最終話
それを携えて、次の日の夜にゲクトのマンションにやってきたカオル。一晩中寝ずに作った楽曲の楽譜を大切に胸に抱え、夜の街を歩いて心を落ち着かせてやってきた彼を、快く迎え入れてくれた愛する人は、カオルが口を開く前に憤慨して声を荒げた。
「あの隆二って奴、気持ち悪い奴だよな!」
「え?」
意外な人物の名前が出てきてドキっとする。どうしてここで奴の名前が出るんだ?
「今日たまたま雑誌のインタビューで行った場所にドリアンクリスの連中もいたんだよ。そしたら、隆二が俺のケツを触ってきたんだぜ。あの噂は本当だったんだな」
「…………」
隆二が男とも寝るという話は確かに有名な話だった。
「何か言われたの?」
おずおずとカオルは聞いてみる。ゲクトの答えは「いや、別に」だった。少し胸をなでおろした。
そうこうしていると、カオルの胸の鼓動は早鐘のように鳴り始め、苦しくてしかたない気持ちにまで高まってきた。早く、彼に自分の気持ちを言ってしまいたい。だが、その彼の気持ちをまったく知らないゲクトは、次に決定的な一言を言ってしまう。
「最低だよな。あんな奴。男が男を抱くなんて気持ち悪い」
「決心はついたか?」
「…………」
カオルはマリスの声にゆっくりと顔を上げる。泣いてはいなかった。何の感情ももう彼の目には浮かんではいなかった。
「それは何だ?」
マリスの言葉にカオルは胸に抱きしめていた楽譜を差し出す。
「もういらない。あなたにあげるよ」
「そうか」
マリスはさっと楽譜を一瞥する。それから何もない空間から胡弓のような楽器が現れ、マリスはそれを奏でだした。それはカオルの作った楽曲だった。
「良い曲だ」
弾き終るとマリスは優しく言った。だが、カオルはまったく反応を見せない。
「彼に聞かせるはずではなかったのか?」
「いいんだ、もう」
「彼を嫌いになったか?」
「嫌いになるはずがないじゃないか!」
そこにきてやっと感情を見せるカオル。乾いた瞳でマリスを睨みつける。
「たとえ彼が僕を汚らわしい存在だと思おうとも、僕の彼に対する気持ちは変わらない。そんなに単純なものじゃない」
「成る程な」
「ただ…」
先ほどまでの強気な声とは打って変わって、沈みがちな声音でカオルは続ける。
「夢を見ただけなんだ。もしかしたら少しは僕の気持ちを受け入れてくれるんじゃないかと。別に彼を抱きたいとかそんなことまでは考えてなかった。そりゃ、僕としては好きになったら抱きたいし、抱かれたい。けれど、それをノーマルな彼に無理強いはできないもの。ただ、僕が彼を愛してるということだけでも理解してもらいたかった。ううん。理解できないまでも、そうなんだと否定しないでくれたならと、そう思ったんだ。けれど、駄目だった。彼は男が男を愛するっていう気持ちを理解できないどころか毛嫌いしていた。到底、僕の気持ちを彼に伝えることはできなかった。僕は、彼に嫌われることが一番イヤだったから」
マリスは何も言わず、彼に喋らせ続けた。
「こんな僕にできることといったらもう彼を毒牙から守ることしかない。そうすることでしか、僕という人間の存在を保つことができない。そう思ったんだ。だから…」
カオルは真っ直ぐマリスを見詰めた。その瞳には強い意志が感じられた。
「僕は決めたよ。僕の命と引き換えに、彼の運命をずっと守って。お願いだから」
その言葉とともにゲクトの意識は戻った。まるで自分がカオルになっていたかのような錯覚を彼は起こしていた。夢を見るというより、自分の意識がカオルに取り込まれ、カオルの痛みや気持ちに同化してしまっていたようだ。
「…………」
ゲクトは泣いていた。あとからあとから涙が溢れて止まらなかった。
カオルの心の痛み。男が男を愛することの激しさを彼は生まれて初めて知った。カオルは確かに好きだった。だが、それは友人としてだった。どんなに美しくても相手は男だ。男を好きになるくらいは自分にもわかるが、女を抱くように男を抱けるかといったら、今でも彼にはそれはできない。たとえ、こんなふうにカオルの気持ちを理解したとしても、それでもゲクトにはできないことだっただろう。だが、今は違う。何も知らないわけではない。今の彼には男が男を愛する気持ちというものが理解できた。
