勘違いの始まり
【主な登場人物紹介】
・クリスティーナ
公爵令嬢。
婚約破棄を題材にした小説を書こうとしている。
・ハンス
第一王子。クリスティーナの婚約者。
クリスティーナが婚約破棄を題材とした小説を書こうとしていることを知らない。
「珍しい表紙の本だね。何を読んでいるんだい、クリスティーナ」
その日、公爵令嬢クリスティーナは婚約者であるハンス王子と王宮図書館で自習に励んでいた。
豪華な図書室の片隅。そこに置かれたテーブルに向かい合って座り、お互いに本を読む。
ここに置かれている書物は、いずれも格式の高いものばかりで、教養を身につけるためによく使われていた。
だが、今日に限って言えば、クリスティーナが読んでいるものは娯楽小説の類であった。大衆用に装丁のグレードを落としたものである。
ゆえにハンスは興味を持ったのだ。彼は読んでいた詩集を閉じ、端正な顔に好奇心を浮かべて問いかけた。
ハンスは金髪碧眼の美青年だ。すらりと背が高く、いかにも王族らしいキラキラとした雰囲気をまとっている。常人ならば、そんな彼に微笑みかけられた時点で、その美貌と声音にハートを鷲掴みにされてしまうのだが……、
「ああ、これですか」
この国の公爵の娘であり、将来の王妃となるクリスティーナには、ハンスのイケメンオーラは通じなかった。
クリスティーナはハンスのその顔をちらりと見上げ、また手元へと視線を落とし、答えた。
「婚約破棄を題材とした小説ですね。今後の(執筆活動の)ために勉強をしているんです」
「!?」
公爵令嬢の発言に目を見開く王太子。
(婚約、破棄……? 今後のために、婚約破棄の、勉強……?)
ハンスはクリスティーナの言葉を反芻し、理解しようと努めた。しかしうまく飲み込めない。
否、本当は分かってしまっている。彼女が何を言いたいか分かってしまっているからこそ、脳が理解を拒んでいるのだ。
「こ、今後のためだって……? どどど、どういうことだい?」
「婚約破棄(という大人気ジャンル)で、私が頂点に君臨するためです」
「――――ッ!?」
確定的だ。もはや疑う余地もない。
クリスティーナは、婚約破棄をしようとしている。
そして婚約解消後に、この国の頂点――つまりは女王として君臨するつもりなのだ。
(公爵家によるクーデター? いやしかし、なぜ王太子である僕に反乱の意思を打ち明けたんだ……? ま、まさか既に軍部を掌握済みなのか!?)
明晰な頭脳をフル回転させながらハンスは最悪の事態を想像した。
勝利を確信しているからこそ、クリスティーナは自分に報告をしたのではないだろうか。目の前で優雅に本を読む公爵令嬢は有能だ。その彼女が叛逆の意思を示すということは即ち、すでに準備は完了しており、ここから盤面を覆すことは不可能だと暗に告げているのだろう。
もしかしたら、今この図書室の周辺を警備している近衛兵たちも買収されているのかもしれない……。
(詰みの状態だ……。王族しか知らない隠し通路を使ったとしても、僕だけ逃げても意味はない)
万事休すとはまさにこのことだ。
そんな妄想に取り憑かれながらも、ハンスは必死に思考を続けた。
「君が勉強家なのは重々承知だが……、婚約破棄の勉強なんていらないんじゃないかな?」
現時点で拘束をされていないということは、まだ対話の余地があるということだ。
父や妹の身を案じながら、せめて穏便に事を済ませようと考えたハンスであったが、
「いえ、婚約破棄の勉強は(優れた婚約破棄小説を書くためにも)必要なことですわ」
クリスティーナはきっぱりと否定をする。
「ど、どうしてだい? 僕は君に歯向かう気はないよ。君が女王になることを望むならば、王配として僕は尽くすのも吝かじゃないけど」
