報戦は強いのだろうか。俺がここにいることも敵にバレバレだったりはしないか?
「詳しい話は明日でいいわね? もう夜も遅いし。着替え持ってきてあげるわ。真市くん」
「ありがとう。実は結構眠いよ。色々あって気づかなかったけど」
部屋を見回したが時計はなかった。時間の感覚もやや狂っているだろう。今何時くらいかわからなかった。ただ確実に日は回っている。
未葉は部屋から出ていった。机の引き出しを開けると、デジタル時計が入っていた。しかし電源が入っていない。電源を入れると、午前7時と表示された。そんなはずはないだろう。時間は起きてから調整することにして、アラームを8時間後、午後3時にセットした。
1分くらいで未葉は戻ってきた。手には少し変わった寝間着を持っている。未葉はそれをベッドに置いて「じゃあ、おやすみ」と言って出ていったが、最後にこう言い残した。
「実はあの場所、私有地じゃないの。あなたを保護するために嘘をついたわ。ごめんなさいね」
俺はすでに眠かったこともあって、それは気にならなかった。
シャワーは明日浴びることにした。寝間着に着替えてから、歯を磨きに洗面所に入る。鏡を見ると、目の下に少しクマができているのがわかった。歯磨き粉の容器や歯ブラシは白い無地のもので、組織内で作ったのかな? とそんなことを考えた。寝間着もそうだ。このなんというか、独自に機能性を追求したようなデザインは未葉が着ていた服に似ていた。
歯を磨く間、急にこれからのことが不安になった。俺、無事に日常に戻れるのか? 両親が帰ってくる日、多分8月20日くらいがタイムリミットだと、未葉には伝えてある。もし間に合わなければ、それだけで大事になりかねない。そこから数日で学校も始まる。未葉は調整すると言っていたが、本当に間に合うのか? そうだ、夏休みの課題は? 日常に戻る前提なら、夏休み中どこで暮らすにしてもにしても終わらせないと。
……まあ、今は考えてもしょうがない。明日詳しい話をするみたいだし、そのときに言おう。
俺は歯を磨き終わると、アラームがオンになっていることを確認して、すぐに寝た。地下だから当然だが、風の音もしないことに少し違和感を覚えていた。




