図書室の短剣符
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うおっ、どうしたんだいこーちゃん、こんなにずらずら記号を書いた紙並べて。
――最新の地図記号一覧? なるほどねえ、最近、外国人の観光客が増えてきたし、彼ら用に新しく設けた記号込みってことか。
しかし、昔からの地図記号と比べると、何というかこう「ひゃひゃっ」と書けてしまうものが少ない印象だね。ホテルとかトイレとか、塗りつぶし必須じゃないかい? このデザインだと。
でも、それはあくまで書く側に回った時の都合。見る側としてはシンプルだろうが手が込んでいようが、ぱっと見て、判断がつきゃそれでいい。でも不平等感はつきまとうよねえ。何時間、何日も頭ひねって生み出した自作が、即興で作られた他作に後れを取っちゃうと、やりきれない気持ちになるよ。
冷静になれば、その場で作った人だって、事前にこちらを上回る修練を積んでいたがゆえに生み出せたのかも、と考えられる。けど、溜まったうっぷんが爆発するのも、また一瞬だしなあ。「ぴーっ」と湯気吐いちゃったら、何をするかわからない。
――おっとっと、つい話がそれちゃった。こーちゃん、今は記号について調べているんだったよねえ。なら、僕が昔に体験した、記号をめぐる話を聞いてみないかい?
僕が小学校の6年生の時だ。朝読書の時間が終わると、先生から呼びかけがあった。
「もし家にある本たちで、今はもう読まないものがあったりしたら、学校に寄付してもらえないかな? 図書室とか学級文庫に置いて、みんなに読んでもらえたらと思っているんだ。機会があればぜひ」
古本屋のようなことをいう。普通、そういうのは市費とかをもらって調達してくるものじゃないのか、と僕は思ったさ。
でも、僕の家には古い本がだいぶある。かつては僕の親、おじさん、おばさんが暮らしていた家。独立する時にここへ置いたままにしていて、何年も開かず、そのままにしてあるらしかった。
僕も勝手に読ませてもらっていて、読破したのも何冊か。まだ紙質の低いわら半紙に印字してあり、古本ならではの臭いを漂わせているブツも多い。僕は親に学校で聞いたことを話し、相談の上で、もう誰も読まないだろう本たちの中から、低年齢向けのものをチョイス。さっそく学校へ持っていくことにしたんだ。
翌日。クラスで本を持ち寄ってきたのは、僕だけだった。朝学活で先生に報告すると、休み時間に図書室へ持って行って欲しいと告げられ、それに従う。
今日から期間限定で各教室のプレートが、学校の中学年が画用紙で作ったものと取り換えられていた。僕たちの「6-2」に関しては、数字の周りを満開のひまわりの花が取り巻いるという具合だ。書き手の性格がもろに出る。
それがここでは「図書室」の文字を挟み込み、「†図書室†」という形で鎮座している。これには僕も失笑を隠せなかったよ。インターネットのハンドルネームで似たようなものを見かける。
いつもなら図書委員が待機しているカウンターに、今日は珍しく司書の先生が待機している。何度か会ったことはあるけれど、実際にカウンター業務をしている姿は初めて見た。
カウンターの脇には、分類のラベルが貼られていない古めの本の山が二つ。おそらく僕以外で寄付に動いた人だろう。持ってきた本を渡すついでにちらりと見たところ、家にあったシリーズ本の欠巻が混じっている。
いいところで話が途切れてしまい、続きが気になっていたところ。古くかつ訳本のためなのか本屋や図書館では置いておらず、探していたものだ。本好きの食指が動き出す。
その場で先生に相談したところ、まだラベルをつけていないから貸し出しは許可できないとか。代わりに放課後だったら図書室を開けておくから、そこでなら読んでもいいよとのこと。ただし、いくつか守るべき条件を出される。
部屋を出るまで、終始静かに本を読んでいること。
誰かが来ても、その邪魔をしないようにすること。
明日も先生はここにいるから、休み時間に読んだ本について報告することの三点を守ること。そうでなければ許可できない、と。
先に挙げた二つの条件は、図書室を利用する上で当たり前だけど、最後の報告とはどういうことだろう。特に委員会に入っているわけでもないのに。
時計を見ると、もう昼休みの終わる時間。きびすを返す僕に、司書の先生は小さく「気をつけなよ」と声をかけてきた。その時は教室に戻る時に、怪我しないようにしなよ、という意味合いだと思っていたんだ。
放課後。僕は図書室へ直行した。あの欠巻は昼休みに見た時と同じ、本の山の一部になったまま。ただ本たちはいずれも、背の下部に青いシールが新しく貼られていたよ。そこには入り口のネームプレートにもあった「†」のマークがマジックで書かれている。
――もしかして、あの先生の趣味なのかな、この記号。
室内には利用者も図書委員の姿もない。前者はたまたまだとしても、後者は珍しい。
トイレにでも行っているのかなと、僕は本を手に取り、近くの椅子に座って読み始めた。昨日のうちに前巻を見直していたから、スムーズに入ることができる。そして相変わらずの読みやすい文章。ありがたい。
僕がどんどん読み進めていくと、不意に手近な図書室の戸が開く音。委員が帰ってきたか、新しい来客か。僕は本から顔を上げないままだったが、少しおかしい。
上履きを履いているなら、ゴムでできた底が床をこする音がするはずだ。仮に靴下だけだったり裸足だったりしても、経験上、小さな音や揺れを感じるのに、それがない。
横目でドアを見た。開けっ放しになったドアの向こうには、見慣れたリノリウムの廊下が伸びている。そこにも人の気配はない。カウンター、壁の本棚、書架と目を移していくが、やはり誰も……?