「? ――ああ、成程。私が(小説界の)女王になったらパトロンとして支えてくださるという意味ですか? なかなか洒落た例えですね」
上流階級特有の遠回しな表現であると認識したクリスティーナは小さく笑みを浮かべた。
「……? うん、そうだよ。だから、ね? 一緒に(国を)盛り上げていこうよ」
「博識な殿下の協力を得られるのは心強いです。二人で最高の婚約破棄(小説)を作り上げましょう」
「なんで!?」
思わず叫んでしまうハンス王子。
クリスティーナはキョトンとした表情でハンスを見た。
「えっ、どうかされましたか?」
「『どうかされましたか?』じゃないよ!? ヤダよ婚約破棄なんて!!」
「ですが、今の時代において婚約破棄は貴族だけでなく平民も望んでおりますので……」
「望んでんの!? 民衆も(僕たちの)婚約破棄を望んでんの!?」
「ええ。ここ数年、婚約破棄ブームは続いておりますわね」
「バカな……ッ!?(そんなデモが起きていたなんて知らないぞ!? しかも年単位だって!? 僕の耳に入らないように情報操作でもしていたのかッ!?)」
ハンスは愕然とした。
公爵家による国家転覆計画は、数年以上前から用意周到に練られていたのだ。
「……ねえ、クリスティーナ」
「はい」
「君は僕のことがキライなのかい?」
「いえ? 愛しておりますが」
「じゃあ何が不満なんだい? 本当のことを言ってくれ。駄目なところがあれば、直すから」
「不満などございません。私は公爵家の令嬢として、この国の国母になる者として、婚約破棄(小説)で人気者になりたいだけです」
「どういうこと!?」
婚約破棄で得られる人気ってなに!?
人気取りの為だけに僕は捨てられるのか!?
そんな心からのツッコミをハンスがしようとした瞬間。
「あっ! お兄様、お義姉さま~~っ!」
とてとて。と可愛らしい足音を響かせながら、一人の少女が現れた。
ハンスの妹であり、この国の第一王女でもあるデボラだ。
まだ幼い彼女は満面の笑顔で駆け寄ってくると、二人の隣に座ってニコニコと微笑む。
「なんだか、楽しそうな話をしてますね! デボラも混ぜてくださいっ」
「いや、一ミリも楽しい話題ではないんだが……」
「まあ、殿下ったら。婚約破棄(という大人気ジャンル)の話をしているのですから、普通はもっと楽しめるはずですのに」
「楽しめる要素がないんだよなぁ……」
遠い目をするハンスだったが、妹の登場によって少しだけ冷静になれた気がした。
とりあえずデボラの安否は確認できたのだ。今はそれで良しとするべきだろう。
「婚約破棄って……、あの巷で話題になっている婚約破棄の話ですか!? わぁ、デボラ婚約破棄だぁいすき! もしかしてクリスティーナお義姉さまも婚約破棄に着手を!?」
「ええ。そのつもりです」
「すっごいですっ、デボラも応援させてください」
「デボラ様にも手伝ってもらえたら百人力ですね」
「待て待て待て! ちょっと待ってくれ!!」
妹がクリスティーナと婚約破棄について盛り上がり始めたところで、ハンスは慌てて口を挟んだ。
「どうしました、お兄様。なんだか凄く焦ってません?」
「焦らざるをえないよ! なんで(僕たちの)婚約破棄をデボラが応援するんだ!?」
「妹として当然の義務ですっ」
「そんな義務があってたまるか!! というかデボラも市井で婚約破棄を推し進める動きが起きてたのを知ってたのか!?」
「そりゃあ私だって乙女の端くれですもん。淑女のたしなみとして婚約破棄ブームについては(即売会の)集まりに参加するぐらいには熱中しております」
「そんな婚約破棄を推進する集まりなんかに参加しちゃダメだよ!」
ツッコミ系王子であるハンスは思わず叫んだ。
(まさかデボラも懐柔済みなのか……!?)
