エピローグ
「ところでお兄様、ひとつ気になることがあるのでお聞きしたいのですがよろしいでしょうか?」
「ん? 何だいデボラ」
徒労感を覚えながらも、妹からの質問に応じるハンス。
「お兄様は、お義姉さまに婚約破棄をされると約一カ月前から思ってたんですよね?」
「その話は、あんまり蒸し返して欲しくないけど……うん、そうだよ」
「一カ月もの間、お兄様ともあろう御方が勘違いし続けるなんて変です。私の知っている賢いお兄様なら、絶対に途中で違和感に気づくはずです。なのに何故、最後まで気付かなかったのか、とても不思議でなりません」
「うっ……そ、それは―――」
妹の指摘に、ハンスは言葉を詰まらせる。
「たとえクリスティーナお義姉さまが婚約破棄とクーデターを狙っていたとして、お兄様を拘束せずに建国記念祭まで野放しにしているのは変だと思いませんか? 反乱の意思を打ち明けた時点で、普通ならば旧体制の王族は即座に処刑か幽閉でしょうに」
「……」
「それに、一カ月も時間があったのですから父さまや公爵家当主に探りを入れたりすればすぐに勘違いだったと気づけたのでは? 何から何までお兄様らしくないです。いったいどうしてそんな間違いを犯したのですか?」
「……」
痛いところを突かれ、押し黙るハンス。
確かにデボラの言う通り、ハンスがいくら婚約破棄されると思い込んでいたとはいえ、もっと早くに誤解だと気づいても良かったはずだ。
「お兄様、黙ってないでデボラにも分かるように説明してください。ここが『小説家になりましてよ』の世界だったら読者たちから気になる点で『賢王の再来(笑)』とか『一カ月も勘違いし続けるとか王子が無能すぎる』とかで感想欄が埋まりますよ?」
「だ、だって……」
「だって?」
「そ、それは……」
「それは?」
絞り出すように言葉を紡ぐハンスに対して催促を重ねるデボラ。
やがてハンスは観念したかのように口を開いた。
「……怖かったんだよ」
「怖い?」
「クリスティーナに婚約破棄を突きつけられたと思ったとき……僕は頭が真っ白になって、何も考えられなくなって、ただクリスティーナにフラれたくない一心で、クリスティーナを繋ぎとめることしか考えられなかった。確かに父上や公爵に探りを入れたりしてさりげなく事実確認すれば済んだ話かもしれないけど、クリスティーナに捨てられる現実を認めることが、怖くて堪らなかったんだ……」
そう言って項垂れるハンス。
この一カ月間、彼はずっと悩んでいた。
婚約破棄されたくない。クリスティーナに捨てられたらどうしようと不安で不安で仕方がなかったのだ。
「なぁるほど。つまりお兄様は、お義姉さまに裏切られたというショックで、最善策を考えたり違和感に気付ける余裕が無かった、というわけですね?」
「……」
図星だった。
愛してた人に婚約破棄を告げられて、平静ではいられなかったのだ。
それこそが勘違い騒動が長引いた原因である。
「殿下……」
そんな弱音を吐くハンスを見つめながら、クリスティーナは何とも言えない表情を浮かべていた。
普段は頼りがいのある知的な婚約者が、自分のことでこんなにも取り乱してくれるとは思わなかった。
王太子として充分な教育を受けて精神的に円熟していると思っていた彼が、今はまるで年相応の少年のように思えた。
「ふむ……。なるほど、なるほど」
一方、ハンスの話を聞き終えたデボラは、何度も小さく頷いていた。
「ふふふふふ……。お義姉さま、これは思わぬ形で次回作への良い参考資料を手に入れてしまいましたね」
そして、どこか楽しげに笑うデボラ。
「如何に優秀な人間でも、大事な存在のことになると目が曇り、合理的な行動が取れなくなる。お兄様をモデルケースにして、婚約破棄してくる王子の説得力をアップさせるストーリー展開を考えましょう!」
「!? ちょ、ちょっと待てデボラ! まさか僕の失態をダシにして創作に役立てるつもりかい!?」
「あら、いけませんでしたか?」
「当たり前だろ! 恥ずかしいじゃないか!!」
「何を仰いますか。お義姉さまの婚約破棄小説のクオリティ向上の為です。恥など幾らでもかいてください」
「嫌だよ! 流石に怒るぞ!?」
「怒ればいいじゃないですか」
「――――ッ!? い、いいんだな? 泣いても知らないぞ? 怒ったかんな? 許さないかんな?」
「はしもとか~んなっ」
「なにが!?」
唐突に出てきた謎ワードに瞠目するハンス。
「さすがデボラ様、見事な禁術の詠唱ですね」
「今の禁術なの!?」
凄まじく雑な伏線回収である。
「ふふっ、それではクリスティーナお義姉さま、私はお兄様の怒りが静まるまでお暇させてもらいますね」
「はい。今日はありがとうございました」
クリスティーナが深々と頭を下げると、デボラは「いえいえ、こちらこそ」と返し、クリスティーナの膝の上から降りてそそくさと退散していった。
「……行ってしまった。全く、デボラには困ったものだ」
嵐のように去っていくデボラを見送った後、ハンスが疲れた様子でため息をつく。
すると、そんなハンスの手をクリスティーナがギュっと握ってきた。
「殿下」
「な、なんだい?」
少しだけ動揺した様子でハンスはクリスティーナの方に向き直る。
クリスティーナは真っ直ぐに彼の瞳を見据えると、ゆっくりと口を開いた。
「私は貴方との婚約を解消するつもりはございません」
「えっ?」
クリスティーナの言葉に、ハンスが呆けた声を上げる。
「これからもずっと、殿下のお側におりますので、どうか安心してくださいませ」
「クリスティーナ……」
そう言って微笑みかけてくるクリスティーナに、ハンスは胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「ありがとうクリスティーナ。あぁ……、僕はなんて馬鹿だったんだろう。君に婚約破棄されると思って、色々と空回りしてしまった。君のことをもっと信じるべきだったのに……。君のことをもっと理解すべきだったのに……。僕は本当に愚か者だ」
「ふふっ……。私のことを、あそこまで想ってくださってたなんて婚約者冥利に尽きますわ」
今回の騒動は、お互いに誤解していたことが原因であった。
しかし、それによって互いの想いの深さを知れたことは二人にとって僥倖でもあった。
「クリスティーナ、僕は改めて誓うよ。永遠に君だけを愛し続ける。世界で何よりも、君が好きだ」
「はい。私も同じ気持ちです。愛しております、殿下……」
二人は見つめ合い、互いに微笑み合うと、どちらともなく唇を近づけて……。
―――……窓から吹き込む初夏の風だけが、彼と彼女の逢瀬を優しく見守っていた。
終わり