コンテンツとして消費する
映画やドラマで人の死に遭遇した俳優をオーバーリアクションだと冷めた目で見ていた。役に感情移入して泣くって何だよ、と一度も辛い思いをしたことのなさそうなイケメンのインタビュー動画を眺めていたこともあった。
人を失った悲しみを感じられないのは、その人の死を自分から引き離していたからだ。本当に人の死が自分と地続きになったときに初めてわかる感情もある。
修一の事故はあっという間に校内に広まった。3年前に建て替えたばかりの体育館の設備が老朽化することは考えにくかった。
生徒、先生、警察、自分とは関係のない人ばかりが晋太郎に話を聞きたがった。この人たちは修一の事故をコンテンツとして消費したいだけなのだ。
だが、自分も同じだったと思うと吐き気がする。
自分とは遠い世界で繰り広げられる殺人事件。芸能人の不祥事。世界情勢。本当の意味での当事者は、片手で数えるほどしかいない。
そして、あろうことか本当の当事者であるはずの春人は、目の前でのろけ話をしている。
こいつもコンテンツとして修一の事故を消費しているのではないか。
晋太郎は春人に対する疑念と、溢れそうな言葉を押さえつけるのに必死だった。