第8話 二人の転校生(その1)
エミとケイトは、テストを行った埠頭から、ケイトの住む高層マンションの40階のベランダへと舞い戻った。
「いいこと、くれぐれも言っておくけど、あなたは、決して“悪の魔法少女”なんかじゃありませんからね」
エミはケイトの耳元に自分の顔をかなり近くまで寄せて囁くように言った。
その際、ケイトはキスでもされるのではないかと、ドキドキした。
エミの身体からは、嗅いだことのない香水の匂いがした。
ママが使っている柑橘系の香水とは違って、大人の香りというか、ムスクというのだろうか、独特の甘い香りで、嫌いじゃない。
「そうそう、その恰好は、忘れないうちに元に戻しておいてね」
エミに言われてケイトは、自分の姿を見回した。
「あの、どうすれば?」
「ああ、御免なさい。
元に戻る呪文は、
zur ursprünglichen Form zurückkehren (元の姿に戻れ)よ。
そして変身した時と同じように、自分の前でマジック・ワンドを振ってみて」
「ずー、うしくりん、ふぉー、ふぁんつおーれん?」
ケイトがエミの真似をして言われた通りに唱えてからマジック・ワンドを振ると、元の制服姿に戻ることができた。
元の姿に戻って感じたのだが、魔法少女のコスチュームより、制服の方が何倍も重かった。
「で、でも、こんないい加減な呪文の唱え方で、変身したり、元に戻ったりできるんですか?」
ケイトは心配になって尋ねた。
「呪文は“きっかけ”にしか過ぎなくて、実際の魔法の効果とはあまり関係ないの。
だから、そのうち詠唱も必要なくなるわよ」
ケイトが不安な顔のままでいたのが気になったのか、エミが付け足して言った。
「それにしても、あの白い魔法少女さんは私たちのことをかなり誤解しているようね。
いいこと、ケイトちゃん、私は決して性悪でも、“悪の魔法使い”でもありませんからね。
……まあ、いいわ。追々、詳しく話しましょう。
今日は疲れたでしょうから、ゆっくり休みなさい。
じゃあね」
ケイトのそばをさっと離れると、襟を正すようにして、エミは最初に会ったときのような笑みを浮かべ、袖を胸元から顔の方に擦り上げるような、いかにも魔法使いというような、わざとらしい仕草で姿を消した。
ケイトがベランダからリビングに入り、壁に掛った時計を見ると、エミが最初に現れてからこの時まで、まだ一時間ぐらいしか経っていなかった。
時計の針は九時少し前を指していた。
「あれ? まだこんな時間かあ。
もう夜中の三時ぐらいかと思ったのに……」
感覚的には、もっともっと長かった。
エミさんという魔法使いのお姉さん(?)から、自分が魔法少女に選ばれて、黒いコスチュームに変身して、空を飛んで埠頭に着いて、そしてギャングらしきオジサンたちと闘って(?)、
そして白い魔法少女のアカリちゃんが現れて……。
『待ちなさい! 悪の魔法少女!』
彼女が自分に呼びかけた声がまだ耳の中までこびり付いている。
(……こんなはずじゃなかったのに)
十四歳の誕生日に魔法少女に選ばれて、嬉しかった気分が、彼女の一言で一辺に吹き飛んでしまった。
パパとママはまだ帰っていない。
ケイトは、これまでの人生で経験した出来事の半分以上が、わずか一時間の中に、ぎゅっと押し込まれたような気がして、とても疲れていた。
自分の部屋に戻り、シャワーを浴びるのも面倒で、着替えもそこそこにベッドの上に気絶するように倒れこんだ。
*
はっと目が覚めたときは、朝だった。
「ケイトちゃん、そろそろ起きなさい」
部屋のドアがノックされて、ママの声がした。
中学生になったら、ちゃん付けは卒業ねと言っていたママは、未だに“ケイトちゃん”と呼んでいる。
ケイトは別にそれで構わないのだが、『じゃあ、ケイトもママのこと、今度からお母さんって呼ぶね』と言ったら、『ええ、ママはママの方がいいなぁ』と文句を言われた。
そのせいかどうかは知らないけれど、今もお互いの呼び方は変わっていない。
ケイト自身も別に中学生になったからとか、高校生になったからとかで、親や子供の呼び方を変える必要なんてないんじゃないかと、思う。
「おはよう、ママ」
「おはよう」
ちょっと眠たそうな声で、ママがコーヒーを入れながら応えた。
コーヒーは自分の分だ。
ケイトは未だにコーヒーが苦手で朝はミルクしか飲まない。
「ごめんなさいね、昨日は。
ケイトちゃん、遅くなったけど、お誕生日おめでとう」
そう言って、ママはリボンの付いた小さな包みを渡してくれた。
「これは、パパとママからよ」
箱の大きさを見て、それが一目で“何か”わかった。
「ありがとう、ママ!」
約束していた新しいスマホだ。
ケイトがこれまで使っていたのは、いわゆる“キッズ携帯”だった。
一般的なスマホに比べて機能が制限されているので、前々からちゃんとしたスマホが欲しかったのだ。
クラスの中でも、ほとんどの子はスマホを持っていて、学校の中で大っぴらに使うのは、禁止されていたけれど、仲の良い友達同士が、密かにSNSでやり取りしていたりして、羨ましかった。
ミドリちゃんも実は、もう両親におねだりしてスマホを買ってもらっていたけれど、ケイトがいる前では、気を使って出さないようにしているのがわかった。
でも、これでミドリちゃんとも気兼ねなく連絡を取り合うことができると、ケイトは喜んだ。
「ケイトちゃん、それ、まだ充電してからじゃないと使えないから気を付けてね」
箱を開ける前から、ママが“ネタばらし”をしてしまった。
「あ、まあ、いいか」
ママがコーヒーカップを片手にくすっと笑った。
*
ママは少し疲れているようで、今日の仕事は、午後から行くらしい。
パパはすでに出勤していると言っていたけれど、もしかすると、昨日の夜は帰ってこなかったのかもしれないと、ケイトは思った。
「あ、ケイト、それ」
「っへへ、買ってもらったよ」
登校で待ち合わせている電信柱でミドリちゃんの姿を見て、ケイトは、鞄からスマホを取り出し、早速、見せびらかしてみせた。
「まだ充電してないんで……、あれ?」
「なんだ、充電してあるじゃん、ケイト、そそっかしいね」
確かにスマホの電池は、フルの100%が表示されている。
(これって、もしかして、魔法??)
よくわからないけど、魔法の力らしい。
昨夜はとても疲れて爆睡してしまい、起きた時には、自分が魔法少女になったという意識が、半分以上吹き飛んでいた。
もしかして、夢だったのではないか、という想いもあった。
あえて、何かを試してみようという気も起きなかった。
だが、このスマホが特に充電もしていないのに、フルに充電された状態を見ると、やはり不思議なパワーが備わっているのかもしれないと思わざるを得ない。
そう思うと、ケイトの心臓はドキドキし始めた。
やがて学校が近づいてくると、校門の前に一人の少女が立っているのが目に入った。
(え?)
その少女の姿を見て、ケイトの足が止まった。
「どうしたの、ケイト?」
ケイトの只ならぬ様子に、ミドリが心配そうに振り返った。
校門の前に立つ少女は、紛れもなく昨夜見た、あの白い魔法少女、“アカリ”の姿だった。