「創造を生業とするお前には大切なことだ」
いつのまにかマリスが傍らに立っていた。自室で座り込んでいたゲクトは顔を上げる。
「お前の放った、気持ち悪い、というそのたった一言でカオルの心は壊れてしまったのだ。何も知らなかったとはいえ、お前の言葉は一人の人間を死に追いやった。それを忘れるな」
マリスはカオルの楽譜をゲクトの傍に置いた。
「お前だけではない。誰でもが自分の放った言葉で誰かを傷つけているものだ。それはもうしかたないことなのだ。言葉とは存在自体がもうすでに誰かの心を動かすものだからな。言葉とはそういうものなのだから。人を生かすこともできれば殺すこともできる。だが、生かすだけでは、殺すだけでは、どちらか一方だけの性質だけでは存在できないものなのだ。どちらも内包されているからこそ存在することができる。そういうものなのだよ、言葉に限らず、この世の全ては。だから、己を責めることはない。責める事はないが、忘れるな、絶対に。そのことは。特に、お前のような創造することで人々の心を動かすことのできる才能を持っている人間はゆめゆめ忘れてはいかん」
「カオルは…」
しわがれた声でゲクトは呟く。
「カオルは死んだ、俺のせいで。謝ることもできないのか…」
「………」
ゲクトを見詰めるマリスの瞳の奥でユラリと銀の炎が揺れた。瞬間、マリスの姿が変化していく。カオルの姿へと。
「ゲクト…」
「やめてくれよ。君はカオルじゃない」
「僕だよ、ゲクト、カオルだよ」
「え?」
「僕は確かに死んだんだけど、魂はずっと生き続けてるんだ。入れ物がなくなっただけで、僕の魂はこの方の中で生き続けてる。不思議だよ。今は特別にこうやってカオルとしての意識が出てきてるんだけどね。死んでから一度もカオルの意識は取り戻せてなかった。たぶん、この方が僕の魂を不憫に思ってくれて、それでこんなふうにゲクトに接触してくれたんだと思う」
「カオル…」
言葉にならなかった。確かにこれはカオルだった。以前とちっとも変わらない彼がそこにいた。
「何も言わずに死んでしまってごめん。本当なら僕の気持ちだって、ちゃんとぶつけなくちゃならなかったんだけど、怖くてぶつけられなかった。卑怯者だった。今回、こんなふうにあなたに知らせて苦しめるつもりじゃなかったのに…」
カオルの声にはマリスへの不満が出ていた。だが、同時にマリスの気持ちをありがたいとも思っているようだった。
「だけど、それでも伝えることができて嬉しかった。嫌われてもちゃんとあなたに伝えるべきだった。本当にごめんなさい」
「謝るのは俺のほうだよ!」
「ゲクト…」
「俺は何にも知らないバカだった。お前をこんなにも傷つけていたなんて!」
「いいんだよ、僕の命で君が救えたんだから。僕は君にこれからも歌い続けてもらいたい、それだけを願っている。できれば僕のような特殊なタイプの人間もいることに思いを馳せてくれたらいい。けれどね、誰かを傷つけるかもしれないと思っても、ためらってはダメだよ。傷つけても自分の表現したいことを止めてはダメだ。さあ、僕はもう行かなくちゃ。最後に逢えてよかった」
「カオル!」
ゲクトの目の前で、カオルの姿が溶けてゆく。そして、現れたのはマリスだった。銀色の髪と銀色の瞳を持つ神の姿へと戻ってしまった。
「俺はどうしたら…」
ゲクトはこぶしを床にぶつけて搾り出すように言った。その彼を、思いのほか、慈愛に満ちた優しい眼で見詰めるマリス。そうやってみると本当に天使のような神々しさしか感じられない。
「お前にできることはカオルの作ったその曲を歌うことだな」
「え?」
突然のマリスの言葉にきょとんとした表情を向ける。
「その歌はとても良い曲だぞ。彼の供養のためにもお前が歌ってやるのが一番だと思うがな。今のお前なら、その歌を心をこめて歌えるのではないかな」
「…………」
ゲクトは傍らに散らばる楽譜を見やる。カオルの心の欠片のように散らばっているように見えたのか、彼は急いで楽譜を集めた。
君だけを見ていた
瞳に映る君だけを
共に笑ったね
共に泣いたね
共に歩いたね
僕は優しい記憶と共に旅立つよ
君にもらった最後の言葉を携えて
暗闇に手を伸ばし探していた君を
