第1話
「やめてください」
「いいじゃねーかよ」
とある音楽番組の収録が終わって、ゲクトが廊下を歩いている時だった。そんな会話がどこからか聞こえてきた。階段の陰からだった。また誰かアイドルの子が糞野郎にでも言い寄られているのかと彼は思い、しょうがないなあと助けようと二人に近づいた。
「なんだ、薫じゃないか」
「あ、ゲクトさん!」
薫は抱きつこうとしている男を押しのけると、急いでゲクトの傍に駆け寄った。
「………」
ゲクトは男を睨み付けた。
(こいつ…)
ゲクトがこの世界で売れるようになる前に多少人気があったバンドのボーカルだった。今はほとんど売れずに、時々バラエティ番組に出るくらいしか仕事がないはずだった。ゲクトは、睨んだまま静かに言った。
「今度、薫に手出したら、俺、黙ってないから」
「チッ、覚えてろよ」
男は捨て台詞を残すとその場から立ち去った。
「ゲクトさん、ありがとう」
「災難だったな」
ゲクトの言葉に薫は困ったように苦笑した。その顔を見ながら、彼は誰かに似ているなと思う。
(ああ、そうだ。あいつだ。そういえば、あいつもカオルっていう名前だった)
「お前ってさ、いつも男に言い寄られてるって感じだよな」
「やめてくださいよ。そういうのすごく迷惑してるんですから。それに、ゲクトさんだって、女の人だけじゃなく、男の人からもけっこう言い寄られたりしてるんじゃないですか?」
「まあね。まったくないとは言わないよ。今はそうでもないけど、昔はよく嫌な目に遭ったりした。だけど、いつの頃からか、そういうのパッタリなくなったなあ」
「へえ、そうなんですか。うらやましいです。僕も早く男じゃなく女の子から言い寄られる男になりたいなあ」
(そうだ。あんなに男に言い寄られていたのに、いつだったか、まったくそういうのがなくなったんだ。あれは、そう、あいつがいなくなってしまう少し前のことだった…)
カオルはゲクトがデビューする時に初めて紹介された男だった。キーボード担当だった。ゲクトもピアノは弾けたが、カオルは音大に通っていたということもあり、ピアノの腕は一流だった。だが、ピアニストにはならず、ゲクトの所属する事務所に身を寄せていた。そこからゲクトがデビューすることになり、彼の率いるバンドにカオルもキーボードとして参加することになったのだ。
「カオルのピアノ、本当に好きだったなあ」
カオルがピアノを弾いて、それに合わせて歌った昔の歌を引っ張り出してきて、自宅のソファーに座り、聞いていたゲクトだった。その音源はカオルと二人で作ってすぐに試しに録音したもので、もちろん、CDとして完全版は売り出したものだった。と、その時。
「え?」
いきなりどこからともなく何枚もの楽譜が降ってきた。彼は慌てて上を向く。何もない。そこには天井があるばかりである。だが、周りにはバラバラになった楽譜が散らばっている。彼はそれを拾い集めた。見ると、音符と歌詞が書かれてあった。手書きだ。
「この字は…」
「そうだよ。それはカオルの作った歌だ」
「!」
ゲクトは心臓が止まりそうになるほど驚いた。そこにはカオルがいたからだ。
「カオル?」
白い顔。赤い唇。サラサラとした肩まである薄茶色の髪。ほっそりとした首筋は、まるで女の首のようだ。ゲクトをじっと見詰める瞳も薄い茶色で、まるで外国の美少年のようなそんな雰囲気を漂わせている。
(そうだ。カオルは本当に美しい男だった。噂では、カオルがピアニストになれなかったのも、この顔のせいだったとも聞く。彼を指導していた教授が無理やり手篭めにしようとして、それを拒絶したからだとか。確かに、その噂は本当だったんじゃないかと思ってしまうよな、この顔を見ると)
だが───
「お前はカオルじゃない。彼は死んだんだ。それともお前はカオルの幽霊か?」
ゲクトの言葉にクスっと笑うカオル。笑い方までそっくりだとゲクトは思った。
「僕はカオルじゃないよ。君にわかりやすいようにこの姿で現れただけだ」
「ああっ!」
カオルの姿をしたものが、だんだんとその姿を変えていく。まるでCGをリアルに見ているようだった。薄茶色の髪や目が銀色に変わっていく。髪の毛はどんどん長くなり、床をまるで川の流れのように伸びていった。顔の造形も変化していく。カオルも美しい顔をしていたが、変化していく顔はもっと恐ろしいくらいにこの世のものとは思われないほどの美しさだった。まるで神のような美しさ。そして、完全に変化を遂げたその人物の整った唇が開いた。
「私はマリス。音を司る神、音神マリスだ」
「音の…神だって…?」
ゲクトの驚きように満足したのか、マリスは艶然と微笑み言葉を続けた。
「そうだ。とはいえ、もともとはこの世界の神ではない。ただ、私は、別の世界からよくこちらには来ていたのだよ。その時に、私はカオルという存在を知った」
「べ、別の世界の…神?」
ゲクトは混乱していた。いったい何が起きているんだ? これは夢か幻か?
