第2話
「お願いです。あなたの言うとおりにしました。だから、彼には手を出さないでください」
ホテルの一室。乱れたベッドの上でカオルは懇願した。彼が懇願した相手は隆二といった。バンド、ドリアンクリスのギター担当の男だ。隆二はタバコに火をつけると口の端をゆがめた。
「さあな。お前がこれからも俺の言うことを聞けば考えないでもないが」
「…………」
カオルはうつむくと唇を噛んで黙っていたが、しばらくして「はい…」と力なく答えた。それを満足そうに目を細めて見詰める隆二。
「ほんとにお前は奴のことが好きなんだな。まあ気持ちはわからんでもないが。俺が思わず手ぇ出しちまいそうなくらいの男だからなあ」
「絶対に彼には手を出さないでください。何でもしますから!」
「はいはい。まあ別に俺はお前でもいいんだけどね。奴とはまた違った魅力のある男だし。それにしても、ほんとゲクトは愛されてんだねえ」
「…………」
カオルは再びうつむくと、一粒涙を流した。
「今夜は月が綺麗だな」
ゲクトが呟いた。それを聞いたカオルが頷く。
ホテルでの意に沿わぬ情事のあと、カオルは自分のアパートに戻ったのだが、そこにはゲクトがやってきていた。そういえば今度の新曲を一緒に作ろうと約束していたことを彼は思い出した。こんな気持ちのままいいものが書けるだろうか。彼は少々不安に思ったが、だが、ゲクトと一緒に曲を作るのは好きなので、何とかさっきまでのことを忘れようと思った。
「月ってさ、まるでゲクトみたいだよね」
「そうかな。じゃあ星はカオルみたいだ」
「僕、そんなにキラキラ輝いてないよ。僕は穢れた人間だから」
暗く沈んだ気持ちでそう答える。彼には絶対に知られたくない。自分の気持ちも、自分が彼に隠してやってることも。
そう。カオルは同性愛者だった。そういった人間は、どうしても似たような人種を引き寄せてしまう。彼を意のままにしようと思ったかつての教授、そして、今回の隆二にしても。だが、カオルはゲクトを愛してしまった。ゲクトはまったくのノーマルな男であり、カオルは自分の気持ちは絶対に叶うことはないとわかっていた。ただ一緒にいられるだけでよかった。そのためには何でもするつもりだった。
「じゃあ、また明日な」
「うん。また明日」
そう別れの挨拶をして、ゲクトはカオルのアパートを後にした。それを悲しい思いで見つめるカオルだった。ずっと一緒にいたい。このままずっと。そのために、自分はあの男の言いなりになる。ゲクトとずっといるために。ゲクトを奴の毒牙から守るために。
君だけを見ていた
瞳に映る君だけを
ふいにカオルの口をついて出るメロディ。
暗闇に手を伸ばし探していた君を
けれど僕の唇は音もなく動くだけ
君の耳には届かない
届けたいのに届かない
僕のこの想いは
もう少しだけ勇気があれば
きっと伝えられたんだろう
だから僕は歌う
君に届けと僕は歌う
「お前の願いを聞き遂げよう」
カオルの歌声が途絶えた。彼の目の前に立つ者がいた。それは音神マリスだった。
「どういうことですか?」
カオルは静かにマリスを見詰めて言った。
「ほう。私を見ても驚かないのか」
「僕には驚くことはもうこの世には何もありません。あなたがもし悪魔でもどうでもいいことなんです、僕にとっては」
「気に入った」
マリスは満足そうに頷く。カオルを見詰めるマリスの視線は、あの隆二とそっくりだった。カオルは知らず震えた。何故か恐怖を感じた。それは隆二に感じた怖さとは違う、もっと根源的なDNAに刻まれた恐怖だった。
「お前は愛する男を守りたいと本気で思っているか?」
すると、マリスはそう彼に問うた。その問いにカオルは強く答える。
「はい。僕の命にかえても」
「そうか」
先ほどまで見せていた卑猥な視線とは違う、まったく感情の表れていない目をカオルに向け、マリスは言葉を続けた。
「では、お前の願いを聞き遂げよう。彼、ゲクトをお前の命で守ると我は約束しよう」
「え…いの、ち?」
「この世界では悪魔の契約とも言うようだが、一人の人間の運命を保証するのだ。等価交換で彼を救うためにお前の命を所望する」
「…………」
「断っても良いのだぞ。その時は彼の安全は保証せぬが。あの隆二という男はやっかいだぞ。お前の手に負える男ではない。約束など平気で破る男だ。だが、我は違う。さあ、選べ。我が名はマリス。我を信用して契約するか。それとも己の非力を嘆いて愛する男をどん底に突き落とすか」
カオルに選択の余地はなかった。だが、それでもためらう気持ちが出てきてしまうのはしかたがない。
「一日だけ待ってもらえますか」
「良かろう。私は一向に構わぬ。気持ちが決まれば私の名前を口にするがよい。どこにいようとも私はやってくる」
マリスはそう告げて消えていった。一人部屋に残されたカオルはしばらく茫然と床に座り込んでいた。それから、のろのろとした動きで電子ピアノに向かった。
「…………」
しばらく、鍵盤をうつろな瞳で見詰める。
(僕の気持ち…あなたを愛しているという気持ち…)
初めて彼に逢った時に、どうしようもなく彼に惹かれた。
カオルは目を閉じる。ゲクトの笑っている顔が瞳の奥に浮かび上がる。閉じられた瞼から涙が流れた。彼にはこの気持ちは理解できないかもしれない。男が男を愛するという気持ちを。確かに、彼は男と男の友情をこの上もなく大切にしているが、男が女を愛するように男が男を愛するということと男の友情は恋愛とは違う。だから、きっと彼も同性同士の愛情を理解できないだろう。それを理解できないのは何も彼だけではない。今までにも理解を示してくれた者はいなかった。少なくとも自分の周りには。考えたくもないことだが、一番理解できるとしたら、隆二だけだろう。だが、奴は男だけじゃない。女も同じように愛することができる人間だ。自分のように女を愛することができない半端ものとは違う。
「僕の想い…どうしようもないこの気持ちを…」
知らず手が動いていた。ポロロンと響くピアノの音。届くだろうか、この想い。彼に本当の気持ちを届けてみたい。
カオルは、楽譜にメロディを綴り出した。一心不乱に書き続けては歌う。そして、出来上がった楽曲のタイトルは「etude」彼なりの愛情表現だった。