けれど僕の唇は音もなく動くだけ
君の耳には届かない
届けたいのに届かない
僕のこの想いは
もう少しだけ勇気があれば
きっと伝えられたんだろう
だから僕は歌う
君に届けと僕は歌う
このetudeにのせて
「ゲクトさーん」
新曲「etude」の披露のための音楽番組で一緒になった薫が、廊下を歩いていたゲクトのところにやってきた。頬をピンク色に染めてまるで女の子みたいだなとゲクトは苦笑する。
「今度の歌すごくいいですね。いや、今までのゲクトさんの歌もみんないいんですけど、今回のは何だかこう切なさ炸裂で」
「何だよ、その切なさ炸裂って」
「それだけ魂が揺さぶられる歌ってことですよ」
薫の言葉に複雑な思いが渦巻く。魂を動かす、か。それが楽しいと思うこともあるが、同時に恐ろしくも思う。他人の心を動かすことは本当にいいことなんだろうか、と。それは人間のやってはいけないこと、神の業なんじゃないか、と。
「だが、あれは俺が作ったものじゃないからね」
「そうなんですってね。今日の収録でも言ってましたよね。特にそのことを強く強調してたみたいだけど。カオルさんのことは僕もよく覚えてますよ。曲作りでは神のような存在だなんて言われていたとか。けれど、ゲクトさんと仕事するようになってからはほとんど楽曲作りはせずに、あなたのサポート役に徹していたって」
(そう。本当は自分などより才能はあったんだ、彼には。なのに…)
「でも、彼の楽曲を歌いこなせたり演奏できる人がいないのが一番残念だとか聞きました。そんな彼の楽曲を、やっぱりゲクトさんですよね。歌いこなせるどころか、もう一段上の段階の仕上がりになってたじゃないですか。さすがだなあ」
「…………」
恐らく、歌いこなせるようになったのも、カオルの気持ちが理解できるようになったからなんだろう。そうじゃなかったら、自分にもあの歌は歌いこなせていなかったはずだ。
(カオル…俺はお前のためにも歌い続けるよ。これからもずっと。お前の分も)
そうゲクトは天井に向かって心で呟いた。そのさらに上の空の上にいるかもしれないと思う神の中の彼に向かって。そんな彼に薫が「あ、そうだ。知ってますか」と声をかける。
「この間、僕に抱きつこうとしてたドリアンクリスのボーカルの人、事故で亡くなったそうですよ」
「え?」
「ギターの人が亡くなったり、ボーカルの人が亡くなったりと立て続けに不幸があって、あのバンドももう駄目ですよね。もっとも、最近ではほとんどライヴとかもしてなかったようだし」
(マリスか…)
恐ろしい存在だなと彼は思う。神というよりは、やはり悪魔と言ったほうが相応しいのではないだろうか。
「薫、君としてはもうちょっかい出されなくてホッとしているってとこなんじゃないか」
「やめてくださいよ、そんな人聞きの悪い。それに、彼だけじゃないんですから。僕、本当に貞操の危機なんですよ」
それを聞いたゲクトはフフンと鼻で笑うと、薫の肩に手を回し、耳元に囁いた。
「俺の恋人になる? そしたら君をずっと守ってあげるよ」
「!」
薫は急いでゲクトから離れると、壁にへばりついて泣きそうな顔をする。
「ゲ、ゲ、ゲクトさぁ~ん。そ、そんな人だったんですかぁ~?」
それを見たゲクトは手を降りながらゲラゲラ笑う。
「冗談だよ、冗談。でもさ、同性愛者のこと、そんなに悪く言うもんじゃないよ。まあ確かに君にちょっかい出したような奴だけじゃなく、ああいう手合いには女相手でも似たようなことをするクソはいるからな。だが、同性愛者にも純粋で真剣な気持ちを相手に持っている奴だっているんだってことは忘れるな」
最後のほうは真剣な顔でゲクトは言った。それを感じ取った薫も神妙な顔つきで答える。
「そうですよね。どんな人間でも差別は良くないし。それ言ったら人間ともいえないジョーと付き合っていくこともできないしなあ」
「一度逢ってみたいな、スクーター・ジョーにね」
「すぐに逢えますよ。あなたが本当に逢いたいって思えた時に」
「何だよ、それ」
薫は意味ありげな笑顔を見せるばかりで、それ以上は何も言わなかった。
もう少しだけ勇気があれば
きっと伝えられたんだろう
だから僕は歌う
君に届けと僕は歌う
このetudeにのせて