その街は
ここは少し変わった不思議な街。大小様々な時計台が百以上からある街。
時計台と言えば、ロンドンのウェストミンスター宮殿、モスクワのクレムリン宮殿など有名な時計台があるが、百以上も時計台があるこの街には、そういった有名な時計台は存在しない。それに著名な時計職人がいるわけでもなく、この街に住んでいる人間の殆どが、何故この街にこんなにも多くの時計台が存在しているのか分からない。それに、きっと分かっていてもそれは間違いである。
この街にある時計台の全てに管理人が最低でも一人はいる。それは別に誰が決めたわけでもないが、いつの間にかそうなっていた。
先祖代々受け継いできた家系もあれば、他所から越して来た人に託した時計台もある。まぁ、それぞれにそれぞれのドラマがあるというわけだ。
この街は、その時計台の多さから観光業で生計を立てている人が殆どだ。今日も街は観光客で賑わっている。
そんな街の中心からかなり離れたところにポツリと建っている一つの古びた小さな時計台。その時計台は街の人でも知らないのではないかと思う所に、ひっそりと佇んでいる。
そんな時計台に一人のお客さんがやってきた。
キィィ、と錆びた蝶番の音が響く。
「…いらっしゃい」
中にいたのは本を読んでいたパーマ頭の青年。如何にも仕事熱心といった感じでは無い。現に来店したお客さんに「何しに来たの?」というのを目で訴えている。
「…まぁ、そこに座りなよ」
青年は入って来た二十代前半の綺麗な女性に自分の目の前にあった椅子に座るように促した。
女性は恐る恐る時計台の中に足を踏み入れ、青年に言われた通り椅子に腰掛けた。
「なんで、こんな僻地に来たの? 迷子?」
青年は女性に尋ねた。
確かに、こんな街外れにある、こんな辺鄙な場所に来たならばまず、迷子を疑うだろう。しかし、迷子ではないみたいで女性は何度か首を横に振った。
「それじゃあ、どうしてここに?」
「…じつは噂を聞いてここに来たんです」
「噂?」
「はい、この街の果にある、今にも崩れそうな時計台には『時を巻き戻せる力』があるという噂を」
「あぁ、『時戻し』ね。出来るよ。…それにしても『今にも崩れそうな』っていうのは酷いなぁ」
青年は時を戻せるというバカげた話を否定することなくそう言った。
女性は申し訳なさそうな顔をしながら話を進めた。
「…すみません。私も噂で聞いたので…
あの、実はその『時戻し』をお願いしたくて」
「いいよ。
ちょっと待っててね。書類出すから」
「へ?」
女性は拍子の抜けた声をあげた。
「どうしたの?」
「い、いや、余りにも話がトントン拍子に進むので…
てっきり、断られて、何度か頼み込む展開になるかと思っていましたので」
「あ、そういう展開が好きだったの?」
「いえ、そういうわけでは…」
「はっきりしないなぁ。
まぁ、いいや。これ書類ね」
青年はそう言うと女性に書類を差し出した。その書類には注意事項がズラリと書かれている。
「その書類をよく読んでサインしてね。「よく見ていませんでした」とか「知りませんでした」とか言われてもこっちは責任取れないから」
青年にそう言われたので女性はキチンと書類に目を通した。
内容を大まかにまとめると
・未来には行けません。行けるのは過去だけです。
・過去に戻れるのは人生で一度きりです。
・戻れる日数は何日でも指定できます。ただし、連続でなくてはなりません(例、1981年1月1日から一ヵ月でも二ヶ月でも滞在は可能ですが、1981年1月1日から、急に1981年4月1日に飛ぶ事は出来ません)。
・料金は前払いです(1日、1万フラン)。
・過去に戻ったことを誰にも話してはいけません。どこで、戻れるのかも話してはいけません。
・過去の旅にはガイドも同行させていただきます。
・ガイドから500メートル以上離れてはいけません。500メートル以上離れてしまうと強制的に現代に戻されるか、時間の狭間を彷徨うことになるかの、どちらかになります。どちらになるのかはその場になってみないと分かりません。自己責任でお願いします。
・過去を変える事は出来ません(例、交通事故で死ぬはずの人を過去に戻り、事故を防ぎます。それは可能ですが、その人はその日の内に必ず何かしらの理由で死にます)。
・過去の物を壊すことは厳禁です。例え、葉っぱ1枚でもダメです。もし、故意でも、故意でなくとも物を壊した場合は罰金のお支払いを願います(金額は破損の度合いによります)。
・過去の自分と会うことは出来ません。もし、会うと言うならば過去にお連れすることは出来ません。過去に戻っていた場合は、その時点で強制的に現代に戻っていただきます。
…と、まぁ、こんな感じのことが書かれていた。他にもまだ様々なルールが事細かに記されているのだが、説明していたら日が暮れる。
「それでどうする? もう今から出発するの?」
青年がそう尋ねると女性は首を横に振った。
「いえ、一度、ホテルに戻ります。
それで、準備をしてから、明日また伺おうかと。明日の営業時間は何時からでしょうか?」
「うーん、どうしようかな…
九時頃なら起きていると思うので、それぐらいだったら。
明日、過去に行くんだったら書類は忘れないようにしてくださいね。
それと、このことは誰にも話さないように。これは過去に行く、行かないは関係な事なので厳守してください」
女性は「分かりました」と返事をすると、その時計台を後にした。