そんな彼を無視したまま、マリスは続ける。
「カオルのピアノの音色は素晴らしかった。バンドのキーボードで終わらせるにはもったいないくらいだった。だが、彼はそれを心から望んでいたようだ」
「え?」
マリスは少しづつゲクトに近づく。その姿が再び変化し、カオルの姿に戻っていった。マリスの姿はゲクトと同じくらいの背丈だったが、カオルは少しだけゲクトより背は低かった。だから、ゲクトの傍にやってきたカオルの姿に戻ったマリスは心持ち顔を上げて彼を見上げる。思わずドキリとする。
(カオルは綺麗な男だったが、こんなに色っぽかったっけ?)
やはりこれはカオルではない。ゲクトはそう思った。
「お前はカオルの本当の気持ちを知らない」
「本当の気持ち?」
マリスは彼の手に持たれた楽譜を一枚取るとそこに書かれていた歌詞を歌う。
君だけを見ていた
瞳に映る君だけを
共に笑ったね
共に泣いたね
共に歩いたね
僕は優しい記憶と共に旅立つよ
君にもらった最後の言葉を携えて
なんて声だとゲクトは驚嘆した。マリスの声音は人間のものじゃない、確かに。こんな声は聞いたことがない。
「それは当たり前だ。私は神なのだから」
どうやらゲクトは知らず「素晴らしい」と呟いていたようだ。それを聞いてマリスは答えて笑った。
「だが、カオルのピアノも神業だと思ったぞ。そして、お前の歌声も」
「俺の?」
ゲクトは何となくくすぐったく思った。こいつが本当に神なのかどうかは知らないが、褒められて悪い気はしなかった。
「まあ、私には負けるがな」
「…………」
前言撤回。ものすげー嫌な奴──心で悪態つくゲクトだった。すると、カオルの姿をしたマリスが手を振った。
「お前に教えてやる。彼の真実を。しっかりと見ておけ」
「ああっ!」
その瞬間、すべての光が失われ、真っ暗になった。あたりに手を伸ばしてみても何もつかめない。歩いてみてもどこにもたどり着けない。自分の身体を改めようにも自分の姿さえもまったく見えず、自分の手で身体を触ろうにもつかむことができない。
「うわああああ!」
彼は半分恐慌状態に陥っていた。だが、そんな彼の目に光が見えてきた──と思った瞬間。それは見えた。おぞましい光景が。
思わず目を覆いたくなるような光景。それは、カオルが男に抱かれているところだった。その男はどこかで見たことがある。ああそうだ。薫に手を出そうとしていた男のバンドに昔いた男だ。確かギターをやってた男だ。カオルが死んだすぐあとに交通事故で死んだと聞いた。
(とにかく真実を知るのだ。お前には知る義務がある)
マリスの声がどこからともなく聞こえる。そして、あまりにも悲しい物語がゲクトに知らされることとなった。