戦慄した。既に王家は手遅れだ。
完全に後手に回ってしまっている。
「殿下」
そんな風に被害妄想を拡張させているハンスにクリスティーナが声を掛け、「な、なんだい?」と怯えを隠しながらハンスが返事をした。
「婚約破棄は、いいものですよ」
「そんな爽やかな表情で婚約破棄を薦めないでくれ。……僕には到底理解できそうにない価値観だ」
「殿下が婚約破棄の魅力を理解できていないのは、きっと婚約破棄小説を読み込んでいないからですね。私は今後のことを考え、毎日三冊は婚約破棄モノを読んでいますよ?」
「その婚約破棄に対する熱い熱量はいったいどこから湧いてくるんだ……!?」
布教活動のように語り出すクリスティーナに、ハンスは頭を抱えた。
「とにかく、僕は婚約破棄を認めない」
「そんな!?(私が婚約破棄の小説を書くことを認めないというのですか!?)協力してくださるのではなかったのですか!?」
「婚約破棄以外ならね! なんで婚約破棄を僕が進んで受け入れなきゃいけないんだ!」
「なるほど……、さては婚約破棄アンチですね殿下」
「なんだよ婚約破棄アンチって!? 普通アンチになるだろ!!」
「お兄様サイテーです! 婚約破棄は文学! 断罪は人生ですよ!! 逆張りなんて王族に相応しくありません! 民草の望みを聞き入れ、叶えることこそ王族の役目でしょう!!」
「聞き入れる願いにも限度があるんだよ!!」
「私、お兄様とお義姉さまなら最高の婚約破棄を世に公表できると思ってますのに!!」
「そんなもん世に公表できるかァ!!」
気が付けば二対一になっていた。
どうやら命までは取らないが、婚約破棄はしたいらしい。色々と悲しくなってきた。
「殿下。私は公爵家の娘として、殿下の婚約者として、婚約破棄でトップに立たなくてはなりません」
「そーですよ、お兄様。婚約破棄は国民の夢なんです。私たち王族が先陣を切って婚約破棄の素晴らしさを広めなくては他家に示しが尽きませんよ?」
「もう訳が分からないよ……」
疲れ切った様子でハンスがうめいた。
そしてクリスティーナを見つめる。
「……君は、本当に婚約破棄をするつもりかい?」
「もちろんです」
「いつ何処で公表するつもりなんだい?」
「二か月後の建国記念日に、貴族街で」
「よりによって建国記念日にかぁ……」
ハンスは天を仰いだ。
この国では、建国記念日には様々なフェスタが開かれる。文芸・闘技・演劇など、ありとあらゆる分野の祭典が行われるのだ。
そのどれかで婚約破棄を発表するつもりなのだと、すぐに理解できた。
(建国記念日に新たな王朝を開こうという魂胆なのか、クリスティーナ。……新王朝用に建国記念日を変えるのではなく、政権交代だけさせることで、建国記念祭などの行事日程を変更させないという民への配慮か……。突発的なクーデターなら建国記念祭自体が中止になるけど、知らない間に軍部も民衆も公爵家に掌握されているみたいだし、出来レースとしてスムーズに処理するつもりか)
公爵家の意図を読み解けば読み解くほどに、このクーデターの恐ろしさに気付く。
(僕との婚約破棄を行いたい理由は、旧体制の血を新体制に取り入れないという対外的な意思表明。嫌いじゃないけど婚約破棄をしたいという理由は、そんなところだろうな。そして、現王族は殺さずに軟禁させることで無血での政権移譲であることをアピール。僕らを担ごうという勢力は排除済みか、或いは存在しないのか……。悪政なんかしたつもりはないけど、これは相当に根深そうな話だな)
根も葉もない陰謀に思考を巡らせ、ハンスは嘆息した。
(クリスティーナになら王位継承権を譲るのは構わないけど、クリスティーナとの婚約を解消されるのはイヤだなぁ……)
ちらりと婚約者である公爵令嬢のことを見る。
ピンクブロンドの髪を長く伸ばした少女は、ハンスの視線に気付いたのか、こちらに微笑みかけてきた。
―――その笑顔が、ハンスは好きだった。
(……君が僕以外の男に靡くのは、許せない)
仄暗い独占欲の炎が胸の奥底で燃え上がる。
愛しているのだ。政略的な婚姻関係だったとしても、彼はクリスティーナのことを本気で愛している。
誰よりも深く、誰よりも激しく。
(有象無象に君の心は……奪わせない)
ならばすべきことはひとつ。
―――徹底的に抗うまでだ。
「チャンスをくれないか、クリスティーナ」
「……はい?」
「二か月あるんだ。その間に君の婚約破棄に対する考えを改めさせてみせる」
「殿下……?」
「お兄様……?」
ハンスの決意表明に女子二人は眉根を寄せる。
そして、その日からハンス王子によるクリスティーナへの熱烈な愛のアプローチが始まった。