そう思いかけた矢先、自分の両足が「つつ」となでられた。
指とか肌でじゃない。毛でだ。ふさふさで柔らかい毛並みが僕の足元を過ぎ去っていく。「なんだ?」と机の下をのぞきかける直前に、それは机の下から姿を現したんだ。
全身を小麦色の毛で覆った犬。しかも、僕が背中に乗れてしまうほどの大きさを持っていたんだ。首輪はしていない。
――なんで学校に犬が? 誰も気づかず、図書室にまで入ってきたのか? ここ、三階だぞ?
次々と疑問が湧いてくる中、机の下から完全に出た犬は、手近な本棚の最下段を見つめながら、顔を左右へ振る。その様子を眺めながら、初めて僕は、本棚に並んでいる本たちがいつもと違うもの。そしてもれなく、あの「†」マークの描かれたシールが貼られているのに気が付いたんだ。
やがて犬は一冊の背を口にくわえ、一気に引き抜く。ほこりがあちらこちらにへばりついたそのくたびれた本を、鼻先で開いた。そのまましばらく、顔を押し付けながらページをめくっていたものの、いきなり大口を開いて、本に噛みついたんだ。
僕はつい「あっ」と声をあげかけて、口を押さえる。声に合わせて、犬がこちらをにらんできたからだ。くわえた本の表紙に鋭くとがった犬歯が何本かかかっている。下手に機嫌を損ねると、あの歯が今にも僕に向かってきそうで、鳥肌が立ってくる。
僕が目を逸らすと、ややあってまた本を頬張り始めたようだ。紙がちぎれる音、それを咀嚼する音が無遠慮に大きく響いてくる。「今度、気に食わねえ態度をとったら、こうだぞ」と暗に脅されている気がしたよ。
もう、ここにはいられない。僕は犬を刺激しないよう、静かに席を立つ。読みかけの本を山の中へ戻すと、足音を忍ばせてそっと部屋を出る。廊下に出ても同じくだ。あの犬に追いかけられたら、逃げられるとは思えない。
紙を引きちぎる音がすっかり聞こえないところまで来ると、僕は全速力で昇降口に駆け出していたよ。
翌日。朝一番に登校した僕は図書室へ直行した。そこには掃き掃除にいそしむ司書の先生の姿。床に散った紙くずを、ほうきとちりとりを使って集めている。
室内へ目を走らせた。昨日、ざっと見ただけでもすき間なく埋まっていたはずの本棚に、ところどころ抜けが見受けられる。きっとあの犬の仕業だろう。穴は上段にも見られ、棚の出っ張りを使って駆け上る、あの犬の姿が思い浮かぶ。
司書の先生は僕を見つけると、掃除の手を止めた、そばの椅子へ座るように促してくる。僕が昨日の顛末を伝えると、驚いた表情をする。「そこまではっきりと姿を見せるとは、予想外だったなあ」と。
先生は僕の見た犬を二ホンオオカミだと話し出して、耳を疑ったよ。二ホンオオカミは20世紀の初頭に絶滅してしまったと伝わっている生き物だったからだ。そう話す僕の言葉にも、先生は大きくうなずいた。
「君の言う通りだ。あの二ホンオオカミは、もはやこの地にいないもの。君に分かりやすく言えば、幽霊というところか。それが放課後のこの場所へ現れたのだ」
先生は語る。あのオオカミの幽霊は、肉の代わりに本を食すのだと。理由は分からないが、先生の推測だと、幽霊は腹が減ることがない分、手持ち無沙汰になるのではないかと。あのオオカミの場合、それが知識の方へ向き、行動を起こしたのでは、と。
オオカミがここにやってくる時期を、先生はおおよそ察することができるみたいだけど、そのたびに貴重な蔵書をむさぼり食われてはたまらない。そこで各家庭が「死蔵」している古書を引っ張り出し、「死者」たるオオカミに食べさせているのだとか。
「誰にも構ってもらえなくなった本。下手をすれば何年、何十年と捨て置かれ、ゴミとして捨てられるか、傷みすぎた末にぼろぼろになるかのどちらかだ。ならば、共に死出の道連れとするのがいいのではと、先生は思うんだ」
あの「†」のマークは、死者を表すものだという。あれをつけることで死者たるオオカミに捧げる本だと区別しているとか。そしてネームプレートのように「†」で前後を挟んだ場合、中の言葉は絶滅したものを指す。
つまりここが今は、絶滅者の図書室となっていることを暗示しているんだってさ。